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個性を発揮することは秩序を乱すことではない

東洋経済オンラインで、ミッツ・マングローブさんのインタビュー記事「個性は努力で育たない」を読んだ。

セクシャルマイノリティの話にも触れながら、「多様性中毒」を危惧し、個性は親がおだてて伸ばすものじゃなく、やめなさいと言ってもにじみ出てしまうもの、社会のルールを親がきっちり教え、ある程度抑えなければならないという内容を話していた。

まとめ方やとらえ方(それに記事の書き方)もバイヤスが入ると思うので詳しくは記事を読んでほしい(https://toyokeizai.net/articles/-/304669)のだけど、読んでから、個性ってどうすべきものなんだろうとしばらく考えていた。

タイトルの「個性は努力で育たない」は、頷ける。

個性ってそれぞれが本来持っているものだから、親がどんな個性の子に育てたい、と思うようには育たないとは、思う。影響はするけど。

確かに昨今、多様性や個性をちやほや扱っている様子もある。はみ出たもの勝ち、というかルールから出るのがかっこいい、というような扱いもある。そんな状況で、個性発揮=迷惑、と思われてしまう雰囲気もある。

そんなだから、個性やアイデンティティを強く意識しながら抑えて抑えて大人になってから発揮させたミッツさんは、ちょっと違うんじゃないかなと感じられたのだろうかと考えた。

ただ、ミッツさんはこどもの頃の海外生活もあり、日本以外の教育を体感しているし、アイデンティティについても自問する機会が比較的多かったんじゃないかなと思う。そして、それこそ本来持っている性格によるところも。

日本の教育現場は、「個性を大切に」と言っている今現在でも、個性の芽が小さいうちに箱をかぶせて、「個性と自分勝手は紙一重~!」とおまじないを唱えて育てているように感じる。

育てている先生も、そうやって自分の個性を思いっきり爆発させたことのないまま教える立場になっている人が多いから、個性を発揮させるということがどういうことかわからないし、教室をスムーズに進めるには形の揃った、空気を読める子たちが楽だろう。

箱に入れられておまじないをかけられた苗は、訳も分からずルール違反に怯えながら成長し、本来自分がどっちの方向に葉を伸ばし、どこまで高く成長するのかわからないまま、四角い箱の中しか知らない。箱の中には同じ種類の植物だけがあって、ちょっと大きかったりひょろひょろしてたりするのがあって、それが個性だと思っている。

ふと、外にぼーぼーに生えまくった雑草を見つけて、風になびいて太陽にあたって、うらやましい反面、虫もついて葉も食われて犬におしっこかけられてやだな、なんて軽蔑したりしちゃう。

18年間ずっと箱の中で育った苗が、「はい、大人だから自由にやっていいよ、爆発していいよ、個性を発揮して、クリエイティブに生きなさい」なんてアマゾンに放たれても、発揮できるわけがない。自虐しながら細々生きるか、大きな木に絡まって伸びていくか(それもよしだけど)、日が当たらずに枯れる。

だったらずっと同じ植物を育てるビニルハウス内で生きていくのが楽かもしれない。

たとえ話が長くなってしまったけれど、個性豊かな子どもや大人は、ルールを破ったり人を傷つけたり、迷惑行為をするのを楽しんだりするわけではない。

だって、個性を伸ばすことと社会のルールを教えたり、人や自然を大切にすることを教えるのは同時にできるし両立することだから。

個性がとても尊重されている南米のある国で、自信をつけられて育ったうちの子たちは、人と一緒であれば安全、無難が最適、という価値観は持っていないけれど、自分が好きなことをもっとやりたいし上手になりたいと考え、表現にはいろいろな方法があることを知っている。

個性を発揮してなくても社会秩序やルールを破る人はいるわけで、個性の尊重を社会秩序の崩壊と結びつけるのは違うと思う。

きっと、日本がこれまで個性を殺しすぎていて個性が何だかわからなくて怖がっている人が多いんじゃないだろうか。閉じ込められていたうっぷんをはらすように個性を爆発させようとするから、反動で人に迷惑をかけることが起きてしまうんじゃないだろうか。

だからこそ、子どものうちから自分の個性を知って、人の個性を尊重して生き方を模索するのはとても大切な課題だ。どうやってこの多様な種がひしめくアマゾンで太陽を浴びれるように成長できるか自分の特性を生かして試行錯誤する。それこそが、まわりの豊かな自然(社会)の一部として生きることになるのだと思う。

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