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Ⅺ 関西人は嫌だ!福島に帰りたい!

 野上小学校に通うようになった3人の子ども達は、毎日楽しそうに過ごすようになりました。和歌山の子ども達は人懐っこく、大勢入れ替わり立ち代り来てくれて、うちの子たちはまるでヒーローのようでした。3学期の終わりに3日間だけでも学校に行けたので、春休み中、こっちで出来た友達と遊ぶことができました。子ども達は、「和歌山に来て良かった!」と喜んでいました。
 しかし、時間が経つにつれ、周りの子も飽きてきたのでしょうか、本当に気の合う子以外は寄ってこなくなってからが試練の時でした。ちやほやした反動もあったのでしょうか、いじわるを言う子や、どついたりする子も出てきました。
 一番適応していたのは小3の娘ですが、小6と小5の兄達は大変でした。幼稚園までは奈良に住んでいたとはいえ、その後福島で5年間小学生時代を過ごしたので、すっかり東北人になっていたのです。関西人のノリについていけず、何か月も苦労していました。
 東北の子ども達は概して大人しく、口数も関西人ほど多くありません。もちろん、子どもらしくのびのびしていますが、関西の子に比べたらおっとりした感じだと思います。
 関西人は吉本新喜劇を観ても分かるように、口が悪かったり、どつくなどのボディーランゲージが豊富だったりしますが、決して悪気があるわけではありません。しかし、慣れていない長男と二男は、級友たちが何気なく口にする「アホ、死ね」という言葉や首を絞めたり蹴飛ばしたりというボディーランゲージにいちいち傷ついていました。動きが激しいのにも疲れていました。
 特に、周りに合わせるのが上手な長男は、学校では楽しそうに振る舞っても、家に帰ると、「疲れた。すっごくイライラする。公園でボールを思いっきり投げて叫びたい。」「関西人は軽すぎるねん。何か言ってもすぐ笑うし、嫌なことを平気で言ってくる。」「福島の方が良かった。」と、毎日暗い表情で言うので心配しました。
 もともと大人しく、個性的で社交的ではない次男は、何か月も友達が出来ませんでした。「僕は変わってるから嫌われてるんだ。」「しゃべろうと思っても、こんなことを言っていいのかと深く考えてしまい、しゃべれないんだ。」とぼやいていました。「いつになったら福島に帰れるの?」と聞き、大人になるまでは駄目、と私に言われるとがっかりする、なんて事を何回も繰り返していました。
 私は、担任の先生にはそんな子どもの様子を伝えて配慮をお願いしたものの、見守るしかないと思っていました。いくら福島の方が良かったと言われても、毎日まだ大量の放射能が原発から放出されている福島に帰すわけには行かないと思いました。子どもたちも帰れないと分かっているから余計、つらかったのでしょう。
 ただ、子どもたちが「嫌だ」「つらい」という気持ちを言葉にして出してくれるだけ良いと思っていました。つらい気持ちを抱え込んでしまわないでほしいと、とにかく聞き役に徹しました。
 長男と次男にようやく友達が増え、表情が明るくなり始めたのは1学期の終わりから2学期の始め頃でした。次男と娘はすっかり和歌山に慣れたようです。
 しかし、長男はまだなじめないらしく、ずっと、「こっちの子はすぐばかにして笑う。」「1日に10回くらい叩いたり蹴ったりする。」と嫌がっていました。私はその話を日頃聞いていたのですが、友達ともよく遊んでいたのでそれほど深刻には受け止めていませんでした。
でも、3学期に入って、長男が夜布団にもぐって声を上げて泣く日が出てきて、初めて彼の深い傷を知りました。
ぽつぽつと話してくれたところによると、「学校にいる間ずっと泣くのを我慢しているんだ。」と言います。その言葉に私は衝撃を受けました。
 長男は、福島から徹夜の避難の時に経験した頭痛と呼吸困難も時々出るようになっていました。私はPTSDではないかと思いました。
 担任の先生や校長先生に相談すると親身になって対応していただきました。何日か不登校になり、登校した日にやんちゃ坊主に「福島泣き虫」と言われてまたへこんでしまいましたが、先生方のおかげでなんとか気持ちも回復しました。
 和歌山の子どもたちも悪気は全くないのですが、軽い気持ちで言ったりボディータッチをしたりすることが人を傷つけることもあるというのが想像できなかったのでしょう。私は、彼らに、「もし自分が、突然、家から出なきゃいけなくて、もう2度と帰って来られないとしたらどうかな?親友とももう一生会えない、お父さんとも1年に2回しか会えないとしたらどう思う?紀美野町にもう戻ってこれないとしたら?うちの子たちはそういう経験をしているの。自分の立場に置きかえて想像してみて。」と伝えてみたいと思いました。
 福島から避難した友人の子どもたちも、5,6年生の子は学校に適応するのが大変で、「帰りたい。」と泣くというのを聞きました。やはり、高学年の子どもほど、新しい環境に適応するのは難しいようです。
 それでも何人か仲の良い友達ができ、長男と次男は陸上クラブに、娘はバレーボールクラブに入り、練習を頑張り始めました。3人とも体が丈夫になり、しっかりしました。福島でも洗濯物干し、配膳や自分の食器洗いは子どもたちの仕事でしたが、和歌山から洗濯物たたみ、お風呂洗いも加わり、時々は食事も作ってくれたので、本当に助かりました。
 翌年から、和歌山に慣れたせいか、諦めたのか、福島に帰りたいと一度も言いませんでした。

 ただ、長男は、年末の特番や震災一周年の特集で津波や原発事故の映像が流れると呼吸困難になり、布団の中で咽び泣くという事が度々あり、心配していました。

 でも、翌4月に中学校に入学して学校の配慮で小学校の時の親友と同じクラスにしてもらい、親友と同じ吹奏楽部に入ってからは毎日本当に楽しそうに過ごし、泣くこともなくなってホッとしました。そのすぐ後にマレーシアに連れてきて友達と引き裂いてしまうことになるのですが…


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