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震災から10年、福島から海外へ避難して~Ⅵ 3月15日 再び避難!

Ⅵ 3月15日

1. 放射能が来た!

 3月15日早朝、関東でも放射性物質が検出されたというニュースが報道されました。また、2号機で爆発音、格納容器に繋がるサプレッションルームに欠損が見つかったことも報道されました。
 もう、子どもたちを外に出したくなかったのですが、母が、どうしても買い出しに行くと言い張り、おばあちゃん子の次男も付いて行きました。「できるだけ早く帰ってきてよ。」と言ったのですが、行列と何店舗も回ったせいで、なかなか二人は帰って来ず、苛々して待っていました。
 母たちが帰ってくるとすぐ、私は、昨日子どもたちが外で遊んだ時に来ていた服や、次男が買い物に行った時の服を洗濯しました。計画停電が実施される直前で、ぎりぎり洗濯機が使えました。
 テレビもラジオもニュースをつけっぱなしにしていたのですが、だんだん状況が悪くなる一方のような気がしました。
 午前11時前、もと旦から電話がかかってきました。もと旦は、「いろんな可能性を考えておいた方がええよ。和歌山に行くこともその一つやで。」と言いました。「今すぐに、という話ではないけど、行くと決めたときにはすぐに避難できるように準備しておいた方がええで。」と言ってくれました。
もと旦と話している最中、テレビで官房長官と菅首相の記者会見が始まりました。「4号機で火災が発生し、400ミリシーベルトという高い濃度の放射能が検出された。さらなる放射性物質の危険が高まっている。20㎞以上30㎞範囲の人は外出を控え、屋内退避してください。」という内容でした。
「これはやばい事態が起きている!」と思い、テレビを見ながらもと旦に伝えました。それでも彼は、すぐに避難するかどうかは自分で考えて決めて、という意見でした。


2.ふたたび避難!

 どうしようか自分でも答えの出せないまま、また、避難の準備を始めました。
「お母さん、どうするの?和歌山に行くの?」と子どもたちが何度も聞いてきました。
「うーん、どうしようかな。」
「どうするの?」
「よし、避難するよ!」
 今度の決断は早かったです。そうと決めたら、急いで荷造りしました。もう関東でも、通常の数倍から数十倍の放射能が検出されたのです。ただ事ではありません。体の震えがきて、震えが止まらないまま荷物を詰め始めました。
「お母さん、どうしよう、大丈夫かなあ?」
 子どもたちが心配そうな声で聞いてきました。とても不安に思っている様子が伝わってきました。
「しまった!子どもたちを不安がらせてしまった!」
 ハッとしました。
「大丈夫だよ。必要な物をちゃんと持っていこうね。車に荷物を運ぶのを手伝ってね。」
 ことさら優しい声色で言いました。
 子どもたちはパニックになりかけ、いろんなことを聞いてくるので、私は、今まで出したことのないような特別優しい、穏やかな声で受け答えしました。子どもたちも落ち着いてきて、一生懸命荷物を車に運んでくれました。一か月位経った頃、長男が突然、「お母さん、あの時どうして声が変わったの?」と聞いたことがあります。彼にはちゃんと分かっていたんだなあと、びっくりしました。

 私たちがバタバタしていると、母が、「私はどうしよう?」と聞いてきました。
 「どちらでもいいよ。一緒に避難する?」と聞くと、「私がいると足手まといになるからいいわ。」と言います。
 「足手まとい」という言葉が出る、ということは、本当は逃げたいけど遠慮する、という気持ちなんだな、と思い、「和歌山はお母さんの家なんだから、お母さんが避難したいと思うんだったら避難したらいいよ。うちの車は後ろに荷物を積んでも5人乗りだから、お母さんが乗っても大丈夫だよ。」と言いました。
 母は、「そうかい。」と言って、自分の荷物をかばんに入れ始めました。私の本心は、「困ったなぁ。」という気持ちでした。母とは子供の時から仲が良い親子とは言えませんでした。母は凄く特殊な人でした。何事も極端でヒステリックに感情的で言うことがころころ変わりました。私は母から肉体的精神的虐待を受けて育ちました。福島に住んでいる時も母は時々孫に会いに来てくれましたが、同居に慣れていない母が機嫌が良いのは最初のうちだけで、すぐに怒りっぽくなっていたので、和歌山で一緒に生活してもうまくいくとは思えませんでした。でも、空き家とはいえ母の持ち家ですから、母が行きたいというのを止める理由はありません。それに、こういう状況では、母を置いていくのは非人情なことで人間として許されないとも思ったのです。内心困ったと思っていても、何でもないふうに装って表面上穏便にやり過ごすのはいつものことでした。

 車に、運転席から後ろが見えないほど荷物を詰め込みました。今回は物不足を経験しているので、買った食料品もちゃんと積みました。母の家にあるお米やしょうゆも、母の了解を得て持って行くことにしました。しかし、母が買ってきたばかりのクリームたい焼きを積むつもりで、家のどこかに置き忘れてしまい、後々何か月も子どもたちに恨み言を言われました(2か月経って、母がミシンの下で見つけたそうです)。『食い物の恨みは恐ろしい。』です(笑)。

 午後12時半頃、5人で車に乗り込みました。運転席に座り、千葉県道路地図をにらみ、「どう行こう?」と悩みました。東名高速を通って行こうと思ったのですが、首都高に乗るまでの道を知りません。必ず迷うと言われている首都高も心配でした。名古屋から先のルートも知りません。でも、ゆっくり本屋さんで調べる時間もありません。
 ちょうどそのとき、タイミングよくもと旦から電話がかかってきました。出発することを伝えると、「道、分かるか?」と聞かれました。
 「分からない。」と答えると、「とにかく標識を頼りに行け。地図は、広い範囲のものでなくて薄い本でいいから、行った場所で次々、何冊も買え。」と指示してくれました。「分からなくなったらいつでも電話したらいいから。」と言ってくれました。彼の職業は長距離トラック運転手なのでした。
 千葉県道路地図の端に、東京も少し載っていたので、それを頼りにとりあえず出発することにしました。午後1時頃になっていました。ラジオでは、次々と放射能漏れのニュースが流れていました。東京で、過去の平常値の30倍以上の放射能が計測されたというのです。「とにかく一刻も早く関東からはなれなきゃ。」と思いました。
 国道16号線に入ると、車の多さとその速さに驚きました。いつものことなのか、計画停電や避難のせいなのかは分かりませんでしたが、車の少ない福島の道路しか運転したことがない私は戸惑いました。「とにかく真っ直ぐ東京に向かって走ればいいんだ。」と、緊張しながら車を走らせました。
 20分位走ると、計画停電が実施されている地域に入りました。明かりの消えているコンビニに入り、関東道路地図を買いました。コンビニでは、ガムテープで留めたアイスのケースに、「アイスは販売できません。」という貼り紙がしてありました。
 停電している街では、当然信号も点いていません。渋滞するほどではありませんが、沢山の車が詰まり気味に流れていました。私の走っているのは大きな国道だったので、どの車も止まらず走っていました。大きな交差点では、警察官が手旗信号をしていましたが、その他多数の小さな交差点では、側道から入ろうとする車は、列の切れ目がなく、しかも本線のスピードが速いので、いつまで経っても入れそうにはありませんでした。入れてあげたくても、止まる車がいないので、私もそのまま走るしかありませんでした。割り込みや車線変更も、我先にという感じで、東北と関東の違いを感じました。


3.娘が病気に!

 緊張しているせいでしょう、また、トイレに行きたくなりました。さすが都会、すぐにマクドナルドを見つけました。都内で、計画停電がされていない地域だったので開いていたのでしょう。私はウーロン茶と、子どもたちのためにバニラシェークとフライドポテトを買って、トイレを借りました。
 子どもたちに一杯のシェークを回し飲みさせました。子どもたちは喜んで飲んでいました。
 しばらくすると、娘の呼吸が苦しそうになりました。
「しまった!」と思いました。
 喘息の時に冷たい物をとると気管が狭まるのか、症状が悪化することがあるのは、私も小児喘息を患っていた時に経験として知っていたのに、すっかり忘れてしまっていたのです。本当に申し訳ない気持ちになりながら、「とにかく楽な姿勢で休んでね。」と声をかけるしかできませんでした。楽な姿勢といっても、車の座席も足を置いている所も荷物で一杯なので、真っ直ぐ座るしかなく、本当に可哀そうでした。
 そのうち、娘は大分辛そうな様子になってきました。赤信号で止まった時に額を触ると熱く、熱が出ていました。病院へ行こうかどうしようか悩みました。しかし、今は一刻も早く避難したいので、病院へ行くのは無理だと思いました。生まれて初めてひどい喘息が出たうえに、熱まで出て苦しそうでとても心配だったのですが、「命にはかかわるまい。この子の生命力を信じよう。」と思い、心を鬼にして進みました。でも本当は、とても心配でした。何の神様か分かりませんが、神様に娘の無事を祈りながら先へ先へと急ぎました。


4.迷子になった!

首都高朝倉入口

 都心に入りました。久しぶりに見る大都会です。人の多さ、歩く速さ、高層ビルの多さに「ああ、東京ってこんなんだったな。」と思い出しました。首都圏でも通常の数十倍の放射能が検出されたというニュースが繰り返し流れていたにもかかわらず、ほとんどの人がマスクもせず、普段と同じように仕事をしている様で驚きました。「この人たちはニュースを知っているのかしら?大丈夫なのかしら?知っていてもたいしたことはないと思っているのか、それとも仕事があるからやむを得ずいるのかしら?」と疑問でした。
 しばらくは順調に走り、なんとか首都高に入ることができました。入り口のおじさんに、「東名高速に乗りたいんですけど。」と言うと、「標識が出てくるから大丈夫だよ。」と言われました。
 確かに、「東名」という標識が出てきたので、そちらに向かいました。
 ところが、しばらく行くと分かれ道が出てきて、地名が書いてあるのですが、どちらにも「東名」の文字がありません。高速で走っているので、迷う間もなく、流れのまま行ってしまいました。走っていると、地名が東名高速の入り口からだんだん遠くなっているような気がします。
 「間違えた!」
 遠回りでも、走っていれば着くかな、と思いながらも、途中で進路を少し変えてみました。大分走っていると、さっき見た地名がまた!ぐるぐる回っていたのでした。
 首都高に止まれる所はないし、もう、いったん首都高から降りて、下の道で地図を見ようと降りました。
 道路標識に「北区」と書いてあります。東名の入り口は東京の南の方、正反対です。「あーあ」と思いながらも、大きな通りを、池袋、新宿、と進んでいきました。
 代々木駅を過ぎたときです。母がトイレに行きたいと言いました。コンビニを探すのですが、なかなか車を停める場所がありません。
 やっと、路上駐車しても大丈夫そうなコンビニを見つけ、停まりました。次男と娘も母に付いて行きました。停まったついでに、クリームたい焼きとパンの入った袋を探しましたが、やはりありませんでした。
 長い時間待たされました。子どものトイレが大の方だったらしいのです。30分近く経って、やっと帰ってきました。母はグレープフルーツジュースや野菜ジュースを買ってきて、子どもたちに飲ませました。娘の具合も大分良くなってきてホッとしました。
 再び出発した時には、4時半になってしまっていました。「こんなに遅くなってしまった。せっかく早く出たのに。」「でも、道が分からないから急いでも仕方がない。これからは着実に行くだけだ。」と、あわてず冷静に行こうと思いました。
 ところが、また曲がる場所を間違え、行き過ぎてしまいました。戻ろうにも車の多い都会ではUターンできません。大分走ってから方向転換しました。地図を見たくても停まれないし、自分がどこを走っているかも分かりません。車線の間に首都高を挟んでいるので、さっきの道を戻っているのかも自信がありませんでしたが、自分の方向感覚だけを信じて進みました。スマートフォンとGoogleMapがある今とは違いました。全くの山勘でした…


5.財布がない!

 やっと、首都高に入ろうと思っていた渋谷が見えてきました。
「よし!」と思ったとき、突然母が、「財布がない!」と叫びました。
「え?」
「さっきから探していたけど、ないのよ。コンビニに忘れたかも知れない。」
「どんな財布?大銭(おおぜに・お札のこと)が入ってたの?」
「いや、小銭入れよ。」
「だったら、あきらめようよ。しょうがないわ。」
「いや、大事な手帳とかが入っていたから、無いと困る。戻って!」
「え?戻るなんて無理よ!さっきから大分進んでいるし、迷ったからどこのコンビニかも分からないし、無理!」
「じゃあ、ここで降ろして!私、歩いていくから!」
 母は本気で降りたがりましたが、この非常事態に絶対に降ろすわけには行きません。何よりも大事なことは、早く首都圏を脱出することです。
「歩くから降ろして。」と言う母に、「お母さん、コンビニの場所、分かるの?」と聞くと、「何とかなるわよ、大丈夫。」という返事です。
「無理だよ。あれから大分車で走ったのよ。遠いし、都内にはたくさんコンビニがあるんだよ。絶対に分かりっこないよ。それに、降りたらどこで待ち合わせするの?」
「ここで待ってて。」
 もう、無茶苦茶です。こんな理屈の通らない要求を呑むわけにはいきません。母が飛び降りないように、信号で停まらないことを祈って、どんどん進みました。
 「戻って!降ろして!」と叫ぶ母を無視して、首都高に入りました。とにかく東名高速まで行ってしまえば、戻れないことが確実になる、と思って急ぎました。
 母はずっと、「戻って!あれがないと私、困る!」と言っていました。私は説得しようとしましたが、母は同じことを繰り返すばかりでした。
とうとう、東名高速に入りました。これで少し安心、と思い、母に、「もう東名高速に乗ったから戻れないよ。このまま和歌山に行くから。」と宣言しました。
 心の余裕が出てきたので、どんな状況で財布を忘れたか、細かく母に尋ねました。トイレに行ったあと、「大銭入れ」から5千円札を出して、ジュースを買ったということでした。
「じゃあ、ジュースを買ったときのお釣りはどうしたの?その時のレシートがあるでしょう?」と聞きました。
「レシートなんかもうないわよ。」
「その場で捨ててなければあるはずよ。探してみて。」
探すと、ビニール袋の中にありました。
「レシートに、コンビニの店名が書いてあるはずよ。それを調べれば、あとで電話をかけて財布のことを聞けるわよ。」
 子どもたちにレシートを見てもらうと、店名だけでなく、お店の住所と電話番号まで載っていました。「ラッキー!」と思いました。
 私は高速道路で走っているので電話をかけるわけには行きません。子どもに電話をかけてもらい、母に話をさせました。
 すると、レジのところに財布を忘れていて、店員さんはもう、代々木駅前交番に届けてくださったとのことでした。明日までに取りに行かなければ、原宿署に移されると、親切に教えてくれました。これで安心です。
 ところが今度は、母が、警察署の名前を覚えられないのです。渋谷警察署になったり、池袋警察署になったり、何度教えても、「代々木駅前交番」「原宿署」が出てきません。なぜか、組み合わせを変えて「渋谷駅前交番」と言います。
 とうとう子どもたちが笑いだし、「代々木駅前交番、原宿署!」と歌うように何回も母に教えました。「あと5分たったらおばあちゃんにテストするからね。そのあとも、15分ごとくらいにテストするからね。」と次男が言いました。母は、「はい、はい。」と答えながら、笑いすぎて出た涙を拭きました。
 5分後のテストでは答えられたのですが、その後も母は何回も間違えました。和歌山に着いた後、警察署に電話する時も覚えられないので、とうとう手帳に大きく書いてあげました。
 母はここ数年極端に短期記憶が悪くなることがよくありました。当時は79歳だったので仕方ないと思っていましたが、後に痴呆症と分かりました。しかし、普段の受け答えはしっかりしているし、強気でお喋りな性格も変わっていないので痴呆症と気が付くのがかなり遅くなってしまいました。


6.ガソリン行列!

 母の財布騒動はありましたが、車は順調に進んでいました。
 ガソリンが残り3分の1位になりました。
 もと旦が、蛯名を過ぎると次にガソリンを入れる所が遠いと教えてくれていたので、蛯名のサービスエリアでガソリンを入れることにしました。本線からサービスエリアに入る側道に、車の行列が出来ていました。まだ放射能が検出されている神奈川県なので、長居はしたくありませんが、仕方ありません。列の後ろに並びました。
 ひたすら待っていると、サービスエリア内に入り、列の長さと進むペースが見えてきました。
 「今だ!」と、子どもたちと母をトイレに行かせました。トイレの前まで行列が進んだ時、ちょうど子どもたちが帰ってきました。
 行列で待っている間、福島の友達のEさんに避難していることをメールで伝えました。
「さすが育ちゃん、行動力ある!」と返事が返ってきました。私は逃げられたのですが、逃げていない友人たちが心配でした。
 約50分並んで、自分の番が来ました。
「15リットルまでですがよろしいですか?」と店員に聞かれ、「大丈夫です。」と答えました。
 店員が、給油口を開けると、「今まで一度もエンジン洗浄剤をお使いになってないようなんですが、入れませんか?」と聞いてきました。エンジン洗浄剤の意味も分からないし、こんな急いでいる時に、と思ったのですが、横から母が、「入れてもらったら?」と言います。私も自信がないので、「じゃあ、お願いします。」と頼みました。
 ところが、時間がかかるし、あとで店員に聞いて発覚したのですが、エンジン洗浄剤の分、入れられるガソリンが減ってしまいました。店員は売り上げのために聞いてるのでしょうが、あんな非常時に迷惑な勧誘だ、と腹が立ちました。毅然と断れず、無駄遣いした自分にも腹が立ちました。


7.グラリ、ヒヤッ!

夜の海

 陽が沈み、真っ暗になりました。暗い中、高速で知らない所を走るのは怖かったですが、「都内で時間をロスした分、とにかく早く行かなきゃ。」と走りました。みんな夕飯を食べていないのですが、停まる時間がもったいなくて、「悪いけど、おかきとおせんべいをかじって。」と言いました。母が持っていた鮭とば(北海道特産の鮭の干物)が御馳走になりました。
 蛯名からは順調に進みました。母がまたトイレに行きたいと言うので、小さなパーキングに停まりました。午後8時半頃、由比パーキングエリアだったと思います。
 トイレを済ませ、外に出て、ふと、近くにあった階段を上ってみました。水の音が聞こえました。真っ暗な中、目をこらすと、波が見えました。
「海だ!」
 子どもたちを呼び、見せました。子供達も暗い中久しぶりに見る海に興奮していました。
 私たちの車の後ろにキャンピングカーが停まっていました。「わあ、キャンピングカーだ。すごいな。この人たちも逃げているのかな?」と思っていると、キャンピングカーから降りてきた40代位の男女が話しかけてきました。
 「福島ナンバーだけど、福島から逃げてきたんですか?」
 「あ、はい。最初は福島から千葉の母の家に避難したんですけど、今日また出発して、和歌山のおばあちゃんちに行くところです。」
 「あ、それは正解ですよ。私たちも、千葉県に住んでいたんですが、放射能を避けて西へ行くところなんです。」
 「どちらにいらっしゃるんですか?」
 「いや、決めてません。私たちは銚子の方で被災したんですが、犬が5匹いるので避難所に行けないし、この車でならどこへでも行けるので、気の向くまま旅をしますよ。」
 確かに、可愛らしい小型犬たちが顔をのぞかせています。
 「いいですね。」
 「お気をつけて逃げて下さいね。」
 「お互いにね。では。」
 そんな会話を交わして、再び出発しました。
 ひた走りに走り、静岡、浜松を超え、岡崎まで来ました。ここまで来れば、もう放射能は安心だろう、と思いました。刈谷パーキングに入りました。コンビニで中部道路地図とおにぎりを買っていると、グラグラッと、強い揺れを感じました。震度4から5はあるように感じ、非常に驚きました。
雑誌コーナーにいた若いカップルが、「逃げてきたのに、ここも?!」と言いました。私の気持ちを代弁していると思いました。
 車に乗り込みラジオを聞くと、22時43分頃、静岡県東部を震源とする地震が発生、富士宮市で震度6強の揺れという速報が入ってきました。けが人も出たとのこと。今度は近くの浜岡原子力発電所が心配でしたが、4号機・5号機は平常通り運転されているとの報道でした。
 地震の影響で、東名高速道路が大井松田IC~清水IC 間で、上下線通行止めになりました。たった今、通ってきた道です!あと2時間遅かったら、足止めを食っていました。おかしな話ですが、自分には幸運の星がついていると思いました。
 東北の地震とは関係ない、ということでしたが、日本列島全体が地震の活動期に入ってしまって、どんどん西に地震が広がるのかも、と怖くなりました。また地震で足止めを食らわないように急いで出発しました。
 あの時の心理状態は、プチパニックでした。大地震が西に来ると思えて仕方なく、あせって車を走らせました。

8.【3月15日、首都圏へ大量の放射能が来た!】

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 文科省公表の「全国の放射線モニタリング状況」の東京を見ると3月15日のグラフには2つの山があります。1つは10時前後に0.5マイクロシーベルト、1つは19時前後に0.35マイクロシーベルトという記録です。
 3 月18 日、京大原子炉実験所内で原子炉安全研究グループが主催して開かれた「第110回原子力安全問題ゼミ」において、小出裕章助教は、「安全ゼミ」の直前まで行っていたという3月15日に台東区で採取された空気の分析結果を公表しました。これは空気中の放射能を吸引して分析したもので、分析の結果、当日、あたりを歩いていた人々は1日で210マイクロシーベルトの放射能を吸い込んだと解析されました。
 ただし、吸引できるのは粒子状の放射能に限られ、ガス状の放射能は補足できないそうです。小出助教によると、それがヨウ素の場合、「6~7 倍」あるのだそうです。それを加味すると「およそ1000マイクロ(1ミリ)シーベルトと考えられる」そうです。つまり、私たちが一年間に浴びてもよいとされる量を、わずか1日で、それも吸い込んだことになります。
 また、3月15日の新宿や台東区では1時間あたり1マイクロシーベルトに達しており(https://youtu.be/hMKo9ZmhEjo 参照)、中部大学の武田邦彦教授によると、午前10時から11時に東京の空気中に浮かんでいたチリは、1立方メートルあたりヨウ素131が241ベクレル、ヨウ素132が281ベクレル、セシウム137が60ベクレル、セシウム134が64ベクレルでした(放医研データ)。この1時間に東京の人が呼吸することによって被曝する量は、合計 5.0マイクロシーベルトです(成人の呼気量22立方メートルとして)。つまり、外部から1マイクロ、呼吸によって体内に取り込まれた放射性物質による被曝が5マイクロで、合計6マイクロです。一日では144マイクロシーベルトになります。小出教授の分析よりは少ないですが、それでも外出を避けるかマスクで防御しなければならない量でした。
 私たちが避難したとき、花粉症用の使い捨てマスクはしていましたが、荷物を運ぶのに外と家とを往復したり、都内のコンビニで停まったりしている間、かなりの量を吸い込んでしまったのではないか、また、朝に母と次男が買い出しで外に並んだ時にかなり吸い込んでしまったのではないかと思うと暗い気持ちになります。

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