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森に棲む人

 光を背に、誰かがそこにいた。顔はよく見えない。一歩近づこうとしたとき、その人が手を差し出した。不思議と恐怖心も戸惑いもなく、わたしはその人の手を取った。あたたかい、大きな手だった。

 自然と目が覚めた。いつもそうだ。この夢を見たときは、不思議なぐらい心地よく起きられる。頭もすっきりし、食欲もでるから朝ごはんも食べられる。肌の調子もよく、化粧のノリももちろんいい。今日はがんばろうと、一日のはじまりに思える。
 ただしこれはこの夢を見た日だけ。いつもは疲れが取れていない重い身体を無理やりベッドから引き剥がし、頭痛を堪えながら身支度をはじめる。気分も優れないから朝ごはんを食べたいなんて思わないし、化粧だって顔色をよくするためだけにしているようなもの。
 毎日のように終電で帰宅し、睡眠時間は四時間とれればましだった。食事をまともにとる時間もなく、一日の食事は移動時間におにぎりを一つか二つ口に放り込む程度。体重は激減し、肌も荒れ、疲れが蓄積した身体はもう限界に達していた。
 そんなとき、夢を見た。
 夢を見るようになったのは五年前の冬。
 その日も帰宅したのは夜中の一時近く。シャワーだけ浴び、髪も乾かさずそのままベッドに倒れこんだ。すぐに眠りはやってきて、はじめてその夢を見た。
 ほんの短い夢。いつも同じ場面。
 光の中に立つ人がいて、その人の手を取った瞬間に目が覚める。ただそれだけ。それだけなのに、起きたときは心地よさしか残っていない。
 あの人は、誰なんだろう。

 いずみはいつもの電車のいつもの車両に乗車していた。夢を見たおかけで、今日は満員電車にうんざりすることもない。マンションから会社まで電車で三十分、乗り換えなし。唯一それだけが救いだ。
 出社した途端、仕事は山のようにやってくる。取引先とのアポイント、打ち合わせ、上司のスケジュール管理、資料作成、社内会議、手土産の買い出し、手が空く時間なんてどこにもない。
 泉が午前中の打ち合わせを二つ終わらせ自席に戻ると、デスクの上にファイルが置かれていた。表紙には『プレゼン資料よろしく!今日中に!』と書かれた付箋。課長の字だとすぐに気づき、思わずため息が出る。ファイルを開くと、来週予定されている商談の資料のようだった。その商談に向け、明日社内会議が行われる。その会議で使用する資料を作れという指示らしい。朝の心地よさはどこへやら。泉はもう一度ため息を吐き出し、課長の席へと向かった。
「課長、これなんですか」泉はそう言ってファイルを差し出した。
「ああ、忙しいとこ申し訳ないんだが、それ頼むよ」
 課長が顔の前で手を合わせ、眉を下げて顔を歪めた。なにかを頼むときのいつもの顔。
 申し訳ないなんて思ってもないくせに、と言いたいのをぐっと呑み込み、嫌みのようにため息を吐き出した。
「わたし今案件を五つ抱えているんです。そんな余裕ありません。そもそも、わたしはこの案件にまったく関わっていないじゃないですか。一緒に組んでいる松下君にお願いしたらどうですか?」
「松下君はほら、今いろいろと大変だからさ」
 泉は天を仰いだ。出た出た、松下君過保護対応。
 松下君というのは、人事部部長の息子である。もちろんコネ入社で、まずはいろんな部署を経験してみましょうという理由から、入社してすぐ泉と同じ部署に配属された。しかし、残業は絶対にさせてはいけない、仕事で絶対に失敗させてはいけない、嫌がることは絶対にさせてはいけない、という阿保らしいルールを課長が勝手に設け、自分の保護下に置いた。松下君自身も阿保ルールに甘えている。だからもちろん、仕事はできない、やる気はない、言葉遣いはなっていない。ないない尽くしである。配属されてから約一年。そろそろ異動じゃないかと囁かれ、誰もがその日を待ちわびている。異動になると決まった日にはきっと歓声があがるだろう。とにかく、典型的なバカ息子である。
「だったら、課長が作成されたらいいじゃないですか。ご自分の案件ですよね?」
「いや、僕は今、別件で忙しいんだよね」
「わたしも別件で忙しいんですが」
「でもほら、森川さんは仕事できるから、このくらいの仕事が増えたって大丈夫でしょ?それに僕、パワーポイント苦手だし」
 だったら勉強しろよ、努力しろよ、と言いたいのをぐっと呑み込み、怒りを鎮めるために目を閉じ深呼吸をした。こんな奴と話している時間がもったいない。
「今後、わたしが関わっていない案件の仕事は頼まないと約束してくれますか?」
「え?」課長はきょとんとしたあと、すぐに形相を崩した。「するする!いつも悪いと思ってるんだよ。今回だけ、よろしく頼むよ」
 泉がなにも言わずに立ち去ろうとすると、「森川君」と呼び止められた。足を止め、振り返る。
「これ、商談の詳細をまとめたやつ。昨日大急ぎで作ったんだ。これがあればプレゼン資料作れるから」
 そんなん作ってる暇があるならプレゼン資料作れよ、紙じゃなくてデータで渡せよ、と言いたいのをぐっと呑み込み、泉は差し出された紙一枚を受け取った。その手に怒りが伝わり、渡された紙にしわが寄る。
 落ち着けわたし、このエネルギーがもったいないぞ。
 泉自身が抱える仕事にひと段落ついたのが二十一時頃、それから課長に頼まれたプレゼン資料に着手したため、またこの日も終電で帰ることとなった。
 終電の電車に揺られながら、今日もあの夢が見られるだろうかと泉は考える。
 あの夢を見るタイミングは未だにわからない。一ヶ月に数回見ることもあれば、数ヶ月見ないときもある。あの夢を見るとなぜ気持ちが楽になるのか、それもわからない。

「森川くーん」と呼ばれ、泉は課長席を見た。手招きしている。呆れるしかない。
 わたしが電話中だってことわかりませんか?と言いたいのをぐっと呑み込み、顔の向きと意識を戻して、会話の要点をメモ用紙に書き残していく。
 数分後、またしても「森川くーん」と課長に呼ばれた。もう一度顔を向けると、飽きることなく手招きしている。呆れを通り越して感心する。泉はまたそれを無視し、相手との対話に集中した。さすがにまずいと思ったのか、課長席近くに座る後輩が「森川さん今電話中です」と伝えてくれたのが聞こえたが、「え?そうなの?そうなら早く言ってくれればいいのに」とぼやく課長の声も聞こえた。自然と筆圧が強くなった。
 電話を終え、泉が課長席に行くと、お決まりの顔が待っていた。
「なんですか、今ほんとに時間がないんですけど」
「ごめんごめん、そうだよね。いやね、この前のプレゼン資料ありがとう、助かったよ。会議も無事に乗り越えられたし、役員たちも納得した様子だった」
「それはよかったですね。それだけですか?」
「いや、実はね、ひとつだけ西野部長に指摘されたとこがあって」上目遣いに泉を見る。「データを修正したほうがいいんじゃないかって言うんだ」
「修正?」
「そう。ここなんだけど」プレゼン資料の該当ページを開いて指さす。「ここ、競合五社の製品と比較になってるでしょ?これだとうちの製品の特質性がわかりにくいんじゃないかって言うんだ。だから、この一社の数値は削除して、うちを含めた四社の比較データにしたほうが、相手さんにもうちのよさがより伝わるんじゃないかって」
 その一社というのは、泉たちの会社とほぼ同規模のいわゆるライバル社。修正指示されたデータに関しても、現状、泉たちの会社が上回ってはいるが、じわじわと追い上げられているのがわかるグラフになっている。
「でも調べられればバレますよ。隠していたと思われるより、はじめから正直に現状を伝えたほうが相手側への印象もよくなると思いますけど。それに、今回の商談内容でここの社名がないのは不自然すぎます。次のページに予測データ載せてますよね?現状を素直に伝えて、御社と提携することでこれだけの効果が生まれる、というデータがあれば修正する必要はないと思いますが」
「森川君の言いたいことはごもっとも」
「じゃあ、西野部長にそうお伝えして、納得してもらえればいいじゃないですか。西野部長以外はこの内容で納得してくださっているんですよね?なにか問題でも?」
 そもそも会議であなたがそう反論すべきなんじゃないんですか、と言いたいのをぐっと呑み込み、「失礼します」と泉は課長に背を向けた。
「ちょっと待ってよ、森川君」振り返りたくはないが、こんなんでも一応上司である。泉はしかたなく振り返った。「とにかくさ、修正してよ。西野部長に言われたら僕だってうなずくしかないんだから」
「資料のデータ送ってますよね?わたしは修正には賛成できません。どうしても修正されるなら、ご自身で直されたらいいじゃないですか」
「だからさ、僕、パワーポイント苦手なんだって」
 沸々と込み上げる怒りを抑え、泉は「松下君!」と大声で呼んだ。呼ばれた松下君はぽかんとしている。泉が手招きすると、渋々席を立ち、急ぐことなくだらしない歩き方でやってきた。
「課長が資料の修正をお願いしたいんだって。よろしくね」
「ええええ。俺ムリっす。やったことないし」
「じゃあやればいいじゃない。松下君、あなたここになにしにきたの?経験を積むためにきたんじゃないの?」
「べつに、きたくてきたわけじゃないし」不貞腐れた顔で松下君が言う。
「そうだよ森川君。松下君は雰囲気を知るためにいろんな部署を回ってるんだから」
「でしたら課長が修正するしかないですね。約束しましたよね?もうわたしが関わってない仕事の依頼はしないって」
「それはさ、今後の話でしょ。この件についてはもう森川君関わってるんだから」
「つーか、俺もういいっすよね。ランチどこ行くかリサーチしなきゃいけないし」
「いいよいいよ。ごくろうさま」
 どいつもこいつもどうしようもない、と言いたいのをぐっと呑み込み、泉はそのまま自席に戻った。その背中に、「じゃ、森川君よろしくねえ~」と呑気に言う課長の声がぶつかった。
 先輩や同僚から「大丈夫か?」「大変だね」と言う、泉を労う声はある。ただ、「手伝うよ」という言葉はない。
 課長は泉だけでなく、ほかの人にも自分の仕事を押し付けている。押し付けて、自分は定時で退社し、朝は誰よりも遅く出社する。仕事を押し付けられているのは、いわゆる仕事ができる人。泉を含め、『仕事ができる人』は自分のことに手一杯で、周りを手伝っている余裕なんてない。そもそも泉たちの部署は仕事量が多いため、どの社員も目が回るほど忙しい。自分が抱える仕事は自分で片付けるしかない。泉もそのことはわかっている。だから誰かを頼ることはないし、それに対して不満に思うこともないが、どこか虚しさを感じずにはいられなかった。

 それが判明したのは、ちょっとした言葉の切れ端からだった。
 取引先から戻った泉が自席でお礼メールを作成していると、後輩二人が苛立った様子でフロアに戻ってきた。「――が褒められるんだよ」という語尾が聞こえ、次に「ほんとだよ、あれ森川さんが作ったんじゃん」と聞こえた。自分の名前が出て気にならない人はいない。泉は手を止め、「わたしがどうかした?」と尋ねた。
「わ!森川さん!」
 後輩二人は驚いた顔を気まずそうにする。いつも忙しく動き回っている泉がそこにいるとは思っていなかったようだ。
「なによ、どうしたの?」
「いやあ~」と後輩二人は顔を見合わせた。
「なに?」
「実は――」
 後輩の話を聞いて、泉は愕然とした。
 先日泉が作成し、無理やり修正させられたプレゼン資料。それがすべて、松下君の手によって作成されたことになっているという。プレゼン資料の出来栄えに、役員たちは松下君を褒めちぎっているらしい。
 自分の名前を出してほしいなんてこれっぽっちも思っていない。そんなことはどうでもいい。ただ、あのバカ息子の評価になるのだけは我慢できない。なんとも言えない感情が腹の底から湧き上がってくる。それが怒りなのか、悔しさなのか、悲しみなのか、泉は自分でもよくわからなかった。
 どうしようもなく腹は立ったが、課長にわざわざ反論するのもバカらしく、泉は黙々と、殺気立ったオーラを放出しながら仕事を片付けていった。そのおかげか二十時には退社でき、二十一時前にはマンションに着くことができた。
 こんなに早く帰れたのはいつぶりだろう。嬉しいはずなのに、ドアを開け、ドアが閉まった途端、泉は泣き出した。
 仕事のことで泣いたことはない。男女平等が謳われる昨今だが、現状はまだまだ男社会だ。その中で、男たちに負けないように、なめられないように、泉は歯を食いしばって突き進んできた。理不尽なこともあった、失敗したこともあった、なにもかもうまくいかず退職を考えたこともあった。それでも泉は自分なりに精一杯やってきた。だから泣きたくなかった。泣いたら負けだと思ってた。
「もう限界だ」と泉は震える声でひとり呟いた。
 スマホをバッグから取り出す。こんなとき、すぐに連絡が取れればいいのにと、泉はスマホのロック画面を見つめた。暗がりの中、液晶画面の光だけが泉を照らす。ロックを解除し、メッセージを打ち込む。
『今、ちょっと話せないかな』
 しばらく悩んで、送信した。ドアに寄り掛かったまま返信を待つが、スマホが震える気配はない。既読すらにもならない。泉は諦め靴を脱ぎ、部屋の電気をつけた。
 コンビニで買ったお弁当を温めて、もう一度スマホを見る。メッセージ画面を見ると、泉が送ったメッセージは既読になっていた。すぐに返信がくると思い、そのまま画面を眺めていたが返信はない。泉は自嘲した。
 くるはずない。今頃、奥さんを相手に晩酌しているか、娘と遊んでいるか。
 なにやってるんだろう、と泉は思った。
 たしかに仕事では評価してもらっているが、それだけだ。商談がまとまったとき、自分の手掛けた仕事が形になったとき、もちろん喜びはある。でもそれが仕事のやりがいなのかと訊かれると、よくわからない。忙しさに誤魔化されているとしか思えない。
 恋愛だってそう。妻子ある人と関係を持ち、二人の間に未来はないとわかっているはずなのに、彼との関係をやめられない。でもそれが、彼のことを本気で想っているからなのかと訊かれると、すぐにうなずくことはできない。彼もわたしも、ただ寂しさを埋めたいだけだとわかっていながら、それを認めたくないだけ。
 お弁当を半分ほど食べたところで食べる気がなくなった。コンビニ袋へ戻し、ごみ箱へ捨てる。うじうじ考えてもしかたがない。さっさと寝てしまおうと、泉はシャワーを浴びて、二十二時にはベッドにもぐりこんだ。
 
 まばゆい光が泉を照らした。そこに人が立ち、光を遮る。光を背にしたその人は、泉に手を差し出した。泉は迷うことなくその手をとり、その手のあたたかさに心が落ち着いた。泉の手を包む手は大きくて、ごつごつしている。背中は広く、身長の高い男の人だった。泉の手をひくその人は、ためらう素振りも見せずに進んでいく。泉の歩幅に合わせて歩いてくれる。ずっと背中を向けているから顔はわからないが、なんの不安もなかった。
 なにも語らず十分ほど歩き続けると、急に視界がひらけ、目の前に青く澄んだ大空と一面の緑が広がった。大自然を目の前に、泉は思わず「うわあ」と嘆声を漏らし、つないだ手を緩めて一歩前に出た。風に木々が揺れ、葉っぱが重なり合う音がする。自然の香りを感じようと、泉は瞼を閉じて大きく息を吸いこんだ。緑の青い匂いと、いろんな花の匂い。どこかに川があるのだろうか、微かに水の匂いもする。
 瞼を開き、目の前の景色を見渡した。まだ幼い頃、よく家族でキャンプに行ったことを思い出す。いつも同じキャンプ場だったが、森の中を駆けずり回り、川で泳ぎ、何度行っても自然の豊かさに飽きることはなく、毎年楽しみにしていた。そう、あのときと同じ匂いだ。
 泉がもう一度大きく息を吸い込むと、ここまで連れてきてくれたその人が泉の横に並んだ。はじめて見るその人の横顔。胸が跳ねる。泉の視線に気がついたのか、その人の目が泉を見た。
 美しく澄んだ瞳が、まっすぐ泉を見つめている。泉は自分の鼓動が早くなるのを感じた。異性に見つめられて、ということではない。泉の本能がなにかを知らせている。
「休もうよ、たまにはさ」
 その人はそう言って、やさしく微笑んだ。そしてまた、手をつないだ。

 目が覚めた。涙が伝っていることに気がついた。手のひらで涙をぬぐい、仰向けのまま見慣れた天井を眺めた。いつものように身体は軽いし、頭痛もない。それでも横になったまま、夢を思い返した。
 夢の中のあの人の姿が頭から離れない。まるで現実で出会ったかのように、それは鮮明な姿だった。髪型は坊主に近く、通った鼻筋と、少し彫りの深い目元。頬には無駄な肉がなくて、無精ひげが生えていた。そしてあの瞳。心を見透かすような、透き通った瞳。
 泉は胸を上下させ、手のひらを顔の前に掲げた。
「休もうよ、か」
 泉は呟き、なにかを決心したかのように息を吐いてスマホを手にした。
 会社を休むなんて、入社してからはじめてのことだった。しかもずる休み。いや違う、今のわたしには休養が必要なんだ。そう言い聞かせて泉は元気よく立ち上がり、朝食の準備をはじめた。
 午前十時、いつもとは逆方向の電車に乗ってみる。とくに降りる駅は決めずに、降りたくなったら降りればいいと思い、泉は窓の外を流れる景色に目を向けた。
 平日のこんな時間に、こんなにのんびりとした時間を過ごしていることにどこか落ち着かなく、でもどこかわくわくした気持ちが泉を覆う。プライベートのスマホも、社用のスマホも家に置いてきた。今日中に終わらせなきゃいけないこと、終わらせておきたかったことはあるが、そんなことは考えないようにした。なにも考えずに、ただ休む。そんなこと、ずっと忘れていた。
 電車が次の駅に近づき、速度を落としはじめた。ゆっくり走行する窓から見えたのは動物園の案内板。徒歩五分の場所にあるらしい。動物園なんて何年も行ってない。泉は立ち上がった。
 鳥類、シカ、シマウマ、サル、キリン、ゾウ、サイ、ライオンの順にゆっくりと見て回る。小動物が集まっているエリアでは触れ合うことができ、うさぎやモルモットを抱かせてもらえた。都内にある有名な動物園に比べれば動物の種類は少ないが、泉にとってはこのこじんまりした感じが心地よかった。
 お昼ごはんは園内で売られている焼きそば。このぼそぼそ感がなんだかなつかしく、なぜかおいしい。そのあとソフトクリームを買ってベンチに座り、ぺろぺろなめた。平日ということもあり、園内にはちらほらお客さんがいるぐらいで、のんびりとした時間が流れている。会社をずる休みして、動物園にきて、ソフトクリームを食べる。泉は思わず笑っていた。
 ソフトクリームを食べ終え、ぼんやりと目の前の柵の中いるカバを眺めた。
 カバは二匹いて、どうやらカップルらしい。オスと思われるカバが、メスと思われるカバに近づく。メスは嫌がるようにオスから遠ざかる。またオスがメスに近づく。メスはまた逃げる。そんなことをずっと繰り返し、ついに諦めたのか、オスは寂しそうにメスとは反対方向に移動した。その哀愁漂う後ろ姿に泉は笑ってしまう。すると突然、オスのカバがしっぽを使って糞をまき散らしはじめた。カバが撒き糞をすることは知っていたが、現場を目撃するのははじめてだ。ただの習慣であるはずなのに、まるでフラれた八つ当たりのように見えてしまい、泉はおかしくてまた笑った。
 動物園を十四時頃に出て、次はどうしようかと考えているうちに駅に着いた。駅の反対口は商店街が続いているようで、そのまま駅の反対側に出ると、なかなか立派な商店街が続いている。シャッター通りという言葉をよく聞くが、ここではそんな言葉は存在しないことが入り口からわかる。ちょっとのぞいてみようかなと思い、泉は歩き出した。
 気になるお店の前で少しでも足を緩めると、お店の人が声をかけてくる。お団子おいしいよ!とか、晩御飯にどうだい!とか、おまけするよ!とか。そう声をかけられるたびに泉は足を止め、お団子やコロッケは食べ歩きし、野菜やお魚は夕飯用に買った。手荷物がいっぱいになると、次のお店では持ちやすいように荷物をまとめてくれて、気づけばもう十六時になっていた。
 さすがに歩き疲れ、目に入った喫茶店で少し休憩。芳しい香りを纏ったコーヒーを飲みながら、行きかう人たちを目で追う。
 夕飯の買い物をする主婦、学校帰りの女子高校生、男子高校生グループ、駆けずり回る子供たち、それをすごい形相で叱る母親、立ち話で盛り上がるお年寄り。
 泉の目には、それらが別世界のように映った。がむしゃらに働いて、時間に追われ、くたくたに疲れ果てる。そんな毎日が泉にとってのあたりまえになっていた。目の前の世界を眺めているうちに、ありきたりな想いが頭をよぎる。
 わたしの幸せってなんだろう。
 コーヒーを飲み切り喫茶店を出ると、目の前が文房具屋さんだった。ふと別の想いがよぎり、文房具屋さんに足を踏み入れた。
 マンションまでの道を、泉はゆっくり歩く。いろいろ買いこんだから荷物が重いが、それでも気持ちは軽かった。今日の出来事を夢のあの人に伝えたいなんて考えている自分に苦笑いする。ちょっと病みすぎかもしれない。
 泉は帰宅後、得意とは言えない料理に精を出し、商店街で買った食材を胃におさめていった。今日は食べすぎだなと思いながらも、久しぶりに食べる新鮮な魚と野菜は本当においしかった。食事をおいしいと思いながら食べるのも久しぶりだった。
 食事と片付けを終え、シャワーも浴びて、あとは眠るだけ。そのときになってようやくスマホの存在を思い出した。社用のスマホを見ると、不在着信が十三件、メッセージが二十七件。不在着信はほとんどが課長から。メッセージは課長からが十八件、同僚と後輩からが九件。プライベートのスマホはメッセージが六件、そのうちの一件が彼からのメッセージ。
 同僚と後輩からのメッセージは、体調を心配する内容と一緒に取り急ぎ報告すべきことが書かれていた。しかしどれも連絡を乞うものはなく、『○○な対応をしておきました』という報告。ありがたいと泉はほっとした。課長からのメッセージはだいたい予想がつく。『部長から○○な問い合わせがあったんだけどどう答えればいい?』『今日急遽取引先の○○さんと部長が会食されるんだけど、お店はどこがいいのかな?』『来月の会議に必要な資料はできたのかな?』『明日急遽○○さんと打合せすることになったから〇〇時までに手土産用意しておいて』などなど、自分都合の、どうでもいいものばかりのはずだ。課長からのメッセージはひらかずに電源を切り、彼からきたメッセージを開いた。
『どうしたの?』
 たったそれだけ。その一言にすべてがあった。
 結局彼にとってわたしは、性欲を満たし、非日常を味わうためだけの相手だったということ。そんなことはずっと前からわかってた。わかってたけど気づかないふりをしていただけ。
 泉はちょっとだけ泣いた。自分のみじめさに泣いた。でもそれだけですっきりした。自分にとっても、彼は大した存在じゃなかったってことをやっと受け入れられた。泉は敢えて声を出して笑い、すべてに踏ん切りをつけた。
 泉はバッグから包装された包みを取り出し、ペンを握った。

 数日後、思わぬことが起きた。
 泉は相変わらず忙しく動き回っている。ようやく自席についてひと息いれたとき、課長席にある電話の内線が鳴った。課長席の内線が鳴るということは、直通内線である。課長はワンコールで受話器を上げ、なにやらぺこぺこしている。ほんの短い会話だったが、その短時間で課長の顔から色が抜けていくのがわかった。課長はその顔色のまま顔を上げると、なんとあの松下君を呼びつけた。いつもと違う様子で呼ばれても、相変わらずのんびりとした歩調で課長席に近づく松下君。「なんすか」と訊く松下君に課長が声を潜めてなにか言うと、松下君は露骨に顔を歪め、「なんで俺が」というようなことを言ってごねはじめた。そんな松下君の腕をつかみ、課長は慌てた様子で出ていく。小走りしているものの、課長の背中は行きたくないと叫んでいた。
 そんな珍事があった一時間後、課長と松下君が戻ってきた。相変わらずとぼけた顔をしている松下君と、この世の終わりがきたような顔をしている課長。泉以外の社員も、何事かと課長と松下君を目で追っている。課長は自席に座って数分放心したあと、手招きして泉を呼んだ。
「森川君、ちょっといいかな」その声と動作は壊れた人形ようだ。
 また面倒なこと頼まれるのかと、うんざりしながら泉は課長席へ近づいた。
「なんですか?」
「あのね、この前のプレゼン資料、あれは、森川君が作ってくれたよね?」
「は?そうですけど……」松下君が作ったことになってるみたいですけど、と言いたいのをぐっと呑み込み、課長のただ事ではない雰囲気を察して泉は身構えた。「なにか?」
「あのね、あの商談、破談したんだよ。うちの競合社のあそこ、そこのデータを載せなかったでしょ。それがね、どうやら先方の信用を失ったようなんだよ」
 泉は大きく息を吐き出し、「だから言ったじゃないですか」と呆れた口調で言った。その途端、課長が勢いよく顔を上げ、あのいつもの表情になった。
「森川君、あの資料は森川君が作ったんだよね?だから僕と松下君の責任じゃないよね?」
「はあ?」
「だからさ、あのデータは森川君が独断で変更したってことにしてよ。そしたら僕たちの責任にはならないじゃない」
 言葉が出ない。人間は本当に怒ると言葉が出ないんだなと、場違いなことが頭に浮かぶ。わたしはずっとこんなクソ野郎の下で働いてたんだと思うと、嫌悪感から鳥肌が立った。するとそのとき――。
「それはないんじゃないですか?」という声が泉の背中にぶつかった。
 振り返ると、泉より五年後輩の女子社員が立ち上がって、親の仇を見るような目つきで課長を睨みつけていた。
「わたし、あのときここでちゃんと聞いてました。データ修正するよう課長が森川さんに指示してたこと。森川さんが修正しないほうがいいってちゃんと説明してたこと。わたし、ぜんぶ聞いてます」
「俺も聞いてましたよ」女子社員の斜め前に座る男性社員が言うと、いたるところから「わたしも聞いた」「俺も聞いた」と同調する声が続いた。泉が思わぬ反撃に目を白黒させていると、後輩の男性社員が課長席に近づいてきた。
「課長、しかもその資料作ったの、松下だって吹聴してるらしいじゃないですか」
「え?いや、それは、ほら」
 狼狽する課長の目が、目の前にいる社員を見渡した。さすがの松下君もばつが悪いのか、明後日の方向を向いて後頭部をぽりぽり掻いている。課長と松下君がなにも言わずにいると、最初に声を上げた女子社員がとどめの一言を放った。
「最っ低!」
 みんな余程課長に対して不満が溜まっていたのだろう。同じ部署の社員全員が軽蔑と憎悪を込めた視線を課長に向け、それを受けた課長はライオンの群れに囲まれた小鹿のように小さく震えている。誰もが課長からの謝罪の言葉を待ちわびていると、場違いなほど明るい笑い声が響いた。泉だった。
「……森川さん?」女子社員が不安げな眼差しを泉に向けた。
 泉は自席に戻って引き出しを開け、そこからなにかを取り出した。そのまま課長席に戻り、手にしたものをデスクの上にそっと置く。課長はそれに視線を落とし、目を大きく見開いたまま泉を見上げた。
「退職願?」
 課長の呟きに周りの社員が騒然とした。
「八月末で退職します」
「え、いや、そんなこと急に言われても、困るよ」
「急ではありません。会社の規約上、退職希望者は三ヶ月前までに申し出るようにとなっています。今日は五月二十三日です。なにか問題がありますか?」
「いや、そういうことじゃなくてさ」
「便利に使える駒がいなくなって困る、そう言いたいんですか?」
「な、なにを言ってるんだよ」
「課長、ご自分がどんな立場に立っているのか、ご理解されていますか?」
「え?立場?」
「わたしが考える課長という役職は、部下が円滑に仕事ができるように、部下が能力を発揮できるように、課をまとめて働きやすい環境づくりをすることだと思っています。もちろんそのために、上司のご機嫌をとることも、ごまをすることも必要なんだと思います。ですがそれは課のためであって、決してご自身のためではありません」
 仕事を大量に抱えているにも拘らず、その場にいる社員全員が仕事をする手を止め、泉の言葉に耳を傾けている。泉は課長をまっすぐ見つめたまま、さらに続けた。
「今の課長はどうですか?手本となるべき立場なのに、できない、時間がないと言って、面倒な仕事は部下に押し付ける。できないのなら、できるようになるために努力するべきじゃないですか?時間がないのはみんな同じです。暇な人なんてこの部署にはいません。ここにいるみんなは、毎日努力してスキルを上げて、勤務時間内で終わらなければ残業して終わらせてるんです。でもわたしは、それはこの部署がまとまってないからだと思ってます。みんな仕事はできるし、毎日一生懸命やってくれてます。でも課長が自分のことしか考えず、このチームをまとめようと努力しないから、各々が自分の抱える業務だけで手一杯になってしまうんです」
 課長は泉の正論になにも言えず、口をもごもごさせているだけ。自分が言っていることは正しいと思いながらも、なにも反論できない課長に泉は呆れた。
「あと松下君」
 矛先が急に自分に向けられ、松下君は少し飛び上がった。
「え、俺っすか」
「そう。君、ここでなにしてるの?」
「え?なにって、課長がとりあえず一緒にこいっていうから」
「そうじゃない。この会社に入社して、この部署にきて、なにをしているの?」
「いやあ、なんすかね」
「なにもしないなら、辞めなさい。迷惑だから」
「へ?」
「ここは働く場所なの。働いて、自分の時間と能力を提供した見返りに、給料というお金を会社からもらう場所なの。朝きて、ネットサーフィンして、課長にくっついて外をぶらぶらして、時間になったら帰る。そんな甘えた場所じゃないの、ここは。松下部長と直接お話したことはないけど、とても立派な方だって聞いてるし、部下からの信頼も篤いって聞いてる。去年松下部長が人事部部長になられて、なにか変わるんじゃないかってみんな期待した。そう思わせるぐらい、松下部長は仕事ができる人だって誰もが思ってる。だからみんな期待してたのよ、君にも。どんな立派な青年がくるんだろうって。なのに、やってきた青年はなめくさったバカ息子。松下部長って噂とは違うんじゃないかってみんな言ってるのよ。ねえ、立派な父親の名を汚して恥ずかしくないの?」
 松下君も課長と同じく、口をもごもごさせているだけ。泉は息を吐き、もう一度課長に視線を向けた。
「それではこちらの受理、よろしくお願いいたします。あとそれから、わたし有給が二ヶ月分溜まっているので、七月八月は有給消化にあてます。そちらはあとで申請します」
 そう言って泉が頭を下げたときだった。低く、それでいて通る声がフロアに響いた。
「その退職願、わたしに預からせてもらえないかな」
 なにかの見世物のように、社員全員が後ろを同時に振り返る。そこに立っていたのは、松下君のお父さん、松下部長だった。泉もさすがに驚いて目を瞠り、課長と松下君は怯えて顔色をなくした。
 我に返った課長が慌てて立ち上がり、「松下部長、あの……」と弱々しく言うが、その声を無視し、松下部長は泉のもとへ歩み寄った。
「森川さん」
「はい」
「うちの息子がご迷惑をおかけしたようで申し訳ない」頭を下げてから、なにかに気づいた顔になって小さく笑う。「間違えました。うちのなめくさったバカ息子がご迷惑をおかけしました」
 泉の体温が一℃下がった。やばい、さすがにまずい。どんなに事実であっても、よく知らない他人に自分の息子をなめくさったバカ息子と呼ばれたら、そりゃ腹も立つだろう。課長と松下君も同じことを思ったのか、表情がさっきよりも緩んでいる。
 すると突然、松下君のその緩んだ頬に強烈な拳が飛んできた。松下君は文字通り吹っ飛び、豪快に倒れこんだ。泉も課長も、ほかの社員も、目をまん丸にしてその場で固まっている。
「この大馬鹿もんがっ!」
 拳を振るった松下部長の怒鳴り声が轟いた。もしかしたら社屋すべてに響いたかもしれない。普段は温厚な松下部長の顔が、諸悪の根源はあなたですね、とでも言いたくなるような人相に変わっている。倒れこんだ松下君はがくがく震え、そのまま死んでしまうのではないかと心配するほどの顔色だ。
「お前がうちに入社したいと言ってきたとき、俺はなんと言った?」
 地鳴りのような声が、その場にいる全員に恐怖を与えた。息子からの返答なんて期待していないのだろう、松下部長は息子を見下ろしながら恐怖を与え続ける。
「社内の誰よりもがむしゃらに働けと俺は言った。俺の息子だということで、ただでさえ色眼鏡で見られるんだ。お前の入社を許可したのは、自分の立場に甘えず、怠らず、懸命に働くと約束するなら、という条件だったはずだぞ。お前も同意したな?」
「……でも――」
 なんと、がくがく震えている松下君が口答えした。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、嗚咽を漏らしながら、松下君は抱え込んでいた想いをたどたどしく吐き出した。
「俺だって、一生懸命、やるつもりだったんだ。だけど、課長が、なにもしなくていいって、大変なことは、ほかの人にやらせるから、いいって、だから、やりたくても、できなかったんだ」
 盛大な舌打ちのあと、二度目の「大馬鹿もんがっ!」が響き渡る。
「やりたくてもできなかっただと?だからやらなかったと言うのか?」松下部長の顔が赤黒くなっていく。倒れこんだ息子の胸倉をつかみ、身体を持ち上げると怒声を浴びせた。「それで通用すると思ってるのか!その行動が甘えだろうが!」
 松下部長は息子を放り投げ、松下君は床に伏せたまま大泣きしている。そんな親子にかける言葉なんてあるはずなく、泉を含め、誰も声を発することができなかった。息子を一瞥し、松下部長は泉と後ろにいる社員に視線を這わせた。
「みなさん、うちのどうしようもない息子が本当にご迷惑をおかけしました。改めてお詫びいたします。申し訳ございませんでした」
 深々と頭を下げる松下部長に、誰もが慌てて首と手を横に振る。身体を起こした松下部長は、泉と目を合わせて言った。
「森川さん、こいつの親として、人事部長として、わたしが至らないばっかりに大変な思いをさせてしまって申し訳ない。それに、みなさんが遅くまで残業せざるを得ない状況になっていることも、耳には入っていたのになかなか対策を講ぜず、今日まできてしまった。早急に対策を練って、体制も含め改善すると約束する。だから――」そこで言葉を切り、課長のデスクに置いたままになっている泉の退職願を手に取った。「これは、撤回してもらえないだろうか」
 泉は迷った。人事部長に言われたからではなく、松下部長の真摯な言葉に本当が見えたからだ。泉が言い淀んでいると、松下部長は慌てた様子で言い足した。
「いや、申し訳ない。いろいろと悩み抜いた末に出した答えだろうから、今すぐここで答えてほしいとは言わない。そうだな……三ヶ月時間をもらえないだろうか」
「三ヶ月、ですか?」
「三ヶ月の間で、なにかしらの変化を起こす。三ヶ月後、森川さんから見て変化と呼べる変化がなく、この会社にいる必要はないと感じたらなら、そのときはすぐに退職手続きを行う。どうだろうか」
 松下部長と、みんなの視線が自分に集まっていることを感じる。しかし泉は窮することなく返答した。
「わかりました。では、その退職願は松下部長にお預けします」
 自分の意図が伝わるように、泉は松下部長をまっすぐ見た。それに応えるように、松下部長も泉の目をまっすぐ見てうなずいた。
「どうもありがとう」
「よろしくお願いします」
 松下部長はもう一度うなずくと、問題の二人に厳しい表情を向ける。
「課長とお前の処遇については、別途通達する」
 そう言い置いて、松下部長は出ていった。松下君は放心したまま座り込み、課長は枯葉のようにゆらゆら揺れていた。

 その日、泉はまた夢を見た。だがいつもの夢じゃない。夢の続きだった。
 泉はその人と手をつなぎ、また森の中を歩いていた。彼が少し前を歩き、泉がそのあとを追うように歩いていく。聞こえるのは、葉擦れの音と鳥の声。たまに自分たち以外の生き物の息遣いを感じた。
 なにも話さない時間さえ心地いい。普段なら、無言にならないように、なにか話題はないかと頭を巡らせているはずなのに、今はこのなにもない時間を楽しんでいる。
 あの開けた場所から歩いて十五分ぐらいのところで、彼が足を止めた。切り株がいくつかある。
「ちょっと待ってて」
 彼はそう言うと慣れた足取りでさらに奥へと進み、泉の視界から消えた。待ってて、と言ったぐらいだから帰ってくるのだろう。泉は近くにあった切り株に腰を下ろした。
 数分後、彼は上半身裸になって、手になにかを持って戻ってきた。泉は彼が持つなにかよりも、彼の鍛え上げられた身体に目がいってしまった。顔が赤くなる。男の裸に恥ずかしがるような年齢でもないのに、と泉は呆れながらも、赤くなっていることがバレないよう俯いた。
 彼が手に持っていたのは着ていたTシャツ。それを風呂敷のように使い、なにかを包んでいる。泉の前でTシャツをほどくと、中から薄いオレンジ色の実がいくつも出てきた。見たことあるけど、なんだっけ?
「山びわ」
「あ!そうだ!びわだ!」
「うまいよ、ほら」
 びわの実を泉に差し出し、彼は皮をむいて口に頬張る。泉も同じようにして口に入れると、目が見開いて、その目で彼を見た。
「あっまい!おいしい!」
 泉の感想に、彼は嬉しそうに笑った。笑うと目じりにしわが寄り、人懐っこい笑顔になる。
 自分の今の生活のせいかもしれないが、こんな些細なことに幸せを感じるなんて思いもしなかった。もしかしたら、これが本当の幸せなのかもしれない。ちょっとした幸せを幸せと思える。彼からしたらあたりまえなのかもしれないけど、自分が暮らし慣れた便利な世の中は、あたりまえを贅沢に変えてしまったのかもしれない。
 ぺろりと三つ食べ、あ、と思った。びわの果汁で手がべたべたなのだ。泉の困惑に気づいたのか、彼は残りのびわをまたTシャツでくるみ、「おいで」と言って歩き出した。彼のあとを素直についていく。
 数分歩くと、水のせせらぎが聞こえてきた。木々の間を抜けると目の前に川が広がったが、山の斜面から川辺まで腰高ほどの高さがある。彼はなんでもないように飛び下りたが、足場は大きな石がごろごろしており、慣れない自分が同じようにしたら絶対に足を挫く。そう確信した泉が近くの枝に手を伸ばしたとき、泉の手が枝をつかむ前に、彼が泉の手をつかんだ。歩いていたときとは違い、力強く握ってくれている。
「わたし、手べたべた」
「僕もだよ」
 彼はまた笑い、泉が転ばないように、泉が着地するまで芯となって支えてくれた。
 夢の中でも同じ季節なのか、川の水はきんと冷たく、まるで触れることを禁じているかのようだった。それでも降り注ぐ太陽の光のあたたかさで冷たさは和らぎ、自分が受け入れられていくように気持ちが安らいだ。
「川ってこんなに清らかだったんだね」
「自然が作り出したものに無駄なものなんてない。すべてがなにかに繋がっているから」
 泉は川の流れに目を向けた。ゆるやかに流れたり、激しくぶつかり合ったり、さまざまな表情を見せている。
「人間も同じだと思わない?」
「え?」
「この川みたいにさ、笑って穏やかなときもあれば、誰かとぶつかり合ってケンカをするときもある」
「そう言われると、似てるかも」
「素直に生きればいいんだよ」
 その言葉が泉の心にすうっと沁み込んでいく。泉が彼に目を向けると、彼は目の前に広がる景色を愛おしそうに眺めていた。
 目が覚めた。
 自然に囲まれていた感覚が残っている。頬を撫でる風、川の匂い、鳥の声、びわの甘さ、彼のぬくもり。夢だとわかっているのに、生々しいほどに覚えている。その生々しさに、泉は少し不安になった。
 今まで同じ夢を繰り返していたはずなのに、最近は夢が続いている。願望がただ夢で現れているだけなのだろうか。それとも、なにか精神的な病だろうか。
 そこまで考えて、泉は小さく笑った。あの夢にどれだけ助けられているか。願望だろうと、病気だろうと、かまわない。

 前日にあんなドタバタがあったにも拘らず、泉たちはいつもとなんら変わらず仕事をこなしていた。でもどこか、社員の表情にゆとりがあるように見えるのは泉の思い違いだろうか。課長は午前中の早い時間帯から外出したまま戻らない。松下君は今日はお休みをとったようだ。
 そのメールが社員全員に届いたのは十四時頃。泉は取引先で打ち合わしていたため、その内容を聞いたのは会社に戻った十六時過ぎだった。
「森川さん」前の席に座る男性社員が声をかけてきた。
「ん?」ノートパソコンを開き、荷物を片付けながら泉は視線を上げた。「どうしたの?」
「さっき、人事からメールがきたんです」
「まさか、内示?」
「はい、見てみてください」
「ちょっと待って」と言って、泉は受信メールを確認した。男性社員が言った人事からのメールを見つけ、添付されているファイルを開く。「へえええ、松下君は営業二部か」
「ここと同じくらい大変なとこですね」
「うん。でも、やる気はあるみたいだしね、本人曰く。次こそはバリバリやってくれるんじゃない?」
「あそこは体育会系ですからね、なめたことは言えないと思います」
「たしか、営業二部の部長と松下部長は同期だったんじゃないかな」
「じゃあ、甘えなんて言葉はなさそうですね」
「そうだね。ま、一人前になってもらいましょ。それにしても、課長は第二支社の生産管理部か……」
「左遷ですね」
「だね」
「でも森川さん、俺、ぜんっっぜん、かわいそうだって思えません。あたりまえの結果だって思っちゃうんですけど、俺、薄情ですか?」
「そんなことないよ。わたしも同じ。それがあの課長が今までやってきたことの結果なんだから、ちゃんと受け止めてもらわないと。それに、第二支社の生産管理部はたしかに閑職だけど、本人のやる気次第では本社の生産管理部に異動できるかもしれない」
「そうなんですか?」
「生産管理部って会社にとって大事な部署よ。第二支社だからといって手抜きしていいなんてことはないはず。そこで精一杯やればまだ望みはあるし、きっと松下部長もそういった思いを込めてるんじゃないかな」
「たしかに、ただ左遷させるようなことはしなさそうですよね、松下部長って。チャンスを与えてあげるというか」
「うん。だからこれからは課長次第ね」
 泉の言葉に、男性社員は考え込むように顔をしかめたあと、泉と視線を合わせた。
「いやあ、ひねくれて終わりそうな気がする」
 男性社員の予知に泉は遠慮がちに笑い、「同感」と言った。

 二十一時少し前、泉は会社を出た。仕事中は社用のスマホには気を向けているが、プライベートのスマホを気にしている余裕はない。電車に乗って、やっとプライベートのスマホを手に取った。メッセージがいくつか届いており、そのうち一つは彼からだった。
『全然連絡くれないけど、なんか怒ってる?泉に会いたいな』
 数日前に届いた『どうしたの?』に、返事してなかったことを今思い出した。ついでに、彼のことを思い出すこともなかったと気がついた。以前は、会いたいと言われればうれしい気持ちが湧いてきたはずなのに、今こうして会いたいと言われても、不思議なくらいなんの感情も生まれなかった。代わりに生まれたのは、虚しい気持ち。夢の中の、彼の言葉が聞こえてくる。
 ――素直に生きればいいんだよ。
 最寄り駅に着き、泉はすぐ彼に電話した。コール音が鳴り続ける。
 この時間で出るはずないか、と思ったとき、周りを気にしているような抑えた声が聞こえてきた。
『もしもし』
「わたし」
『どうしたんだよ』
「もう終わりにしよう」
『え?なに?急にどうしたの?』
「急じゃないよ。ずっとわたしは考えてた。終わりにしよう」
『え、だって、そんなこと言われても、俺の気持ちはどうなるんだよ』
「あなたの気持ち?そんなの知らないよ」
『え?』
「じゃあ、わたしの気持ちを考えたことある?会いたいと思っても会いたいって言えなくて、声を聞きたくても電話もできない。会えるのはいつもあなたの都合でしょ。もちろん、家庭のある人と関係を持った時点でわがままは言えないってことはわかってたけど、あなた、わたしのそういう気持ちを少しは考えてくれたことある?」
『いつも考えてるよ』
 彼の言葉に泉は鼻で笑った。
「じゃあ離婚する?」
『え……』
「冗談に決まってるでしょ」電話の向こうで安堵している様子が手に取るようにわかる。「わたしはあなたの性欲を満たすための道具でも、恋人気分を味わうための人形でもない」
『俺が泉のことそんなふうに思ってるわけないだろ』
「あなたは思ってなくても、わたしはそう感じるの」
『辛い思いをさせてしまってたなら謝るよ。でも本当にそんなふうに思ったことはない。一度だってない。俺に足りないとこがあるなら言って。俺は泉のことが本当に大切なんだ。本当に好きなんだ』
「じゃあ離婚する?」彼がまた返答に窮しているのがわかり、泉は笑った。「冗談に決まってるでしょ」
『泉、会って話そう。ちゃんと話し合おう』
「話すってなにを?話したってなにも変わらない。わたしのこの気持ちは変わらない」
『でも……泉に会えないなんてさみしいよ』
「奥さんとお子さんがいるでしょ」
『でも――』
「あなた、意外と女々しいのね」
『え』
「わたしたちに同じ未来はないし、わたしはあなたと同じ未来を見るつもりはない」
『泉……』
「でも、あなたとこういう関係になったことは後悔してないよ。とても楽しかった。今までどうもありがとう」
『泉、ちょっと――』
「さようなら」
 泉は電話を切ると、彼からの連絡が届かないように設定し、彼の情報をすべて消した。
 少し寂しい気持ちが泉を包んだ。これまでの彼との時間がすべて嘘だとは思わないし、彼がわたしを想う気持ちも嘘じゃないと思う。それは願望ではなく、たしかに感じたこと。でももうおしまい。全部が本当じゃないと、そこに本当は生まれないから。
 てくてくマンションまでの道のりを歩く。いつもの道が少し違って見える。気づけば、泉は鼻歌を口ずさんでいた。そんな自分に笑ってしまう。そしてまた、気づけば鼻歌を口ずさんでいた。

 課長の後任は、泉の六つ年上の堀野という男性社員が就くことになった。異例の昇進と抜擢だったが、不満を口にする者は誰もおらず、泉も納得の人事だった。これからどう変わっていくのか、きっと誰もが期待と不安を抱えているだろう。
 あの騒動からすぐ、松下部長は動き出した。まず、社内に存在する部署の業務内容の洗い出しを行い、各部長らとの話し合いのうえで適正人数を試算した。そして、毎年社員向けに行われているアンケートで、配属先希望欄に入力している社員の調査にあたった。異動を希望する理由が正当であること、本人の性格や特技などの適合性を考え、若手社員を中心に人員調整を行い、各部署の人員が減ったり増えたりして社内調整は完了した。
 泉の部署は新たに五名の人員追加となった。部署内にチームが編成され、その中には中心的存在のメインが三名、アシスタントが六名存在する。これまでと同じように、アシスタントは基本決まったメインのサポートを行うが、メインの業務量、進行状況によって、担当以外のサポートも行う必要がある。メインはチーム全体の状況を見て、自分もほかのメインをサポートするのか、自分についているアシスタントを回すのかを判断し、チーム全体が円滑に業務を行えるように指揮しなければならない。メイン、アシスタントともに、自分が請け負っている仕事に対する責任と、チームで協力するという意識を持たせることを目的とした施策である。
 この施策がはじまってすでに一ヶ月。吉と出るか凶と出るか、どっちに転ぶかは社員次第でもあったが、今のところうまく回っている。そこには新たな課長、堀野の采配力、的確な指示が大きく影響しているのは言うまでもない。信頼できる上司によって、部下が力を発揮できている結果だろう。
 泉が抱える案件も、同じチームのメインが抱える案件もひと段落つき、十九時には帰れる状態だった。「奇跡だね」なんて言いながら、まだ残っているほかのチームに泉は声をかけた。
「こっち片付いたけど、なにか手伝えることある?」
「いや、俺らもほとんど片付いてる。あと少しで帰れるからお先にどうぞ」
「わかった。じゃあお先に帰るね」
「ああ、ありがとう」
 こんなちょっとした気遣いや、チーム同士でのやりとりは日常的なものとなっている。泉だけでなく、社員全員の心にゆとりができた証だろう。泉はそう思うたび、夢のことを思い出す。
 あの夢の続きを見るようになってから、すべてがいい方向へ進んでいる気がする。でもあれから――びわを食べ、川に触れた夢を見た日から、一度もあの夢は見ていない。なんでだろう。
 今思えば、あの夢を見るときは自分が限界に疲れているときだったり、なにか壁にぶつかっていたり、迷っていたり、そんなときに見ていたような気がする。強がっていても、心の奥底では誰かに助けてもらいたかったのかもしれない。だから彼が助けにきてくれたのかもしれない。
 そんなときだけじゃなくて、いつでも見たいのに。いつでも彼に会いたいのに。
 なんて思っている自分に鳥肌がたった。夢の中の彼に会いたいなんて、恋に夢見る歳でもないのに、ある意味助けが必要なのかもしれない。
 肩になにか触れ、意識が現実に戻る。目を瞬くと、同僚の心配顔が目に入った。
「森川さん?」
「あ、ごめん。ぼうっとしてた」
「大丈夫?」
「うん、平気平気。で、わたし、なにか話しかけられた?」
「うん、話しかけた」同僚が笑って言う。「明日休みだし、たまにはチームで飲み行かない?結束力を高めるためにも」
「ただ飲みたいだけでしょ」
「ま、そういうことだね」
「でも、たまにはみんなでおいしいもの食べなきゃね。みんなこれるの?」泉がほかのメンバーに訊くと、みんな笑顔でうなずいた。「よし!じゃあ食べて食べて、飲みまくるぞ!」
「おお!」とみんなで拳を突き上げた。みんな笑っていた。
 久しぶりのお酒は泉の身体に沁みわたり、ほどよく酔いが回った状態でマンションに辿り着いた。眠気に負け、泉は顔だけ洗ってベッドにもぐりこんだ。
 闇に囲われている。目の前にかざした自分の手さえも見ることができないほどの闇の中で、あの森の匂いがする。川の音も、風の音も、木々が揺れる音も聞こえる。ただ、なにも見えない。それでも近くに彼がいる気がして、暗闇を手で探りながら足を前に動かした。あの夢の中であれば、葉っぱや枝に触れるはずなのに、宙に彷徨わせる手がなにかに触れることはなく、一歩踏み出だす足も、本当に前へと進められているのかわからなかった。
 それでもここはあの森の中だと、なぜか確信がある。ただ、いつも手を差し伸べてくれる彼がいない。でも気配は感じる。だからその気配に近づこうと足を向けてみるのに、一歩近づけばその気配は消えてしまう。不安に押し潰され、泉は今にも泣き出しそうに顔を歪めた。
 そのとき、息をはずませた誰かが泉に駆け寄ってくるのを感じた。泉がその場で固まっていると、森の香りが強くなり、それと同時に泉の強張った身体は誰かにぎゅうっと抱きしめられた。その瞬間、それが彼であることに気づき、泉の頬には涙が零れた。
「よかった」
 息を切らせながら、泉の耳元で彼が言う。離れることを恐れるように、彼の腕は泉の身体を強く抱きしめた。
 目が覚めた、と同時にスマホが震えた。これまでと同様、体が軽いことに変わりはないが、今までとは違う夢の内容に泉の頭は混乱していた。
 なんだろう、あの夢は。
 夢を思い返し、恐怖心と安堵感が蘇ったとき、スマホが震え続けていることに意識が向いた。スマホの画面を見ると、表示されているのは実家の番号。
「もしもし」
『ああ、泉』
「お父さん?」実家からの電話はたいてい母親からだ。「どうしたの?」
『悪いな、朝早く』
 父の言葉を聞いて部屋の時計を見ると、朝の六時過ぎだった。早朝の電話に嫌な予感が泉を覆う。
「ううん、べつにいいけど。どうしたの?なにかあった?」
『お母さんが救急車で運ばれた』
「え?どういうこと?」
『昨日の夜中に急に苦しみだしてな、そのまま病院に運ばれたんだ』
「それで?お母さんは?」
『手術して、今は落ち着いている』
「手術?」思考が一瞬止まった。「どういうこと?なんで手術なの?」
 父がひとつ息を吐き出した。そのひと呼吸に、嫌な予感が恐怖に変わる。
 そして聞こえてきた父の声。
『盲腸だ』
 すぐにはその意味がわからず、言葉が出ない。
「……は?」
『盲腸』
「盲腸?」
『うん』
「え、盲腸って、あの盲腸でしょ?」
『そうだ』
「ちょっと……」一気に脱力して、ベッドに倒れこむ。「こんな時間にかけてくるほどのことじゃないじゃん!」
『なに言ってるんだ。盲腸が破裂したんだぞ?すごい痛がりようだったんだぞ?』
「それはわかるけど、手術も成功して、今は落ち着いてるんでしょ?だからお父さんも家に帰ってきたわけでしょ?」
『そうだ』
「連絡はほしいけど、なにもこんな朝早くに」
『……たしかにそうだな』
 父はそう言ってがっはっは!と豪快に笑った。それにつられて泉も笑った。
「でも大きな病気じゃなくてよかった。連絡ありがとう」
『泉、忙しいのはわかるんだが、近いうちに顔出すことはできないかな。お母さん、今まで病気なんてほとんどしたことないだろ?しかも入院なんて。たしかに大きな病気じゃないが、ちょっと不安になってるようなんだ。泉は元気だろうか、なんて急に言い出してな』
 仕事が忙しいのを理由に、お正月とお盆ぐらいしか帰省しない泉にとって、父の言葉は十分に罪悪感を与えるものだった。
 ふと、夢の暗闇が思い出される。泉を探し回ったことがわかる荒い息遣いと、心から安堵した彼の声がよみがえる。このことを暗示していたのではないかと、泉は直感的に感じた。もしあのとき彼がわたしを見つけてくれていなかったら、お母さんは盲腸なんかじゃなく、もっと重篤な病で苦しむことになったのかもしれない。
 鳥肌がたった両腕を、泉は空いている手でさすって温めた。時間はまだ朝の六時半。泉は父に、「電話切らずにちょっと待ってくれる?」と言い置いて、スマホを操作した。
「ごめん、お待たせ。新幹線空席あるから今から行くよ」
『えっ!今日?』
「なによ、顔出せないかって訊いたのお父さんじゃない」泉はおかしくて笑った。「えっとね、十二時二十四分着の新幹線。悪いけど、迎えにきてくれる?」
『もちろんだとも。お母さんには内緒にして、驚かせてやろう』
 父の楽しそうな声を聞きながら、昔から変わらないなと口元を緩めた。
「驚いて傷口開いちゃうかもよ」
『そりゃまずいな。でも大丈夫だろう』
 驚かせたい気持ちが勝ったようだ。
「わかった。じゃあ、またあとでね」
『気を付けてくるんだぞ』
「うん」
『泉、ありがとうな』
 父から改まって言われ、泉は照れくさくて「うん」とも「ううん」とも聞こえる返事をして電話を切った。一泊といえども、女はいろいろと必要なものがある。よし!と気合をいれ、どこかウキウキしながら、泉は急いで準備をはじめた。
 泉には三歳下の妹と五歳下の弟がいる。五人家族だ。森川家は身体が丈夫なのか、病院にお世話になったことがほとんどない。幼い頃は、転んでケガをしたり、水疱瘡やおたふく風邪などに罹って近所の小児科にお世話になったが、大きな病気やケガは一度もなく、妹と弟が産まれたときも近所の産婦人科病院だったため、総合病院と呼ばれるような大きな病院に足を踏み入れることなどなかった。母の病室に辿り着くまで、泉は物珍しいものを見るようにきょろきょろとあたりを見渡していた。
 病室のドアはどこも開け放たれており、どこからか妹と弟の笑い声が聞こえてくる。父に案内され、泉は病室の入り口まできた。入り口には紙を挟めるプレートが四つあり、森川の名前は右上、ほかに二名分の苗字が右下と左上に挟まっている。入り口からちょっと覗いてみると、隣のベッドとの仕切カーテンが閉められていて、母の様子を窺うことはできなかった。人を驚かせるのはいくつになってもわくわくする。泉と父は二人でニヤニヤしながら忍び足でベッドへと近寄った。
「お母さん!」
 泉がカーテンからひょこっと顔を出すと、母の驚いて固まった顔が泉を見た。妹と弟も一緒に驚いている。驚いた顔はすぐに喜びの顔になり、母は満面の笑みで泉を迎えた。
「泉!どうしたの?なんで?」「お姉ちゃん!」「姉ちゃん!」
 三人の声が一斉に言う。
「今朝、お父さんがお母さんが倒れたって連絡くれたの」
「それでわざわざきてくれたの?」申し訳なさそうに眉を寄せてはいるが、うれしいことが隠しきれない顔で母は父を見た。「でも倒れたなんて大袈裟よ。ただの盲腸じゃない」
「倒れたって言うから、わたしもお母さんがとんでもない病気なのかと思った。でもよく聞いたら盲腸だって言うんだもん。朝から笑わせてもらったよ」
「やだもう!お父さんったら!」
「だって、あんなに痛がってたじゃないか」
「そりゃ痛いわよ!」
「でもよかった。大きな病気じゃなくて」
「ほんと。あのときは死ぬかもしれないって思ったわよ」
「お父さんも死にそうだったよね」妹がからかうように言った。
「そうそう。大変だ!お母さんが倒れたんだ!って、真夜中に電話してきたもんね」弟もからかうように言った。
「あの場にいないからそんなことが言えるんだ。あんなに悶絶しているお母さんを目の前にしたら、誰だってああなる」
「お母さん、こんなに心配されて幸せね」
「ほんとにねえ。娘と息子がすぐに駆け付けてくれるなんて、信じられないわ」
「でもお姉ちゃん、よくすぐこれたね?」
「新幹線に空席があったから。しばらく帰ってなかったし、これもいい機会かなと思って」
「そうじゃなくて、仕事。忙しいんでしょ?」
「忙しいのは変わりないけど、土日は休みだし」
「そりゃそうだろうけど、大丈夫なの?」母の心配顔が泉をのぞき込む。「忙しいのはわかるけど、身体無理してないの?」
「してないよ。会社でもいろいろあって、いろいろ改善されてきてるし、数ヶ月前に比べればだいぶ身体は楽になったよ」
「でもたしかに、お正月のときに比べれば顔色もよくなったし、表情も明るくなったわね。あのときは生気というものがゼロだったもの」
「え、そんなに?」泉は自分の顔を触った。
「ここ数年で十歳は老けたよ、お姉ちゃん」
「姉ちゃん気づいてなかったの?やばいよそれ」
「ええ!やだ!」
「でも三歳ぐらいは若返ったんじゃない?」
「たったの三歳?」
「でかいよ、三歳は」
 子供たちのやりとりを、父も母もニコニコしながら聞いている。母はつい声を出して笑ってしまい、そのたびに「いたたたた」と言って顔をしかめていた。
「姉ちゃんいつ帰るの?泊ってくんでしょ?」
 弟のなにか期待するような眼差しが泉に向いた。
「うん、せっかく帰ってきたし」
「よっしゃ!じゃあ今日は寿司だな」
「それが狙いか」
 泉が寿司好きということもあって、泉が帰ってくると夕飯はいつも寿司をとる。妹も弟も独り立ちしてすでに実家を出ているが、三十分もあれば実家に帰れる距離のため泉のような特別対応はない。
 子供のように「すし!すし!」と喜ぶ弟に呆れながらも、泉はひさしぶりに過ごす家族との時間に心から感謝していた。あの夢の、彼のおかげ。あたりまえのようにそう感じた。
 面会時間が終わるギリギリまで病院に居座り、家に帰ればさっそく寿司。家族で寿司を食べ、家族のなんてことない、くだらない話でゲラゲラ笑いあった。酔っぱらう前に風呂に入ると言って父が腰を上げ、兄弟姉妹だけが居間に残ると、泉は自然と口を開いていた。なぜその話をしようと思ったのか泉自身もよくわからない。家族に不思議な体験を聞いてほしかっただけかもしれない。
「へえ。じゃあ、その夢の人はお姉ちゃんだけじゃなくて、お母さんも助けてくれたってことだ」
「わたしはそう思う」
「でもさ、それもきっとお姉ちゃんのためだよね。お母さんがもし大きな病気になったら家族全員悲しむでしょ?お姉ちゃんに悲しい思いをさせないように、一生懸命助けにきてくれたんじゃない?」
「すげえいい奴じゃん。誰だよ、その人。現実にいないわけ?」
「いてほしいけど、いないね」
 どうして家族に話そうと思ったのか、泉は納得した。妹も弟も、こんな笑い飛ばされてもおかしくない話でもちゃんと聞いてくれる。聞くだけじゃなくて、泉の話を疑うことなく、こうして一緒に考えてくれる。この場に父と母がいても同じだろう。
「でも、なんで姉ちゃんのこと助けてくれるんだろ」
「わかんない」
「でもさ、はじめはただ目の前に現れるだけだったんでしょ?それがなんで急に夢が展開していったんだろね」
「わかんない」
「でも、なんでそんな夢見るようになったんだろ」
「わかんない」
「でもさ、森の中ってのも気になるよね。なんかお姉ちゃんと関係あるのかな」
「わかんない」
 妹と弟から睨まれた。
「わかんないばっか言ってないで考えてよ」
「だってわかんないんだもん。しょうがないじゃん」
「実際に夢見てない俺らはもっとわかんねえよ」
 そうだそうだ!と妹と弟から責められていると、父が居間に戻ってきた。
「あ~気持ちよかった。ん?どうした?ケンカか?」
 そう楽しそうに訊いてくる父に、妹と弟がお互いの話を補いながら、泉が見る夢のことを話した。泉が入る隙はない。
「そりゃあすごいなあ!泉、ちゃんとお礼言っておくんだぞ」
 わかっているんだかわかっていないんだか、父は風呂上がりのビールをおいしそうに喉に通している。父からはなにも有益なことは出てこなそうだと判断した妹と弟が口を開こうとしたとき、「そういえば」と父が口を開いた。
「泉は昔よく見てたもんな」
「え?」三人の声が揃った。「なにが?」
「ん?森の中に立つ人の夢だろ?泉が小さい頃見てた夢じゃないか」
「は?」今度は泉だけ。妹と弟は泉を見ただけ。
「なんだ、覚えてないのか?」
「ぜんぜん。五年前の冬にはじめて見たと思ってた」
「小学生の頃、見るたびにお父さんとお母さんに教えてくれてたじゃないか。頻繁にってわけじゃないけど、たぶん、数ヶ月に数回は見てたんじゃないかな。お母さんならもっと詳しく覚えてるだろうけど」
「うそ?ぜんぜん覚えてない。え、同じ夢を見てたの?」
「うん、泉が自分でそう言ってたぞ。森の中に人がいて、でも顔は暗くてよく見えない。手をつないだら目が覚めるって」
「ええええ?ほんと?」
「お姉ちゃーん!なにしてんのよ~!」「姉ちゃーん!なんだよ~!」と泉に非難を浴びせ、妹と弟は父ににじり寄って「それで?」と訊いた。
「それでって、それだけだよ。まあ、次第に泉がその夢の話をすることはなくなったけどな。見なくなったのか、話さなくなったのかはわかんないけど」
「記憶がないってことは見なくなったんじゃないかな」
「じゃあ、大人になってまた見はじめたってこと?」
「なんか理由があるんじゃないか?」
「お姉ちゃんがその夢の話をしてたのはいつぐらい?」
「どうだったかなあ」父はグラスを持ちながら宙を見て考え込んだ。「たしか、小学二年生か三年生か、そのぐらいだったと思うけどなあ。お母さんならもっと詳しく覚えてるだろうけど」
「なんかきっかけがあったのかな?」「その頃なんかあった?」と妹と弟が泉に訊いてくる。
「ええ?なんかって言われても……」泉も宙を見て考え込んだ。「なんも思い浮かばない」
 しっかりしてよー!とまた非難され、泉はぽりぽり額を掻いた。とそのとき、「そういえば」と父が口を開いた。
「なになに?」
「あの頃、泉、学校行きたくないって言ってたな」
「え?わたしが?」
 そう言いながら、泉は記憶を掘り起こしていた。いくつもある思い出や記憶の中から、父が言う記憶を探し出す。おぼろげに、行きたくないとごねる娘に困り果てた母の顔が浮かび上がり、鮮明に思い出された。
「あ……」
「なに?思い出した?」妹が目を輝かせて泉に訊く。
「たしかにそんな時期があったかも」
「なんで?なんで行きたくなかったの?」弟も目を輝かせて泉に訊く。
「あんたたち、どんどん似てくるね」おかしくて二人を指さして笑った。「昔からそっくりだったけど」
「そんなことはいいから、で?なんで行きたくなかったの?」
「わたし、その頃いじめられてたんだよね」
「えええっ!うそ!お姉ちゃんが?なんで?」
「姉ちゃんはいじめられるようなタマじゃないだろ!」
「いじめって言ったら言葉がきついかな。なんて言うの?仲良かった子に無視されるようになっちゃって」
「それはいじめだろ。なんか原因があったの?」
「夏休みまでは仲良しだったんだけど、夏休みが終わるとみんな、どこに行ったとか、誰となにして遊んだとか話すでしょ?」
「まあね、そんなもんだろうね」
「うちも毎年キャンプに行ってたじゃない?だからわたしも、その子にキャンプに行ったことを話したわけ。もちろん楽しい思い出だから、楽しいことしか話さないでしょ?そしたら急にその子が怒りだしちゃって、さらにはわあわあ泣き喚いちゃって」当時を再現するように、泉は困り果てた顔をした。「わたしも小さかったから、友達が急に怒って泣き出して、どうしたらいいかわかんなくておろおろしてたと思うんだけど、その子が『泉ちゃんなんて大っ嫌い!』って言って、両手でどんってわたしを押してきてから、わたしそのまま転んで尻もちついちゃって、結局わたしも大泣きするっていう騒動があったのよ」
「うん、それで?」
「もちろん担任の先生が駆けつけて、なにがあったのかその子からもわたしからも、周りにいた子からも話を聞いて、先生がちゃんとその子に注意してくれた」
「いや、そうじゃなくて、それといじめがどう繋がるの?」
「ああ、そっか。先生があとでわたしにだけ教えてくれたんだけど、その子のご両親、夏休み中に離婚したみたいなの。だからその子にとっては夏休みなんて楽しくもなくて、それなのにわたしが楽しそうに話すもんだからむしゃくしゃしちゃったんだろうね」
「なんじゃそりゃ。ただの八つ当たりじゃないか」
「まあね。でもまだ小学二年生だったし、悲しいとか寂しいとか、そういう気持ちを自分だけじゃ整理できなかったんだと思うよ」
「羨ましいが妬ましいに変わっちゃたんだね」
「そのあとわたしもうまくやればよかったんだけど、家庭が大変なことになってるその子になんて声をかければいいのかも、どんな態度をとればいいのかもわかんなくて、だからそのままぎくしゃくしちゃって。たぶんその子も同じだったんだと思う。仲良くしてたから、その子が意地悪じゃないことはわかってたし。でも、いきなり怒って泣いて、わたしを突き飛ばして、そのままじゃその子が悪者になっちゃうでしょ?だからなにか理由をつくって、わたしを悪者にして、周りの子を巻き込んで無視しはじめた、って感じかな」
「なんだそりゃ。卑怯だな」
「でも大人になってから思うと、その子もどうしようもなかったんだと思う」
「そのあとは?お姉ちゃん、ずっと無視されてたの?」
「ううん、二、三ヶ月ぐらいだったかな。それにクラスの子全員じゃなくて、四、五人ぐらいから無視されてただけだから。あのときわたしの近くにいた子はわかってくれてたし、その子の両親が離婚したってことも次第に広まっちゃってさ、いつの間にかなくなってた。その子とはこれまで通りとはいかなくなっちゃったけどね」
「お姉ちゃんにもそんなことがあったんだね」
「だからこんなに頑丈になったんだな」
「じゃあ、夢の人はその時期にお姉ちゃんの夢に現れたってことだよね」
「そうみたいだね、覚えてないけど」
「なんで覚えてないんだよ!めっちゃ重要じゃん!」
「そんなこと言われても、覚えてないんだからしょうがないじゃん」
 あっけらかんとする泉に、弟は「思い出せ~思い出せ~」と手をひらひらさせて念力を送る。それが功を奏したのかはわからないが、「そういえば」と父が口を開いた。
「なになに」
「泉、日記書いてただろ。小学生の頃」
「それだ!それになんかヒントが書いてある可能性がある!その日記どこにあるの?」
「ええっとね……」父は天井を見上げ、「どこだったかなあ」と首を傾げる。弟だけでなく、妹までが「思い出せ~思い出せ~」と念力を送りはじめた。
「泉が引っ越したときにあらかたまとめたはずだから」父の視線が居間に続く和室の襖に移った。「あるとしたら、あそこだな」
「よっしゃ!探すぞ!」
「なんでそんなに気合が入るのよ」そうは言ったものの、泉も気になって腰を上げた。「しかもわたしのプライバシーはどこにいったのよ」
 父も加わり、押し入れにしまってあった段ボールの中身を四人で確かめていく。泉のものだけでなく妹と弟のものもあり、日記を探すはずが、なつかしいなつかしいと思い出話に華が咲いた。
 それを手にしたのは泉だった。全部で七冊。日記なんてものは、家族であろうと見せたくないものである。泉は見つけたことを言わずに、一人で静かに、記憶を掘り起こしながら読み返していく。小学一年生から、毎日とは言えないが、それなりに日々の出来事を綴っていた。面倒くさくなったのだろうか、小学三年生の八月で日記は止まっている。
 あるページで泉の手が止まった。父の言う、夢を見ていた時期のページだ。
『九月十二日(月)。今日、ふしぎなゆめを見た。森の中で、わたしだけで、だれもいなかったけど、気づいたら、男の子が立っていた。顔はよく見えなくて、その男の子と手をつないだら、目がさめた。かなしくて学校に行きたくなかったけど、今日は元気がでた。なんでだろう』
 数ページめくると、また同じような内容があった。
『九月二十三日(金)。またふしぎなゆめを見た。男の子は、だいじょうぶだよと言った。朝おきたら、元気がでた。あの男の子はひかるくんだ』
「え?」思わず声が出た。
「なに?どうしたの?」妹がすかさず反応する。「え、お姉ちゃん!見つけたらなら早く言ってよ!」
「うわあ、なつかしいなあ」と言う父の嬉しそうな声が重なった。泉の手にある日記帳を見てそう言ったのかと思ったが、父はアルバムをめくっていた。「ほら、ここ。よくみんなでキャンプしただろ」
 父がアルバムを広げたまま、泉に見えるようにする。
 その瞬間、泉の中の記憶が渦のように駆け巡り、景色、匂い、言葉、温度、想い、息苦しいほどにさまざまなことが泉の身体を支配し、いつかのあの日に連れ去った。

「おい!大丈夫か!おーい!」
 誰かに呼ばれている。頬をぺちぺち叩かれている感覚が少しずつ強くなる。突然すべての感覚が戻り、あえぐように空気を身体に取り込んだ。
「よかった、気がついた」
 ほっとした声が聞こえ、その声のほうへ顔を向ける。靄がかかったような視界も晴れ、目の前に同い年ぐらいの男の子の顔があった。気持ちにゆとりが生まれたのか、鳥の声、葉っぱが風に揺れる音、水が静かに流れる音が心地よく聞こえてくる。
「起き上がれるか?」
 小さくうなずき、上半身を起こした。男の子が肩を支えてくれた。そこでやっと、自分も男の子もずぶ濡れだということに気づき、記憶がよみがえった。
「わたし……」
「あそこの岩で足滑らせて、川ん中落っこちたんだよ」
「助けてくれたの?」
「そりゃあね。目の前で人が川に落ちたら助けるよ」胸を張るように、でも照れくさそうに笑う。
「どうもありがとう」
「頭、打ってないか?」
「え?どうだろう」頭を触るとずきんと痛んだ。「いたっ」
「さすがに傷までは見れないから、病院行ったほうがいいぞ」
「うん」
「家族できたんだろ?」
「うん」
「キャンプか。どこでテント張ってるんだ?」
「少し先の、そこの」川の上流のほうを指さす。「カーブしたところを曲がったとこに」
「じゃあ、すぐだな。立てるか?」
 そう言って男の子が手を差し伸べてくれる。少しめまいがしたものの、問題なく歩けそうだった。
「うん、大丈夫そう」
「あの大きな木のとこまで一緒に行くよ」
「ありがとう」
 ゆっくりと二人で歩く。転ばないように、ぎゅっと手を握り合い、大きな木のところまで歩いていく。
「じゃあ、ぼくはここで」
「うん、どうもありがとう」
「気をつけろよ」
「うん」
「あ」と呟き、深刻な顔で目を合わせてきた。「この場所、嫌いにならないでくれよな」
 思わぬ言葉に、思わず吹き出した。
「ならないよ。毎年きてるんだけど、いつきても楽しいもん」
「そっか、ならよかった」心底うれしそうに笑う。「それじゃあ!」
 走って遠のいていく男の子の背中に大声で問いかけた。
「また会えるー?」
 男の子は足を止めてくるりと振り返り、「いつでもおいでー!」と満面の笑顔で手を振ってくれた。

 昨日足を滑らせた岩に座って足をぶらぶらさせていると、軽快な足音が聞こえてきた。
「やあ!」
「よかった!ここで待ってれば会えるかなって思ったの。昨日は本当にどうもありがとう」
「病院行った?」男の子も岩に座る。
「うん、あれからすぐに行ってきた。たんこぶができただけで、あとは大丈夫だって」
「そっか。ならよかった」
「そうだ、わたし、いずみ」
「ぼくは、ひかる」
「ひかる君は、この近くに住んでるの?」
「うん、森の中に家がある」
「へえ!すてき!」
「そうかな」照れたように鼻をぽりぽり掻く。
「じゃあ、この森のことは誰よりも詳しいね」
「まあね」誇らしそうに胸を張り、そのあとちろっと舌を出した。「父ちゃんには敵わないけど」
「そりゃそうだね。でも、植物とか、昆虫とか詳しいでしょ?」
「うん」
「ねえ、教えて」
 ひかるの顔がきらきらと輝いた。
「もちろん!きて!」
 ひかるに手をひかれ、森の中を歩く。かわいい花や変わった葉っぱ、見たこともない虫や木の実と出会うたびに、泉は「これはなに?」と訊く。ひかるは迷うことなく答えていく。わからないものが出てくると、ひかるはポケットに入れていたメモ帳にその絵を描き、特徴を記入していった。「それどうするの?」と訊くと、「父ちゃんに訊く」と言ってひかるは笑った。
 森の中を歩いていると、思わぬ枝に躓いたり、なにかにつかまらないと登れなかったり下りれなかったりする。そのたびにひかるは手を差し出し、転ばないように泉を助けてくれた。
 空に赤みが差しはじめた頃、遠くから母の声が聞こえた。ひかるもその声に気づき、「ぼくももう帰らなきゃ」と言って俯いた。森の音がやけに大きく響いて、二人を包んだ。
「わたし、明日の朝、帰るの」
「……そっか」
 たった一日一緒に森の中を歩いただけなのに、さよならすることをこんなに寂しいと思うなんて、二人はまだ幼すぎて、自分たちの感情に戸惑った。母の声がまた聞こえる。
「はーい!今いくー!」
「また、会えるかな」
「うん」
「また、会いたいな」
「うん」涙声になるのを必死で堪えた。「ひかる君に、いろんなこといっぱい教えてもらって、いっぱい助けてもらって、すごく楽しかった」
「さっきメモったやつ、今日、父ちゃんに教えてもらうから、来年教えてあげる」
「うん!」
「来年もまた、一緒に森を歩こう。いずみちゃんが困ったときは、助けてほしいときは、ぼくがちゃんと守るから」
「うん、約束ね」
「うん、約束」
 ひかるはくるりと背を向け、森の中に駆けて行った。

「――ちゃん、お姉ちゃん!」
 身体を揺さぶられ、泉は記憶の中から戻ってきた。
「おいおい、泉、大丈夫か?」
「姉ちゃんどうしたの?」
「あ、ごめん」今のはなんだったのか。泉は目の前にある三つの顔を見渡したあと、父が持つアルバムに視線を落とした。「そのアルバム、もう一回見せて」
「あ?ああ」
「お姉ちゃんどうしたの?」
「ひとりで進めるなよ」
 父からアルバムを受け取り、キャンプ場で撮った写真を一枚一枚眺めていく。
 そう、この森だ。ひかる君と一緒に歩いた森。あとこの川。ひかる君がわたしを助けてくれた川。どうして今まで忘れてしまっていたんだろう。
 泉はさっきまで手にしていた日記のページを遡ってめくっていく。あった。
『八月十日(水)。今日は頭にたんこぶをつくった。川であそんでいたら、足がすべって、ころんでしまった。でも、男の子がたすけてくれて、たんこぶだけでけがはなかった』
『八月十一日(木)。昨日たすけてくれた男の子(ひかるくん)と森の中を歩いた。花、はっぱ、こんちゅう、いろんなことを教えてくれた。私は明日帰ってしまうから、もう会えない。とてもさみしい。でも、また来年会おうってやくそくしたから、私がこまったときはたすけてくれるってやくそくしたから、来年また会える』
 泉は最後の一冊になった日記に手を伸ばし、ページを急いでめくった。
『八月十二日(土)。お父さんなんて大きらい』
 とんでもない一文が目に入り、泉は思わず父を見た。
「なんだ?」
「ねえ、お父さん。わたしが小学三年生の夏休みって、キャンプ行かなかったっけ?」
「いや、キャンプは毎年行ってるぞ」
「これ」
 父に日記を見せ、問題の一文を指さした。妹と弟も身を乗り出して日記を見ると、声を揃えて書いてある文を読んだ。
「お父さんなんて大きらい」
「なにか心当たりは?」
「ええ?大きらいなんて……」
 何十年も前のことに、父は今さら傷ついた様子で眉を顰める。
「自分で言うのもなんだけど、わたし子供の頃お父さんっ子だったと思うのよね。そんなわたしがこんな一文を書くなんてただごとじゃないよ」
「お父さんなにしたの?」
「親父、姉ちゃんに暴力か」
「そんなことするわけないだろ」心外だとばかりに腕を組み、また天井を見上げる。するとまた、「そういえば」と父が口を開いた。
「でた!そういえば!」
「たしか、あの年、いつも行ってたキャンプ場に行けなくなっちゃったんだよ。あ、そうそう、思い出した。キャンプ利用する人たちが増えてきてしまって、自然保護のために禁止になったんだ」
「じゃあ、この年からは別のキャンプ場を利用してたってこと?」
「そんなに離れてはないんだけどね。別のキャンプ場に行くって言ったら泉が泣き出しちゃって、いつものところがいい!って珍しく駄々こねて、お母さんと一緒に大変だったんだから」
「そういうことか」
「お姉ちゃん、ひとりで納得しないでよ」「そうだよ、ちゃんと説明しろよ」
 泉はつい数分前に見た自分の記憶と、今聞いた事実を合わせて家族に話した。
 ひかる君はどう思っただろう。約束を守ってくれなかったと怒っただろうか、悲しんだだろうか。今日まで忘れてしまっていたわたしを、ひかる君はどう思うだろう。
「でもさ、その場所がキャンプ禁止になったことはひかる君も知ってるんじゃない?毎年キャンプしてる人がいたのに、いなくなるんだもん」
「俺もそう思うな。姉ちゃんがそう思うみたいにさ、ひかる君もキャンプができなくなったことを知って、でも子供の自分じゃどうすることもできなくて、姉ちゃんとの約束が果たせないって知って、さみしくていじけたと思うな」
「でも今日の今日まで忘れてるなんて」
「ひかる君も忘れてるかもよ。何十年も前に一度だけ遊んだ子のことなんて、ふつう覚えてるか?」
「わたしは忘れちゃう。でもさ、お姉ちゃんの夢に出てきてるんだよ?」
「潜在意識っていうかさ、姉ちゃんもひかる君も約束した思いがずっと残ってて、それが夢で繋がったのかもしれない」
「なるほど、ありえる。でもさ、不思議だよね。小学生の頃見た夢の中ではひかる君も同じ子供だったのに、お姉ちゃんが今見る夢の中ではひかる君も大人になってるんでしょ?大人になったひかる君はお姉ちゃんの勝手な妄想なのかな」
「え、なんかそれ、気持ち悪いね」泉が苦笑いする。「妄想ストーカー」
「ひかる君の夢には姉ちゃん出てこないのかな?」
 泉も、妹も弟も、父も首を傾げるしかなかった。

 翌日、母の病室で家族がまたそろった。妹と弟は、競い合うように泉の夢の話を母に聞かせ、母は手術後の傷の痛みもどこへやら、興味津々な様子で耳を傾けていた。妹と弟は、母の血を確実に継いでいる。
「お母さん、覚えてるわよ。お父さんなんて大きらい事件」
「ほんと?」泉が信じられない様子で声を上げた。
「泉はあまり駄々こねる子じゃなかったし、ちゃんと理由を説明すれば納得する子だったのよ」
「子供の頃からそんなんなの?姉ちゃんすげえな」
「だからよく覚えてるの。キャンプ場が自然を守るために利用禁止になった、なんて、誰でも納得する理由でしょ?キャンプ場なんてほかにもたくさんあるし。いつもの泉なら納得する理由なのよ。なのに珍しく、やだ!あそこのキャンプ場じゃなきゃ行かない!って、泣いて喚いて、本当に大変だったのよ。反抗期の子供みたいにドアをバン!って閉めて部屋に閉じこもっちゃってね。しばらくして様子を見に行ったら、泣き疲れたのか寝ちゃってて、ベッドの横に日記帳があったから気になって読んじゃったのよ」いたずらした子供のように笑って肩をすぼめる。「そしたら『お父さんなんて大きらい』って書いてあるんだもの。笑ったわよ」
「おいおい、なんでそこで笑うんだよ。大きらいなんて言われた身になってみろ」
「だってあのとき、お父さんとわたしで泉を説得してたのに、書いてあったのはお父さんだけなんだもの。そりゃ笑うわよ」
「泉、なんでお父さんだけなんだ」
 悲しげに眉を寄せる父の顔がおかしくて、泉は吹き出した。
「知らないよ」
「でもさ、結局違うキャンプ場に行ったんだよね?」
「そりゃあね。いくら泉がいやがったって、禁止されてるところでキャンプはできないもの。でもまさか、そんな理由があったとはねえ」母がにやりと笑う。「泉の初恋かしら」
「うるさいな」
 照れる泉を母はやさしい眼差しで見つめ、やさしい口調で言った。
「ひかる君にお礼言わなきゃね。泉のこと何度も助けてくれたんだもの」
「そうだな、毎日手を合わせないとな」
「お父さん、死んだ人じゃないんだから」
「そうだよ、縁起でもない。ひかる君に謝ってよ」
「そんなんだから『お父さんなんて大きらい』って言われるんだよ」
 妹と弟に責められ、父は母より具合が悪そうに俯いた。それを見て母は大笑いし、「いたたたた」と顔をしかめた。

 泉の心を占めているのは、あの夏の日のこと。今まで忘れていたのに、突然ふいに、色鮮やかに思い出される。
 触れた枝の固さ、虫が手のひらで動くくすぐったさ、木の実の甘酸っぱい味、ふわふわの土、メモ帳に書いた絵、ひかる君の手、声、笑った顔。
 どれもこれも、目の前に映し出されるように流れていく。これが本当の記憶なのか、それとも自分が作り出したものなのか、泉は時折わからなくなった。
 仕事は順調だった。もともと忙しい部署であるから、もちろん残業はある。それでも無駄な残業はなくなったと断言できる。今までは、誰もが重りを背負っているかのような、鈍重な空気が流れていた。それが今では、それぞれ抱えているものはあるものの、その足取りは軽やかで、軽快とも言える雰囲気が充満している。泉はやっと、仕事に対して充実感を味わっていた。しかし、どこかにぽっかりと、埋まらない穴がある。それがなんなのか、泉はわかっている。
「森川さん、今大丈夫?」
 三ヶ月前に課長となった堀野に呼ばれ、泉は手を止め「はい」と返事をし、その場で問いかける眼差しを向けた。堀野はフロア奥にあるミーティングルームを指さすとデスクから離れ、泉も席を立ちあとを追う。ミーティングルームに入るなり泉は訊いた。
「どうしました?」
「ごめんごめん、あんまり周りに聞かれないほうがいいかなと思って」
「なにかあったんですか?」
 堀野はちらっと泉を見て、なにかを読み上げるように言った。
「あれから三ヶ月が経とうとしています」
「ああ」
「ああって」堀野は苦笑いを零し、椅子に座った。泉も腰かける。「どう?森川さんから見て、うちは変わった?」
 堀野と泉は仕事で関わることも多く、お互い信頼し合っていることもあり堅苦しい間柄ではない。先輩と後輩が上司と部下に変わったところで、その関係が変わることはない。
「変わりました。上司が変わっただけでこんなに変わるのかって、正直、今まではなんだったんだろうって思ってます。堀野課長が課長に抜擢されて本当によかったです」
「そう言っていただけると昇進した甲斐があります」
「みんな言ってますよ。人事は今までなにしてたんだって。あ、松下部長のことじゃないですよ」
「わかってるよ。それで、今後の予定を聞かせてもらいたいんだけど」言い方はふざけていたが、堀野の顔は真剣そのものだった。「俺個人の意見としては、うちの現状はとてもよくなったと思ってる。松下部長のお力添えはもちろんだけど、みんながこの部署をよくしようと一生懸命やってくれていることが、うちを変えたんだと思う。その筆頭が森川さんだ。本来なら俺らが立ち上がらないといけなかったんだけど、忙しさを理由にしてほったらかしにしてた。本当にすまなかった」
「え、やめてくださいよ。わたしがあのとき言わなくたって、いずれ誰かの堪忍袋が切れてましたよ」
「そうかもしれないけど、森川さんが立ち上がったことに意味があったんだよ、あれは。だからさ、うちには森川さんが必要だと心底思ってる。こんなこと言われたら辞めるなんて言いづらいだろうけど、会社がそう思ってるってことは知っておいてほしい。あえて俺の個人的な想いを言わせてもらうと、俺は森川さんとなら、これからもっとおもしろい仕事ができると思ってる」堀野のまっすぐな視線が泉に突き刺さる。「辞めないでほしい」
 堀野の視線と同じぐらいまっすぐな言葉に、泉は喉を詰まらせた。
 今まで仕事を褒められたことは何度もある。自分を評価してくれていることも聞いている。でも、堀野の言葉は、どれよりもうれしかった。こみ上げる感情を止めることはできなかった。
 突然涙を流した部下に、堀野は慌てた。
「え、え、森川さん。ごめん、なんか失礼なこと言っちゃったかな」
「いえ、違うんです。わたしのほうこそ、すみません」指で涙をぬぐい、泉は堀野に笑顔を見せた。「課長の言葉がうれしかったんです。本当に、ありがとうございます」
「いやいやいや、森川さんの正当な評価を口にしただけだよ」中腰なっていた腰を落とし、堀野もほっとした笑顔になる。「えっと、じゃあ、あの退職願はもういらないかな?」
 その問いかけに、泉はさっきとは違う意味で喉を詰まらせた。あの夏の日を思い出さなければすぐにうなずいただろう。しかし、泉はうなずくことも、なにか言葉を発することもできなかった。
「森川さん?」
 堀野の声に、なにか言わなきゃと思いつつ、泉は俯き、唾を呑み込み、気持ちが定まらないまま顔を上げた。その顔を見て、堀野は察した。
「もう少し考えたいって顔だね」
「……すみません」
「いや、俺のほうこそすまない。こっちの気持ちばかり押し付けてしまって」
「いえ、聞かせていただけてよかったです」
「それじゃあ、気持ちが固まったら教えて。慌てなくていいし、会社の都合とか、俺が言ったことは全部忘れて、森川さん自身が納得する答えを出してほしい」
 泉が堀野と目を合わせると、堀野はひとつうなずいた。
「ありがとうございます。ちゃんと自分の気持ちを確かめたいと思います」
 泉の様子が元に戻ったことで堀野は安心した様子で立ち上がり、泉の肩をぽんとやさしく叩いてからミーティングルームを出ていった。ドアが閉まる音が聞こえ、泉は背もたれに寄りかかり、どこでもない宙に視線を漂わせた。
 今の職場であれば、仕事を続けたいと思う。信頼できる上司と、分かり合える仲間、こんなにも恵まれた環境が泉を囲っている。うなずかない理由なんてどこにもないはずなのに、なにかがそれを止めさせた。誰かがそれを止めさせた。なぜ、止めさせた?
 予感はしていた。彼が教えてくれるんじゃないかって。
 いつもの森で、泉は木々の隙間から見える空を見上げた。目を閉じ、耳を澄ませ、大きく息を吸う。すると、静かな足取りで、泉のすぐそばに誰かが立ち止まった。彼だ。
 瞼を開き、空を見上げたまま泉は呼びかけた。
「ひかる君」顔を見ずとも、彼が笑ったのがわかった。「約束守れなくて、ごめんなさい」
「約束を破られたなんて、思ってないよ」
 泉は彼の横顔を見た。その顔は、いつものように穏やかな笑みをたたえている。
「あと、ありがとう」その言葉に、彼は問いかける表情を泉に見せた。「この前、暗闇の中で助けてくれたでしょ?この前だけじゃなくて、わたしが困ってるときはいつも助けにきてくれた」
 彼は照れくさそうに笑い、「少し歩こう」と言って歩き出した。
 ゆっくり歩いて五分ぐらいの場所に、泉と彼が手を繋げても抱えきれないほどの大きな木が現れた。
「うわあ、大きいねえ」
「この木に触れると安心するんだ」宝物を自慢するように彼はその大きな木を見上げ、ひび割れた樹皮に手のひらを押し付けた。「おかえりって言ってくれてるみたいでさ」
 泉は彼と同じように樹皮に触れ、頬をあてて目を閉じた。ひんやりとしているのに、その向こう側にあたたかな清流が流れているかのようだった。
 気づくと涙を零していた。
 手のひらと頬だけでなく、背中にあたたかさを感じて、泉はゆっくりと瞼を開いた。
 大きな木と、大きな手が泉に安らぎを与える。風がやさしく頬を撫でて涙をぬぐい、木漏れ日からの光がその頬を乾かした。
 泉は微笑んだ。

 薄く白い雲が青い空を彩っている。気持ちのいい秋晴れだ。ここにくる日は、こんな晴れの日にしようと決めていた。
 実際にくるのは何十年ぶりだが、泉は迷うことなく森の中へと足を踏み入れた。夢の中で歩いた道のりが身体に刷り込まれているのか、森の中に入っても泉は方角を見失うことはなかった。
 一歩一歩、歩いていく。一歩近づくたびに、泉の鼓動は早くなる。
 泉は足を止めた。目の前には、あの大きな木。そっと触れ、あの夢と同じように目を閉じた。
 足音が近づき、その足音が止まり、泉は閉じた瞼を開いた。手が届きそうなほどの距離に、驚いた顔をする彼がいる。その澄んだ瞳が大きな木に触れる泉の手に向けられ、やわらかい笑顔になって言った。
「おかえり」
「ただいま」
 泉が一歩、彼に歩み寄る。
 彼も一歩、泉に歩み寄る。
 そして泉は、彼に手のひらを差し出した。視線を落とした彼の瞳が僅かに見開かれ、すぐに和らいだ。
「これはなんていう名前の実?」
「やっと教えられる」
 彼の人懐っこい笑顔が、太陽の光で輝いた。

おわり

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