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自然大好き孤高のアルピニスト「役小角」

 関西の寺に行くとどこでもとその名を目にする「役小角」だが、史実では半ば実在が疑われる仙人のような存在として登場することが多い。彼はさまざまな山にこもっては儀式を行い開山している。修験道の始祖とされ、修行中に蔵王権現に遭遇し、鬼を従えて空も飛べるらしくまさしく最古の仙人である。
 面白そうな人なので調べてみると自然派スーパーアウトドアリストもしくはアルピニストの匂いがプンプンとしてくる。仏教や密教がどうというよりは、自然から学んだ知識によって神がかり的な活動をした人なのではないか。

足の筋肉が尋常ではない

 調べてみると小角は「日本霊異記」や「本朝神仙伝」「今昔物語集」「扶桑略記」「水鏡」など様々な書物に仙人のような存在として登場する。「日本霊異記」以降彼は大体、「役優婆塞(優婆塞:うばそく:upāsakaの音写で男性の在家仏教信者の意味)」と呼ばれ、これらの書物に書かれている内容はどれも似通っている。奈良の葛城山に住み、葛や藤の皮を着物にし、松の皮や葉を食物として、元興寺で修めた孔雀明王の修法を自在に使いこなしたそうで、山にいれば問題なく生活できるタフな特殊能力を備えている。
 その後は生駒山にて鬼を捕らえて配下とし、金峯山と葛城山との間に橋をかけようとした。その計画に迷惑した葛城に住む一言主(ひとことぬし)は天皇にチクりを入れ、小角は伊豆大島に流されてしまった。それに怒った役小角は伊豆大島からわざわざ飛んで一言主のところまで行き報復に彼を呪術で縛ってしまう。
 時系列がもう色々めちゃくちゃだが一言主といえば、「古事記」に登場する葛城山に住む古い神の一人であり、同じ葛城山繋がりの同郷である。

一言主

 一言主は460年にかなり高貴なものとして初登場する。雄略天皇が葛城山に鹿狩りをしに行った時に、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見つけた。雄略天皇が名前を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に献上する。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送ったとされる。奈良の葛城一体にいた古くからの豪族のような存在のように考えられるが、初登場時は天皇と同等の立場にある神であったはずだが、後世ではなぜか告げ口をし仙人に緊縛されている。
 雄略天皇に会っていた時から生きているなら200歳をゆうに超えているわけだが、一言主を祀っていたとされる賀茂朝臣氏の地位が低下したためにそのような位置付けに格下げされたとも考えられており、修験道は平安期に最盛となっており、仏教や密教、神道の格付けが反映しているのかもしれない。
 なお、役小角は役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれ、「修験道」の開祖とされている。修験道とは、森羅万象あらゆるものに命や神霊が宿るとする「古神道」に山岳信仰と仏教、密教が混ざり合い、深山に入り厳しい修行を行うことで験力を身につけ、衆生の救済を目指すという宗教らしい。
 どんなことを行うかというと、主に「断食」「瞑想」「経典の唱え」「滝の下での祈り」などの禁欲的な修行を行うことで「験力」と言われる超常的な力を得ることを目指している。平安時代に大流行りし、スーパーマンになりたい人たちはこぞって大峰山や葛城山、和歌山県熊野地方の山々に入った。

 また、彼ら修行者「修験者」または「山伏(やまぶし、やまぶせ)」たちは「蔵王権現(ざおうごんげん)」と呼ばれる日本オリジナルの仏を本尊とする。

 蔵王権現は金剛蔵王権現や金剛蔵王菩薩とも呼ばれ、究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王らしい。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」であり、仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しており、役小角が吉野の金峯山で修行中に示現した。

ところで、金峯山の蔵王菩薩は、この優婆塞が行出し奉り給うたのである。

「今昔物語集」第十一巻 第三「役の優婆塞、呪を
誦し持ちて鬼神をかること」 平安末期

 この「蔵王権現」日本の中だけで仏に仲間入りした非常に不思議な神だ。鬼を踏みつけている訳でもないのに、片足をあげて一本足で不思議なポーズで立っている。仏と言えばゆったりと座り悟りを開いている様が多いが、蔵王権現の出現時は岩を割って飛び出した時にこのポーズだったらしく、まるでウルトラマンのようだ。非常に躍動感に溢れ、格好いい。この時は密教との結びつきが強かったのであろうか、怒りの形相で怒髪天であり、まるで明王のような姿をしている。
 日本オリジナルの神を呼び出すなどとは役小角、かなりすごい人に見える。だがよく資料を調べてみると、このエピソードも平安末期につけられたもので、後世になればなるほど彼の力はパワーアップしている節がある。

行者は唐においても、昼夜に八部衆を駆使していたと、道昭法師がこの談話を我が国に伝えた。

「大峯縁起」第十項 鎌倉時代初期

 鎌倉時代になると小角はなぜか唐に渡っていたばかりか、ついに八部衆まで従えていたそうだ。八部衆は古代インドの神が仏教に帰依したものとされる。建前上は古代の神が仏教に入れてくださいと頼んで、仏を守る神となったとなっている。蔵王権現とどういう結びつきがあったのかは全然わからないが、まるで式神のように神を使役するこの内容は、さらに後世には前鬼・後鬼と変化していく。

八部衆

 八部衆を従えることができるなど、もはや小角は釈迦如来と同等の力を持ち始めているとも言える。神格化が進んだのだろう。

それ、先祖の役の優婆塞は、毘盧遮那が化身なされたのであって、また不動明王の分身である。

「修験修要秘決集」室町時代

 これが室町時代に入ると大日如来(毘盧遮那仏)と同等とされるヴィローシャナや不動明王の化身とまで言われ始めた。

日本一デカい大日如来

 もし、小角がただの山好き仏教徒であったならもうすごい迷惑な話だったろう。そして、役小角といえば夫婦の鬼「前鬼」と「後鬼」だが、この二人も後世につけられたエピソードだ。

 生駒山に住んでいたこの鬼の夫婦に小角は人喰いをやめさせ、栗を食べることを教えたそうだ。その後、鬼たちは小角に従い式神のように働く。実はこの2匹の鬼が登場したのは江戸時代で、歴史的にはかなり後世だ。
 なお、私は鬼の正体は、古くから山に住んでいた身体能力に卓越した山岳民族だと勝手に解釈している。それが伺えるものとして、いつからか吉野山や大峰山の周辺には「鬼の子孫」と称する人々が住む村が幾つかあり、彼らは古い時代に山神を鬼として祀っていた子孫であるとされる。
 平安時代に吉野や大峰に修験道が広まると、彼らは修験道をひらいた役行者の弟子になった鬼の子孫だと称するようになった。役行者は前鬼、後鬼だけでなく他にも3匹の鬼を従えたという。奈良県下北山村には「前鬼」という集落が存在し、そこでは「五鬼助」「五鬼熊」「五鬼童」「五鬼上」「五鬼継」という5つの家が修験者のために宿を経営していたそうだ。

 さて小角の神話について語ってきたが、日本の正式な史紀「続日本紀」に初めて登場する。小角は本当にいたのかも怪しいと言われているが、正式に登場したのは797年で、この最初の記録に出る役小角はかなりシンプルだ。

丁丑。役君小角流于伊豆島。初小角住於葛木山。以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能。讒以妖惑。故配遠處。世相傳云。小角能役使鬼神。汲水採薪。若不用命。即以咒縛之。
(丁丑、役君小角伊豆島に流さる。初め小角葛城山に住みて、呪術を以て称めらる。外従五位下韓国連広足が師なりき。後にその能を害ひて、讒づるに妖惑を以てせり。故、遠き処に配さる。世相伝へて云はく、「小角能く鬼神を役使して、水を汲み薪を採をしむ。若し命を用いずは即ち呪を以て縛る」といふ。)

「続日本紀」

 これによると小角は葛城山に住み、呪術に精通していたらしい。もともと弟子だった韓国連広足に裏切られ、妖術を使って民を惑わしたとして、伊豆島に追放されている。すでにこの「続日本紀」すら没後100年は経っている記録ではあるが、小角の記録はこれが最古であるようだ。「続日本紀」に書かれるぐらいなのだから、かなり有名な人物だったのだろう。
 さて告げ口をしたのは韓国連広足(からくにのむらじひろたり)は別名物部韓国(もののべのからくに)とも呼ばれ、最初は役小角を師としていた呪術師だったようだ。彼は「藤原家伝」には呪禁(じゅごん)の名人として登場しており、道教を習得していたと思われる。732年には典薬頭(朝廷の薬剤師)となっており、外従五位下(今で言う県知事ぐらいの偉さ)ほどの位の者からわざわざチクられている。よほど目の上のたんこぶだったのだろうか。
 どうも小角の才能を妬んであることないことを言ったと思われる。彼は葛城山(今で言う金剛山系)に住んでおり、鬼を従えては、呪術に精通していたようだ。自然を通じて薬学などの多彩な知識を有していたのかもしれない。

金剛山系

 小角は634年に大和葛上郡茅原郷(現在の奈良県御所市茅原)に生まれたとされ、賀茂氏の氏族であるという。記録によると699年に伊豆島に流されたらしい。流されたのがすでに65歳のころという計算となるのだが、67歳で大赦となり帰ってきて68歳で逝去したとされている。随分と歳をとってから島流しにされている。
 しかし、調べてみると小角の関わるものは何せ山にまつわる。彼は金剛山転法輪寺の岩屋文殊に座り修行をしたり、

岩屋文殊

 宝山寺の般若窟では梵文般若経を書写し、

般若窟

 金峯山の山頂の山上ヶ岳では、一千日間の参籠修行をし蔵王権現と会ったりしている。どうも山深いところや、眺めのいいところ、岩屋などの奇異なところで修行をするのが好きなようだ。

山上が岳

 高槻市の本山寺も葛城山で修行中に北西に紫雲のたなびくのを見て、北摂の山に行き毘沙門天を彫ったり、竜泉寺は大峯山で修行しているときに泉を発見、「竜の口」と名付け八大龍王を祀ったり、

竜の口

 千光寺の地には千手観音菩薩を安置し、神峯山は葛城山で修行をしていると北方の山から黄金の光が発せられたことで見つけ、松尾寺ではこの地で7日間修行し、霊木を得て如意輪観音を彫り安置し、千手寺では笠置山の千手窟で修行していたら神の炎の導きにより堂宇を創建している。

千手窟

 どこまで本当に小角が各地を歩いて何かをしたのかは今では不明だが、小角ゆかりの寺は「役行者霊蹟札所」と呼ばれ、関西地方に36にも渡り存在する。
 更にこれらの寺は、唐に渡り密教を体得し、水銀を飲んで不死になろうとした超天才・弘法大師空海が後を追って修行を行っている。
 小角はおそらく恐ろしい健脚で、空を飛ぶように山を駆けていたのだろう。日本で初めての単独行アルピニストなのかもしれない。自然とともに生活することで、周りからは呪術と見えるような神秘的な魅力があった生粋のサバイバリストであったような気がして仕方がない。

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