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呪い/のろい/ノロイ

 「呪い」は悪意を持った人間が霊的もしくは精神的手段により、対象に対し不幸や事故などの厄災を送る行為である。
 「呪い」の語源は「祝詞(のりと)」と言われている。古代日本では「トコイ」「カシリ」などと呼ばれていた。そもそも祝詞は「宣る(のる)」から由来しているが、「宣る」に「ふ」が接続したのが「呪い」の由来と言われている。
 祝詞は「懸けまくも畏き〜(声に出してい言うのも畏れ多い)」から始まる神に向けて呪的に発言をすることで、神様に向けてなんらかのお願いや祝いをするための特殊な言葉たちである。これらは古代の言霊信仰(言葉には霊力があるとされる信仰)に由来するものと思われる。確かに、カリスマ性を持つものの発言や知的に秀でているものの言葉は受けたものに特別な影響を及ぼすことがある。言葉には力があるのだ。
 「呪い」は呪文や祈祷などで超自然的な力を借りて行うことが多い。神話や伝説でも神が同じ神もしくは人間に向かってかけることもしばしばあり、かけられた者は動物になったりと様々な効果を及ぼす。またジンクスなどをそう呼ぶこともあるが、ここでは純粋にヒトがヒトに向けて放つ「のろい」について考えたい。
 古来から「呪い」は行われており、「呪い返し」の手法も数多く編み出されてきた。現代でも残っているものとして魔除けや厄除け、盛り塩やお守りなどがそれにあたる。
 古来から存在する呪いのプロ集団が陰陽師や呪禁師、修験道者なのだが、彼らによる呪いは秘密裡に行われる。これは実践現場を誰かに目撃されると、効果が実践者もしくは依頼者に環流するとの信仰もあるからだ。誰にも知られず行われることでその効果はより増幅するという考え方だ。これは「人を呪わば穴二つ」という格言でも知られるように実践者も墓穴を掘ることを指している。

 呪いについての記述は遥か昔からある。古くは『日本書紀』では用明天皇2年(587)に、偶像を作って「マジナウ」という記述がある。魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に登場する「卑弥呼」が人を操る「鬼道」という呪いを使っていた記述もある。呪術的な遺物としては8世紀の胸に鉄釘が打ちこまれた木製人形代(奈良国立文化財研究所蔵)などからもその信仰の存在は伺うことができる。

 「呪い」はよほど流行したのだろう、奈良時代にはたびたび呪詛を禁止する勅令が出されている。「大宝律令」(701年)や「三大格」にも巫蠱を禁止する条があり、「養老律令」(757年)「賊盗律」にも「蠱毒厭魅」を禁ずる記載がある。「続日本紀」には、神亀6 年(729)の長屋王による呪詛の直後に聖武天皇によって出された厭魅(えんみ:人型を用いた呪詛) を禁じる勅令を始めとし、県犬養姉女らが蠱毒を行ったことで流罪となり(769)、井上内親王が蠱毒の罪によって皇后の位を廃される(772)など、随所に呪詛の記載がある。政敵の排除のためか、言いがかりから本当に呪い殺す目的の呪詛まで、大昔から恨みつらみはなんらかの方法で対象に降りかからせようと様々な手段が試されていたのだ。
 桓武天皇が長岡京に遷都し、その10年後の平安遷都も、実弟早良親王(後に追号され崇道天皇)の祟りを恐れたためとされている。敏達天皇6年(577)には百済から伝えられたという呪禁道(じゅごんどう)の厭魅や蠱毒が伝えられた記録もある。

 そして奈良時代末期から隆盛を極めた陰陽道や、役小角や道鏡が学んだとされる「孔雀王咒経法」やその後に展開した「荼吉尼の法」「飯綱の法」なども呪法として知られる。解呪には同様の修法が用いられたそうだ。人を呪うための方法が細分化され、様々なアプローチが取られたのだ。孔雀王は毒を制する力を持つため、そのような使われ方になったのだろう。

孔雀王咒経法

 平安初期から現代まで伝わる調伏法として、「調伏護摩」「転法輪法」など密教の調伏法や、「九字法」「不動金縛法」「摩利支天鞭法」「筒封じ」「板封じ」「樽封じ」などのさまざまな修験道の修法が知られている。これらは、平安時代に御霊信仰との関連で怨霊の祟りを祓い、その呪力を封じるため重要性が高かったと言われている。権力は呪いと呪いを返す方法を発展させ続けたのだろう。
 庶民の間で流行った呪いとしては、相手の草鞋の裏にひそかに膏薬を貼る、衣類に気づかれぬように麻糸を縫い込む、道祖神を青竹が割れるまで叩き「祟れ、祟れ」と唱えるなど、面白い手法が沢山ある。
 例えば今でも広く知られる「丑の刻参り」(うしのこくまいり)は、

なんだか火すら吹いている

 屋代本 『平家物語』「剣の巻」、謡曲「鉄輪」、お伽草子「鉄輪」などに登場する「宇治の橋姫」伝説を原型のひとつとし、さまざまな要素を寄せ集めて江戸時代に成立したもので大昔から行われているものではない。
 白装束で、顔に白粉、歯には鉄漿(かね)、 濃い口紅、頭に鉄輪(かなわ)を逆にかぶり、その3つの足にろうそくを立てて口に櫛をくわえ、胸に鏡をつるして神社のご神木や鳥居に藁人形を五寸釘で打ち付ける、というものだ。何だか随分手続きが多く面倒くさそうだ。
 丑の刻は現在の午前2時前後の2時間、その時間に誰にも見られず遂行しなければならない。それらが上手く完了すれば7日目の帰りに黒い牛が寝そべっているはずで、その黒い牛をまたいだら呪いは完了らしい。7日間も頑張ってやって黒い牛に会えなかったら絶望だ。

 現代でも呪いの藁人形が通信販売などで入手でき、いまだにウェブ上で呪い代行サービスが多数提供されている。人の憎しみには際限がない。

 最近の「呪い」は山村貞子のテープや佐伯伽耶子の家などヒトそのものが「呪い」であったり、コトリバコのようにモノに込められていたりとその様相を変えてはいるが、近代の「呪い」は感染力を持ち、拡散する要素が強くなった。つまり「祟り」とあまり意味が変わらなくなってきたように感じる。

 「呪い」ついての化学的な検証はもちろんされている訳ないのだが、1957年にCannonら(CANNON WB:Voodoo death. Psychosom Med, 19:182-190, 1957)ははじめてヴードゥー教の呪いによる死亡症例を報告している。
 これによると「呪われている」という強い恐怖や不安からカテコールアミンが過剰に分泌され、たこつぼ心筋症や致死性不整脈が起きることを示唆している。このようなメカニズムはストレスによるくも膜下出血によって急死する現象と似ている。くも膜下出血では、経験したことがない人生最大の頭痛を体験する。激痛や不安のためにカテコールアミンが分泌され、神経原生肺水腫やたこつぼ症候群など急性心不全が起きることがわかっている。
 確かに呪いにはある一定の効果があると考えられる。それは噂やデマを使った心理効果だ。例えば平安時代で大掛かりな呪いの儀式を行おうとすれば、呪術師や祈祷師がぞろぞろと屋敷に入って行くはずだ。それを誰かに見られると瞬く間に噂として貴族の間に広まるだろう。秘密を徹底すればするほど疑心暗鬼は深まり、呪いをかけられたと感じるものは長期的なストレス状態に置かれるはずだ。対象を長期的な高ストレス状態に置くことで不整脈や急性心不全を引き起こすだろう。そして呪いをかけられた10人のうち1人でも死亡すればその効果は当時絶大であっただろう。
 「呪い」は個人レベルの怨念だ。憎悪や怒りの力をより陰湿でスピリチュアルなエネルギーに変え対象に投げつけるための方法である。最も呪い返しの方法として有効なのは反閇でも盛り塩でもなく、「幸せそうに朗らかに笑顔で生きる」なのだろう。

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