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ぶらりくり -佐賀 唐津編-

唐津 -1日目-

 壱岐から1時間40分ほどフェリーに揺られて唐津東港に到着する。投宿先は唐津駅の近辺に予約してあるが、ここからは歩いて50分程度かかる。そのくらいだったらゆっくり歩いていくかと思っていたら、博多まで行くトラックのおっちゃんが「乗ってくかい?」と声をかけてくれたので、ありがたく乗せてもらうことにした。

 チェックイン時刻前だったので荷物だけホテルに預ける。唐津では虹の松原を見たいと思っていたので、松原がよく見える鏡山に登るべく、唐津駅から浜崎駅に電車で向かった。

 これは道の途中にあったJAからつの建物。目標販売高が切り良い数字じゃないのにびっくりしてつい写真を撮ってしまった。

 お昼ご飯は浜崎駅の近くにあった佐賀牛なかむらという店に入った。ヒレステーキランチを頼もうかと思ったが売り切れていたので鉄板焼ステーキランチで牛かた肉を食べた。写真はない。そういうこともある。

 肉の写真はないが、鉄板焼き屋さんの中に貼ってあった広告の写真は或る。数字に","が4桁おきに打たれてるのを見るとどうにも気持ち悪くなってしまうので印象深くてつい撮ってしまった。

鏡山展望台

 浜崎駅から1時間30分ほど歩いて山を登ったところに虹の松原が奇麗に見える展望台がある。神功皇后が三韓征伐の折に山頂に鏡を祀ったことから鏡山と呼ばれるようになったらしい。山頂には神社や公園などが整備されていて、休日をのんびり過ごすのに良さそう。

 鏡神社には「玉鬘と白狐の伝説」が残っている。源氏物語に登場する夕顔の娘・玉鬘はその美貌ゆえに求婚者が多く、中でも肥後の豪族・大夫監から強く求婚されていた。そんな中、玉鬘は鏡神社でけがをした白狐を見つけ傷の手当てをする。いよいよ大夫監からの求愛が強引になってきたある日、手当をしてあげた白狐が玉鬘に瓜二つに化け、身代わりとなり大夫監から逃す手伝いをしたという。

 つまり何が言いたいかというと、狐には優しくしておいた方が良いぞ。

 公園内にある蛇池。昭和3年には高浜虚子も鏡山に登った折に句を詠んだ。

うき草の 茎の長さや 山の池

高浜虚子

 松浦佐用姫の像が建っている。
 6世紀の宣化天皇の時代、朝廷の命令で朝鮮の任那・百済に派遣された青年武将・大伴狭手彦は、停泊地である松浦で篠原村の長者の娘「佐用姫」と恋に落ちる。やがて、出帆の時が来て別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山に駆け上り、軍船に向かって身に纏っていた領巾を打ち振った。それでも名残は尽きず、佐用姫は山から飛び降り、呼子・加部島まで追いすがったものの、既に船の姿はなく、悲しみのあまり七日七晩泣き続け、ついに石になってしまったという。この「松浦佐用姫伝説」は日本の三大悲恋物語に数えられている。

 松浦佐用姫伝説を元に山上憶良が詠んだ歌。

行く船を 振り留みかね 如何ばかり 恋しくありけむ 松浦佐用姫

山上憶良

 展望台からは虹の松原の深緑と唐津湾の青い海が同時に楽しめる。虹の松原は玄海国定公園の一部であり、全長約4.5㎞、幅500mにわたって100万本のクロマツが植えられている。

 昭和36年4月に昭和天皇が唐津市に訪れた際に詠んだ和歌の歌碑が置いてあった。

はるかなる 壱岐は霞みて 見えねども 渚美くし こ乃松浦潟

昭和天皇

 鏡山から下山して宿に戻る途中にあったカフェで甘味を食べた。帰りはバスで帰った。

唐津 -2日目-

 2日目はイカと朝一で有名な呼子に行ってみようと思う。

朝食 - 川島豆腐

 朝食は江戸時代から200年以上続く老舗のお豆腐屋さん・川島豆腐店でお豆腐料理をいただいた。舌触りが滑らかでコクがあってとてもおいしい。

呼子の朝市

 唐津から呼子まではバスで40分ほどで行くことができる。呼子では毎朝7:30頃から正午ごろまで朝市をやっていて新鮮な海鮮が味わえる。

 朝市で買ったイカの串焼き。ニシガイの串焼きも売っていた。甘辛なタレと素材のうま味の両方が楽しめる。肉厚で柔らかい。最高。

 お土産として「いかしゅうまい」とエソのすり身と卵を焼いた「阿つ焼」を買った。

愛宕神社

 朝市のすぐそばにある、呼子港に出入りす船を見守ってきた神社。捕鯨で栄えた江戸時代には鯨組の女性らがこの場所から船の出区を見送ったらしい。

 神社からは呼子港を見下ろせる。

呼子大橋・風の見える丘公園

 朝市から1時間くらい歩いたところに呼子と加部島をつなぐ呼子を代表するビュースポット・呼子大橋がある。加部島の風の見える丘公園からは橋全体が奇麗に見える。

 公園からは北側の景色もきれい。

 加部島から見た呼子港。

 うみきれい。

 うみきれいやねー

 うみきれい (語彙力)。。。

昼食 - 萬坊

 お昼ご飯は呼子大橋のたもとにある萬坊という海の上のレストランで食べることにした。客室は地下にあり、海中を見ながら食事ができる。

 いかしゅうまい!

 イカの活造り

 本当に生きてるぞ!

 活造りの末期

七ツ釜

 荒波に崖が侵食されてできた洞窟・海蝕洞の景勝地である七ツ釜を見物しようと、遊覧船に乗ろうと思った。

 ──が、欠航だった。しょんぼり。船が出ていないものは出ていないので唐津に帰ることにする。この日は疲れていたので宿に帰ったとたんに眠りこけてしまった。

唐津 -3日目-

 3日目は唐津周辺を散策してみる。

旧唐津銀行

 日本銀行本館や東京駅を建てた建築家・辰野金吾は実は唐津出身。この旧唐津銀行も辰野金吾が監修した建物で、銅板葺きの尖塔やアーチ窓、壁面の赤と白の対比など辰野らしさを感じる (実際の設計は弟子の田中実による)。
 辰野金吾の建築デザインはイギリスのヴィクトリア様式の一つであるクィーン・アン様式を日本化したもの。赤煉瓦と白い石を混ぜているクィーン・アン様式に対し、辰野金吾はこれに屋根の上へ塔やドームを載せて王冠性を強調する賑やかな新しいスタイルを生み出していった。

 辰野金吾は1854年、唐津藩士・姫松倉右衛門の次男として唐津城下坊主町に生まれ、14歳で同じ藩士・辰野宗康の養子となる。1871年に工部省の英語学校「耐恒寮」で高橋是清に英語を教わる。1873年に19歳で文部省工学寮(現東京大額建築学科)に入学し、英国人建築家・ジョサイア・コンドルに師事。1881年に25歳でロンドン大学に留学し、コンドルの師であるウィリアム・バージェスの事務所で建築設計の実務を学んだ。帰国後は工部大学校教授、新設の工科大学教授の後、学長となる。その後には建築学会会長などを歴任し、日本の近代建築学会の中心的存在となっていった。

 昔の銀行にしか見られない木製カウンターに飾り格子。白いコリント式の柱にはアカンサスの柱頭飾りが施されている。

 唐津銀行が誕生したのは明治18年(1885年)、当時石炭をはじめとする産業発展の途上にあった唐津において新しい金融機関が必要となり、郷土に根を張る銀行を作りたいという地元有志の熱意により、大商家が並ぶ大石町に銀行が設立された。初代頭取は、東京三菱商業学校を卒業し、唐津に帰郷していた26歳の大島小太郎。唐津藩の財政を一手に率い、廃藩後は組合「魚会舎」を組織して漁民に資金の貸し付けを行っていた父・大島興義に託された魚会舎の再興を果たしたのち、組合の貸金部門を唐津銀行として独立させたのが銀行の始まりである。この大島小太郎は、後に県会議員として海岸道路の建設に奔走し、唐津興業鉄道、北九州鉄道の実現に尽力、特設電話・唐津電灯の設立、唐津港開港にも参画し、郷土経済発展の基礎づくりに貢献した。
 銀行経営は順調に滑り出し、1893年には商業を「株式会社 唐津銀行」と改め、日清戦争後の経済発展と石炭産業の隆盛を背景に成長を遂げた。1912年には現在の旧唐津銀行が建っている場所に新築移転。
 大正期には貿易港の重要性がますます高まり、パナマ運河を通行して日本に来航する船の3分の1が唐津港に入港するほどであり、唐津山間部の産炭量は九州の産炭量の4割を占めていた。こうした中、第一次世界大戦の勃発で石炭市況はさらに好転し、ただでさえ上昇気運を示す唐津の商況はさらに追い風に、唐津銀行の行石器も順調に進展し、商都唐津の景気は活気に満ちていった。

 1921年以降は県下の3行を吸収合併し、唐津銀行は急成長を果たす。しかしながら、合併におけるPMIの不徹底さにより組織は弱体化、さらには第一次大戦後の反動不況に伴う体力の低下や世界恐慌、金解禁による長期的な不況が重なり1925年末をピークに経営は悪化した。
 昭和になると政府の銀行合同政策の一行を受けた県当局は唐津銀行に対して西海商業銀行との合併を強く勧奨し、昭和6年8月に明治後半以来のライバル行とともに佐賀中央銀行を新設することとなった。
 その後、さらに石炭産業の斜陽化を経て、1955年7月に佐賀興業銀行と合併。建物は佐賀銀行唐津支店となり、1997年4月に唐津市に寄贈される直前まで85年間銀行として用いられていた。

 銀行の金庫室。日本の誇る耐火金庫メーカーの老舗・広島のクマヒラ社によるもの。明治21年製造。

 階段室はケヤキ木目を活かした手すりが奇麗。透明度の高いニスを塗って木目を強調するのは日本独特のやり方。

 客だまりの天井は吹き抜けになっている。アールヌーボー調のシャンデリアの曲線美が映える。

 銀行の貴賓室。天井飾り、絨毯も復元だが当時の材質が使われている。

 暖炉の周りの装飾はこんな感じ。建築物を見るときは毎回暖炉に注視してしまう。

 小屋裏への螺旋階段。田中実の設計した旧大同生命福岡支社(現グリーンピア八女)にも同様のものが現存している。

 旧唐津銀行の監修は辰野金吾によるものだが、その実際の設計は弟子・田中実が担った。田中は辰野を意識して建物全体に辰野スタイルを配しながら、随所にアールヌーボーなどの19世紀末の新しいデザインを施しており、単なる師のコピーに終わりたくないという若さと才能を感じる。それが顕著に感じられる点は当時にした最新の建築材料であるタイルの使用である。明治時代にはない大正らしさを感じる。

旧高取邸

 唐津市街地の北側の沿岸沿いに、炭鉱主として大成した高取伊好の旧宅が建っている。中は自由見学ではなく1人1人にガイドがついてくれて案内してくれる。
 建物は東が大広間棟、西が居室棟となっており、和風を基調としながら居室棟に洋間を持つなど近代の邸宅の特色を備える一方で、大広間棟には能舞台が設けられており他には見ない構成になっている。

 居室棟の仏間はほかの部屋よりも一段高くなっており、天井は折上格天井で東側の壁には花頭窓が造られている。部屋の奥には総漆塗りの観音開きの仏壇が座している。

 屋敷としての見どころは東の大広間棟に集中しており、茶室の「松風庵」は東側に畳床、中面に面した南側に丸窓、西側ににじり口が設けられており、天井は網代天井。南~西側に廻らせた濡れ縁には「なぐり」の装飾が施されている。
 二階の大広間は接客空間になっている。広さは15畳2間。2室の境には孔雀と芥子の図柄が描かれた欄間がある。北側の格子窓越しからは唐津湾が一望できる。
 屋敷の最大の見どころやはり能舞台「老松」である。座敷に仕組まれた能舞台が現存するのは国内でも極めて稀で、畳を敷くと北川の広間と合体して30畳の大広間として使えるようになっている。
 部屋数としては少ないが洋間もあり、漆喰天井からはアールヌーボー調のシャンデリアが下がり、壁は紙貼り、窓は上げ下げ窓、暖炉も備え付けられており、近代を象徴する洋風の室内になっている。

 庭から見た屋敷

昼食 - 3日目

 お寿司食べたよ。

唐津城

 唐津城は寺沢志摩守広高が慶長13年(1608年)に築城した平山城である。

唐津城前歴
 築城の背景には秀吉による九州平定、文禄・慶長の役がある。1587年に島津氏を降伏させて九州を平定した秀吉は「九州国分」と呼ばれる領土配分を行い、唐津地方の領主らも秀吉に服従した波多氏は領土を安堵された一方で、島津氏に加勢した草野氏は領土を没収された。 (波多氏は1588年に秀吉に京都に呼ばれ厚遇を受けたが、唐入りの構想を持つ秀吉が波多氏を利用しようとしたためだと考えられる。そして、文禄の役の最中に上松浦党が持つ公益の利益を取り込むために改易されることになる)
 1590年に天下統一を果たした秀吉は、かねてより構想していた大陸への親交を実行しようとし、根拠地として肥前名護屋の地に名護屋城を築城する。1592年、約16万の軍勢が朝鮮半島に渡海(文禄の役)。海鮮当初は破竹の勢いで進軍するものの、明による援軍の派遣や朝鮮国軍・義兵の抵抗により戦線は膠着。秀吉は1953年5月中旬に名護屋城で明国使節と対面し、朝鮮国の領土割譲案などの和議案を示し、1596年9月に大阪城で明国冊封使に引見するが、和議交渉は決裂。再選の意思を固めた秀吉は14万の軍勢の陣立てを定め、1597年6月に侵攻を開始した(慶長の役)。文禄の役は「征明」を目的としたものであったが、慶長の役は朝鮮半島南部の支配を目的とする戦いである。秀吉は朝鮮在陣諸将による戦線の縮小要求を認めず、在番体制の強化を図ったが、1598年8月18日に死去、「五大老」「五奉行」の合議により日本軍の朝鮮半島からの撤退が決定され、7年間にわたる戦いが終息した。

寺沢氏
 この文禄・慶長の役で活躍し、唐津の地を所領として与えられたのが寺沢広高であり、名護屋の地を渡海の拠点とすることを秀吉に進言したのが広高である。
 1592年に秀吉から「長崎代官」を命じられた広高はポルトガル貿易を中心とした長崎統治を担当。文禄・慶長の役では各大名への武器・兵糧の分配を行い、諸大名に秀吉の命令を伝える「取次」役として頭角を現し、戦況を分析し軍の身体を進言するなど豊臣政権の運営にかかわる重要な役目を任される存在になっていった。
 秀吉の信頼を得た広高は、秀吉の直轄領となっていた羽田・草野氏の旧領である唐津を与えられ、一躍大名の仲間入りを果たすことになる。
 秀吉の死後、広高は関ヶ原の戦いで徳川方(東軍)として戦い、その功績により天草4万石が加増され、12万3千石の大名となる。唐津城を自らの居城と定めた広高は7年かけて唐津城を改修し城下町を整備。同時に、波多氏の居城だった岸岳城や獅子城を近世城郭へと改築し、天草の富岡城を新たに築くなど領内警備と支配拠点を拡充していった。
 広高は領内を自ら進んで見て回ったといわれ、米の収穫量の増加を目指し、治水事業や新田開発にも力を注いだ。街道や水田を砂の吹き上げから守るため、海岸沿いに黒松の植林を行い虹の松原を作り、唐津焼の陶工の保護や和紙の原料の楮の植栽奨励など産業の充実化を図った。
 1616年、領内の税収を確定するために大規模な検地を行い、収穫予定量を高く設定して増税を行ったため、後に民衆の不満が募っていくことになる。
 1633年4月に寺沢広高が亡くなった後は、次男の堅高が唐津藩主となる。堅高は広高の政策を踏襲し領内支配を行ったが、1637年に唐津領内の天草と隣接する島原で重税に苦しむ農民と棄教を迫られたキリシタンを中心に「島原の乱」が勃発。乱は幕府軍により鎮圧されたが、堅高はその責任を負い全ての領地を没収。しかし、父・広高の功績や島原の乱で富岡城を死守した軍功から、最終的には天草4万石のみの没収で、8万3千石の大名とした残った。
 その10年後の1647年、堅高は理由不明のまま突然自害。後継ぎがいなかったため、寺沢家は2代で改易となり、唐津藩領は幕府預かりとなった。残された家臣らは福岡藩の黒田家や姫路藩の榊原家などに再仕官するなど全国に四散していった。

大久保氏 (1649-1678)
 寺沢氏の後に唐津を支配したのが大久保氏である。大久保氏の祖先は長く下野国に住み、宇都宮氏を名乗っていたが、中世に入ると源頼朝、新田義貞に仕え、南北朝の動乱期に三河国に移り住んだ。その後大久保氏を名乗り、三河の豪族・松平氏(のちの徳川氏)に従い、小田原征伐の後、忠世の代に相模国小田原を領地とした。
 その後、改易の危機を乗り越え1649年に忠職の代に播磨国明石から唐津8万3千石の藩主となり、これ以降唐津藩は譜代大名の治める土地となった。
 大久保氏は藩主の力を強めることを目的に、家臣に対して領地ではなく米を直接給付するように改め、庄屋の転村制度を実施し、それ以の唐津藩の体制の基礎を作った。唐津の支配は29年続き、2代藩主・忠朝が老中となったのを機に1678年に下総国佐倉へ国替えとなり、その後相模小田原に復帰し、多くの幕閣を輩出していくことになる。

松平氏 (1678-1691)
 大久保氏の後に唐津に入封したのが松平氏である。徳川一族の中でも松平姓は多く、唐津藩主となった松平氏は三河国大給の地に住んでいたため、通称「大給松平」と呼ばれた。松平氏は家乗の代に関ヶ原の戦功によってはじめて上野国那波の大名になり、その後領地を転々とする。1678年に唐津の大久保忠朝が下総国佐倉へ国替えとなるのと入れ替わりに、佐倉の松平乗久が唐津7万3千石の藩主となる。松平氏は3代にわたって唐津を治めるがその期間は14年と短く、三代目乗邑は一度も唐津に来ないまま転封となった。唐津を離れた後も転封は続いたが、乗邑は徳川吉宗の老中として活躍するなど、幕府の中枢で活躍する人物を多く輩出していった。

土井氏 (1691-1762)
 
土井氏は清和源氏の源頼光の家系と言われ、唐津藩主となった利益の祖父・利勝は徳川家康、秀忠に仕え、下総国小美川から佐倉、古河の大名となり、土井氏繁栄の基礎を作った。しかし、後継がなく家系が断絶したため、幕府が再興を命じ、分家の利益に古河を与えて土井家を相続させた。その後は利益は志摩国鳥羽を経て、1691年に唐津7万石へ入封する。
 土井氏の統治は唐津藩の大名の中で最長の72年間にわたり、当時の文治政治に倣い藩校「盈科堂」を設けるなど学問の発展に尽力した。また、唐津城下への御用窯の移転、捕鯨、和紙などの産業の振興にも力を入れた。
 土井氏の時代で特筆されるのは、藩内に学問の気風が浸透した点である。その礎を築いたのは藩医兼儒官の奥東江であり、実学を重視し郡奉行として直接農民と接しそれを実践した。その弟子の吉武法命は地理学、天文学、暦学、軍学、剣道に通じており、「論語」や「近思録」だけでなく学習内容について討論して批判力を養い、学んだことを実践する東江の教えを庄屋層を中心とする農民の間に広く浸透させた。法命の死後は弟子らがその志を受け継ぎ、儒学だけでなく暦学、和算などのレベルの高い教育が行われ、幕末に至るまでに村の私塾は30を超えたという。相知で庄屋を務めた向家には儒学の本や歴史書など、二百冊を超える和漢籍が残されている。
 土井氏は唐津藩を治めた後、祖先の旧領下総国古河へ復帰し、その後は土井利位が老中首座につくなど、幕府の中枢でも活躍した。

水野氏 (1762-1817)
 1762年、三河岡崎藩主水野忠任が唐津に入封する。その際、1万石が幕府に返上されたため唐津藩の石高は6万石まで減少した。水野氏は清和源氏の血を引く鎮守府将軍源満政の後裔と言われ、尾張国水野に住んでいたため水野姓を名乗ったといわれている。
 戦国時代に水野長政が松平氏に娘を嫁がせ生まれたのが武千代、後の徳川家康である。忠正の孫の忠元は徳川秀忠の側近となり、その後は一貫して忠勤に励んだ。忠元が下総国山川を与えられた後、水野氏は数度の転封を経て唐津に入封する。
 水野氏は転封で逼迫した財政を立て直すためにこれまで年貢が免除されていた土地に年貢を貸すことを画策。これに対し、平原組大庄屋・冨田才治ら5人の指導者の下、2万数千人の農民・漁民が、当時幕僚となっていた虹の松原に終結し、「虹の松原一揆」が勃発する。農民側の要求は「水害地への課税廃止」「年貢米計測時に米を桝に山盛りにしない」「検査用に抜いた米は元の俵に戻す」「凶作や災害地への課税免除」「楮を安く買いたたかない」「運上金の追加増税の廃止」であり、一揆は農民側の要求がすべて通る形で終結するが、首謀者である冨田才治らは処刑ないしは配流となった。
 財政の立て直しに失敗した水野氏は、藩主忠鼎が二本松義廉を財政再建にあたらせるが失敗。さらに藩主となった忠邦が質素倹約を推し進め、再度二本松義廉を起用して財政再建を図るが再び失敗する。
 幕府での出世をもくろんでいた忠邦は、江戸から遠方で出世の見込みのない唐津からの転封を願い出、1万石を幕府に返上して温州浜松へと転封。水野忠邦はその後老中となり天保の改革を主導していくこととなる。改革で失脚後は出羽山形に転封となった。

小笠原氏 (1817-1871)
 唐津藩最後の藩主が小笠原氏である。小笠原氏は清和源氏甲斐守新羅三郎源義光を祖とする信濃源氏の名門である。武田信玄の信濃侵攻により信濃を追われた後、信濃復帰を目指し、徳川家康に仕えた小笠原秀政の代に信濃松本藩主となる。秀政は大坂夏の陣で長子・忠脩とともに戦死し、次男の忠真が家督を継ぎ、後に豊前小倉藩に移った。
 唐津藩主となる小笠原氏は秀政の三男・忠知が兄の忠真から豊後国杵築4万石を与えられて大名となったのが発端である。数度の転封を経て入った奥州棚倉で三代71年間をすごしたのち、肥前国唐津藩に転封となり、唐津で明治維新を迎えることになる。
 小笠原氏は前任地棚倉での負債や唐津転封のための出費によって財政難が続いていたため、入封する際藩の財政を立て直すため藩政改革に注力した。具体的には、年貢率を上げ、捕鯨等の産業の藩営化や石炭や俵物の藩の専売など直接藩の財源を増やす政策に力を入れた。また、赤子養育米や自然災害時のコメの支給、貧民の救済や農民一揆への対応、疫病の流行や外国船に対する海岸防備、目安箱の設置など、高齢者への慰労金等の藩政も行っていった。

 初代藩主・小笠原長昌の長男が小笠原長行である。長行は推さなかったために生涯藩主の地位に就くことはなかったが、21歳で江戸に上り学問に励み、幕府から高い評価を受け、中でも土佐藩主・山内豊信らは長行を国政に参画させるよう強く主張した。1862年、第14代将軍徳川家茂に才覚を認められた長行は、異例の昇進で老中格に任じれ生麦事件の処理にあたり、1865年に老中に就任。1866年2月には家茂から長州処分の全権を委任され、第二次長州征討で小倉口総督として幕府軍を指揮。しかしながら失敗に終わり、全責任を負って罷免される。その後、第15代将軍徳川慶喜の時に再び老中に任命され、外交に尽力。1868年に戊辰戦争が始まると新選組に編入された唐津藩士とともに長行も函館まで従軍し、最後まで幕府に忠誠をつくした。

版籍奉還以後
 1871年、唐津藩は英学校「耐恒寮」開設のため、東太郎を教師として招聘。当時18歳のこの人物が後の内閣総理大臣・高橋是清である。高橋是清の指導は日本語を用いないall Englishで行われ、和紙と捕鯨の利益を財源に50人の生徒は250人まで増え、その中には3人の女生徒もいた。
 耐恒寮は廃藩置県の後に閉校となり、是清も1872年に唐津を去る。是清の指導期間は短かったものの、建築家・辰野金吾、建築家・曽禰達蔵、経済学者・天野為之、法律家・掛下重次郎、唐津銀行頭取・大島小太郎などを輩出した。

 唐津城の天守閣の東側の景色、左手には東の浜や虹の松原や鏡山、右手には松浦橋や舞鶴橋が見える。

 西側の景色。左手には旧高取邸、正面には西の浜、奥には大島や鳥島が見える。

 唐津城の近くにある喫茶店でクリーム冷やし抹茶ぜんざいを食べた。食器が唐津焼の平茶碗なのが嬉しい。唐津には唐津焼で提供してくれるカフェが結構あったりする。

海景色

 唐津最終日だが、罰の出発時刻まで少し時間が余ったので水辺を散策した。


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