見出し画像

"幸せ"な避難生活

私は、2011年の東日本大震災を中学2年生の時に経験した、被災者の1人である。
自宅は福島第一原子力発電所から約4km。未だ帰れない場所にある。

2020年、私は社会人になった。

社会人になり、震災関連の仕事に就いたことでいろんな震災体験を聞いてきた。
津波で家族を失った方の話から、震災当時に教頭先生であったり町村長として町民の避難、放射性廃棄物受け入れ等の苦渋の選択を迫られた方まで。当時の立場・状況、そして住んでいた場所によって、全く異なる経験があった。

個人的には、自分が被災者だと伝えると「大変だったね」と労われることが多かったが、いつもそれには違和感を覚えていた。ある人には、「辛い青春時代だったでしょうに」とまで言われた。そんなことは全く思ったこともなかった。

そんな中、ある時、県外避難を経験した高校生に「僕はいじめに遭いました。(転校先でいじめがなくて)良かったですね。」と言われて、ハッとした。


震災から11年経った今になり、ようやく分かった。
私は、”幸せな”避難生活を送った/送っているということを。


確かに避難直後は、避難所を転々としたり、親戚を頼ってお世話になったり、新しい土地の生活に慣れたりすることが大変だったし、中学校最後の1年間をこれまで一緒に過ごした同級生と過ごせなかったことは悔しかったけれど、

同じ家に家族がいて、友人は同じ市に避難してきていたからすぐに会えた。

いじめのニュースが流れる中、そんなことは嘘のように、
転校先のクラスでの修学旅行のグループ決めでは、私が仲間外れにならないように配慮してくれた友達やバスケ部に入るのにバッシュをくれた友達、部活帰りに車送迎をしてくれる友達とその家族…仲良くしてくれたり、思い遣ってくれる友達に多く出会った。
母が単身赴任になったことを伝えると、弁当を毎朝しれっとロッカーの上に用意してくれる心優しい担任の先生に出会った。

楽しく1年間の転校生生活を終えた。

その時、故郷を追われた町民をどうするか悩みに悩んで決断した方がいる。避難先で自分も避難しながら、避難者のケアに努めた人がいる。原発を必死で守った人がいる。

親の苦労がどれほどだったか計り知れない。親戚がいかに思い遣ってくれたか知らない。転校先の先生方がどれだけ努力してくれたかを、私は見ていない。知らない。

高校に入学してからも、私の経験を話す機会はよくあったし、肯定してくれる場があった。

色々と活動をするなかで進路相談にさえ乗ってくれる、社会人の方にも出会った。
刺激を受けた。私も社会人になったらこんな風になりたい。と思う方達。

他にももっと私たちが快適に過ごせるように努力してくれた人たちが、見えないところで、想像以上に沢山いたのだと思う。

その方達の助けがあったからこそ、今の自分がいる。

多種多様な経験となった震災、不謹慎かもしれないが、私は幸運な経験をたくさんした。
これは、震災当時私は10代であり、大人から守られる存在であったこと、守ってくれる大人が周りにたくさんいたこと---つまり環境的要因、経済的・精神的余裕なども起因していると思っているので、本当に運が良かっただけというだけかもしれない。

そう気づいた時に、私は自分の経験とその後選択してきた自分の行動について、罪悪感を抱くようになった。

どんなにのうのうと生きてきたんだろう、と。(本当に今更という感じですが・・・・・・・)

つい先日、ある方に、震災を経験したと話したら
いつものように「大変だったね。」と言われた。
私は「そうじゃないんです。幸せな避難生活だったんです。」

その方は「それは良かった。」と。

その時に、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

私は続けた。「自分の見えないところで、両親や親戚や転校先の友達、知り合いでもない大人がいろいろな形で守ってくれていたのだと思います。その方たちのことを想像すると、私が大変だったなんて思えない。」

初めて、ここ数年の自分の違和感を言語化できた気がしたのと、
避難を受け入れた側であるその方の懐の深さが滲み出る反応に

感情がぐちゃぐちゃになった。

私の震災経験は、人の温かさを身をもって体験した大事な経験だったといえるのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?