見出し画像

今井家の家庭学習の実践について(何を考えてどんな風にやっているか?)

長男レイ(7)が学校に行くのをやめてから1年半弱になる。

このソーセージ食べてる人がレイ。

この期間「どうやったらレイが家で十分な学びを得ることができるか?」という問いに向き合い、彼と僕とで家で学ぶための環境を作るために試行錯誤を重ねてきた(ちなみに、「どうやったらレイが学校に戻れるか?」という問いはかなり早い段階で捨てている)。

結果として、教える側と教わる側でこんな感じでやるのがいいんじゃない?という型というか、過ごし方のようなものを確立することができ、だいぶ安定した生活を送れるようになってきた。やれやれ。

ということで、僕とレイの試行錯誤の結果について、ここで一度整理することにした。なんとなく誰かの役に立ちそうな気もする。まあ、役に立たなくてもいいんだけど。

家庭学習のコンセプト(やろうとしていること)

学校にいかない代わりに家で教育をすることはホームスクーリング(homeschooling)と呼ばれている。日本ではよいものと認められていないけど、アメリカでは合法で150万から200万人がホームスクーリングを実施しているらしい(多い!)。

学校以外の場での教育方法の一つとして公的に認知されているので、ホームルクーリングのメソッドが確立されている。具体的には、定期的な標準学力テストの受験・親による指導・英語による指導・必修科目の指定・出席記録の教育局へ提出などを州政府がホームスクール法として法的・制度的に定めている(これには、親が子を学習放棄したり無視したり放任するのを防ぐ意図がある)。

(以下余談)日本には学校に行くしか教育を受ける選択肢がないので、学校に行かない子どもをいかに学校に行けるようにするか、ということを考えている人が多い気がする。学校も、親も。
今、不登校の子どもの数は過去最高の24万人超。その理由を「生活リズムが乱れやすく交友関係が築くことが難しくなり、登校意欲がわきにくい状況にあった」と文科省は言ってるけど、こどもにとっては「学校がつまらない」というただそれだけだと思う。おもしろかったら行くでしょ。つまらない自分たちに原因があるのに、つまらなく感じるこどもに原因を探そうとするのは滑稽にも見える。

脱線したけど、ホームスクーリングのメソッドが確立されていないということは、自分たちで何をどう教えるかを考えなければいけないということである。

あー、めんどくさい。あー、めんどくさい。でもしかたない、やるか。。

ということで、自分の経験をもとに思考したり、本を読んだり、妻と議論したり、レイと一緒に家庭学習を進めていきながら、家庭学習の根幹、基礎に置くためのコンセプトを少しずつ形にしていった(実際には、考えてきれいに整理して作った、みたいな感じではなく、いろんな経験の中で得た体感を積み上げていった)

現状のコンセプトはこんな感じ。言語化できているものだけ載せてみる)

学ぶとは「技術と感性と磨く」ということ

学びをデザインするためには、学びが何かがわかってなければいけない。ということで、いろいろ考えた結果がこれ。これに尽きる。対象は何でもいい。ゲームでもアニメでもガンプラ製作でも旅行でも、技術と感性が磨かれていれば学びだし、探究学習とかプロジェクトベーストラーニングであろうとそうでなければ学びではない。
別の見方をすると、こどもが楽しんでいるとか、熱中しているとか、そういうのは学びと関係ない(学ぶために大事な要素ではあるが、楽しければ学びがあるとはならない)。そういう見た目に惑わさないようにしないといけない。

この時代、この世界を楽しく生き抜けるようになること目指す

大変残念だが、レイは戦時下を生きる可能性がある。戦争は個人にとって最大の理不尽を引き起こす災厄である。その災厄の中でも世界を恨まず、生きることの美しさと楽しさを胸に、生を全うしていくためには感性と技術の両方が必要不可欠だと考える(なので、学ぶことが大事)。

学ぶ内容ではなく、学び方を学ぶこと(Learn how to learn)が必要

「人間は学びたいという心さえあれば、どんな所でも学ぶことができる」というマスター・キートンに出てくる名言を心から信じている。なので、大事なのは知識の量を増やすことではなく、学ぶことの大事さを信じる心と、いつでもどこでも必要なときに学ぶためのやり方や心構え、技術だ。Google検索すらオワコンになるだろう将来にあっても、それは変わらない。

親としてではなく、先輩として関わる

もう父親というものを7年くらいやっているが、さっぱり勝手がわからない。自分が父親であるという実感もあんまりないし、うまくできている気もしない。「イメージできないものはマネージできない」ということで、父親はやめて、先輩として関わっている。レイは30歳離れた後輩。今は同じ部署で先輩、後輩だけど、そのうちお互い異動で離れ離れになる、みたいな。
実際に、僕は彼らの人生の前半の最初に登場するだけで、人生の大半は別の場所で別の人と暮らすわけだし。なので、それくらいの距離感で関わっていきたい。

やろうとしてないこと

コンセプトの輪郭をよりはっきりさせるために、陰影、つまりコンセプトに含まれないこと、やろうとしていないこともここで言語化しておこう。

こどもに寄り添う

そもそも、僕はレイ(と次男ゼン)の方が僕よりも人間としてのポテンシャルが上だと思っている。自分より才能のある人間に対して「寄り添う」ということは必要ない。自分の器量で彼らを測ることはできない。なので、いかに彼らが花開いていくのを邪魔しないか、どれくらい関わらないでいられるか、というのが僕の目下の命題である。

好きを伸ばして学びにつなげる

もちろん、好きを伸ばしたくない、ということではないが、上述のコンセプトにもとづいて学びを提供するために必要なことをやる、ということだと思っているので、こどもの好き嫌いはあまり関係ないと思っている。
「好きなことをやることが成長につながる」という話をよく聞くが、僕は無邪気すぎると思う。
誤解を恐れずに言えば、てりやきマックバーガーセットが好きだから毎食それを食べたら幸せで前向きに生きられて最高だぜ、みたいな感じに聴こえる。健康でいるためには食べたいもの以外にも食べないといけない。前者も後者も両方大事なわけだが、こどもの学びに関してはなぜか前者だけが強調されているように感じることが多い。グルメサイト見てるみたいな、おいしそうなものばかり出てて迷う、みたいな。
好きなものは放っておいてもやるし、それは本人が伸ばせるわけだから、本人に任せる。僕は好きじゃないものをどう美味しく、自分に合う形で食べるか、みたいな視点で学びを設計する。美味しい料理を提供するのではなく、食べにくい食材を美味しく食べるための調理技術を身に着けるための学びを提供する。なので、本人が好きじゃないことも必要ならやる。

学校に行かなくてもこどもが幸せに生きられるようにする

幸せは主観の問題だから僕にこどもを幸せにすることはできないし、僕の考える幸せとこどもの幸せは別物だし、そもそも僕自身が幸せに興味がない。僕の役割は、この時代、この世界を生き抜く水準まで彼らの感性と技術を磨くことである。なので、こういうことは考えない。

一般性、普遍性のあるメソッドとして確立する

これは不可能。そもそも、僕とレイという2つの個性の試行錯誤によって成立しているやり方で固有性しかない。なので、誰かの何かの参考になるかもしれないけど、それ以外に用途はないと思う。また、彼の成長スピードはすごく早いので、半年後にはここに書いたことも陳腐化していると思う。

実際にやっていること

ここまで抽象的な話が続いたので、そろそろ具体的な話に入ろうと思う(でも、前提となるこの部分がないとやっていることの意味がよくわからないのではと思うので長々書いた。というのは嘘で、自分の整理のために書いたら長くなってしまっただけです。すみません。)

あんまりきれいな整理ではないけど、あたま、きもち、からだの3つのカテゴリーに分けて学びのデザインをしている。

超ざっくり!

タイムスケジュール

一週間の全体像はこんな感じ。

それぞれのカテゴリーでやっていることはこんな感じ。

「からだ」

運動不足解消身体を動かす技術を学ぶという2つの目的で実施している。

やっていることとしてはシンプルで、ラジオ体操児童向けの筋トレ家の周りを走る(500mくらい)の3つ。筋トレはこの写真に書いたものの中からピックアップしてやる、という感じ。

全部やってるけじゃない。その日にやれそうなものをピックアップしている。

僕はスポーツや運動の経験がないので、とにかく手探り。こういう本を読んで、自分に教えられそうで、レイがやれそうなものを選んでやっている。これでいいのか、まったくわからない。

走ることについては今は体力をつけることが目的でやっているが、そのうち走る技術についても教えたいなと思っていて、こういうコンテンツを見ながらちょっとずつ勉強している。できないと教えられないのがしんどい。が、僕の学びにもなるのでよしとする(義務教育12年受けた僕が走り方の技術について無知なこと自体が日本の教育の敗北だとも思う。なんで教えないんだろう。意味がわからない。)


「あたま」

全体としてはこんな感じ。

  • 1コマ(30分)を休憩をはさみながら3コマ実施している。

  • 1コマの中で3つの科目をやる。

  • 3つの科目のうち、最初の2つはアウトプット。最後の1つはインプット。

  • アウトプットは一人でやって終わったら答え合わせ。

  • インプットはテキストを一緒に読んで、理解度を確認したり、議論したりしている。

こんな感じで横にいて一緒にやってる。

使っているテキストはこんな感じ(興味ない人は読み飛ばしてください)。

ドリルたち。いろいろ見たけど、いちばんUIがよかった。
これはいいテキスト。
表がこれ。このときは間違えてたのでいろいろ直した。
裏。これも行き詰まってたので、横でヒントを出したりしながら解いた。
これもいいテキスト。
僕が文章を読み上げて答えてもらっている。こういうのはすごく得意でほぼ間違えない。


良いテキスト。僕の勉強にもなる。


宗教関係は僕もあまり詳しくないのですごく勉強になる。たのしい。

「きもち」

意思決定の練習

日々やっている運動も課題については「やらなければならないこと」ではなく「やると決めたこと」という位置づけにしている。なので、やるかやらないかはレイが決めることができる。これは意思決定の練習。
例えば、前の日に遊びにいってたりすると疲れていたりして「今日は課題やりたくない…どうしよう…」というときがある。そういうときは「やりたくない『から』やらない、なのか、やりたくない『けど』やるのか決めて教えて」とドライに返すようにしている。
でも、そうやっていると意思決定はうまくなるもので、最近は「今日は課題とかやるのはやめておくよ。無理にやったとしても集中力切れてうまくできなくて、僕にとってもお父さんにとってもよくないと思う」と、朝イチで言われるようになった(ちなみに、そういうときは「やらない意思決定は大人でも難しい。ちゃんと決められるようになっていいね。」と返している。)

今日は課題やりたくないときのレイ。

生活技術の習得

生活技術、つまり家事は生きていくために最も基本的かつ重要なスキルだと個人的には思っている。「大人になっても使わない微積分とか習う意味がわからない」みたいな話をtwitterで見たことがあるが、大人になって絶対に使う掃除洗濯料理を詳しく教えない方が意味がわからない。

ということで、毎週一つ担当の家事決めてやってもらっている(これまでに洗い物、洗濯、洗濯物の片付け、お風呂掃除を経験済み)。

ただし、以下の理由から「こどもが家事を手伝う」という捉え方をしないこと、「手伝ってくれたことを褒める」ということをしないことにしている。

理由①
家事は家族の構成員全てに関わる非報酬型の労働であり、役割分担をしてやるべきものである。しかしながら、子供は技術や経験が足りないから、それが十分にできない。なので、親はそれを肩代わりをしている。ということで、お手伝いをしているのは親側であり、子ども側ではない、という認識を僕が持っているから。

理由②
感謝と褒めるは意味合いが全く異なる行為で、この場合は自分が担っている役割を代わりに引き受けてくれたことに対する感謝が適切だと思うから。

理由③
そもそも僕は褒めるというのは上から目線ですきじゃなくて、仕事でも家庭でもほとんどやらないから。ポジティブなことを一切言わない、ということではなくて、すごいと感じたならすごいと言えばよくて、それはただの感想として言えば良いと思う派。褒める技術磨くよりは、そういう感想を持てるような、素直な感性を持っておくことの方が大事なんじゃないか派。

洗い物をして盛大に床を濡らすレイ。なぜここまで濡れるのか。

コミュニケーションへのフィードバック

これは、まあどの家庭でも日常的なやりとりの中でやっていると思う。特筆すべきことはやっていない。いいことはいいね、嫌なことはよくないね、と伝えるだけ。
例えば、最近、レイが次男に対してちょっと見下すような発言をしたので、そういうのはよくないからやめてと言う、みたいな感じ。
強いて言えば、できるだけ世間や社会をバックにつけたような言い回しはしないようにしている。上の例でいうと「そういう言い方するとみんなに嫌われるよ」みたいな言い方は避ける。それは、僕が子供だったときに嫌いな大人が言う言い方なので。その代わりに自分の感情を伝える。この例でいうと、「僕はレイのお父さんでもあるが、ゼン(次男)のお父さんでもある。なので、ゼンを見下すようなことを言う人は嫌いだし、仲良くしようとも思わない。それがレイであっても。」みたいなことを言って伝えた。

時間管理

決まったことをやる以外の時間はYouTubeを見ていることが多い。世界のエリートが集まって作っている、動画を長時間見せるためのアルゴリズムの前では人は無力である。放っておくとずっと見てしまうので、いつまで見るか、見るのをやめるためのアラートをどう出すか(タイマー、声がけなど)を決めてもらってから見るようにしてもらっている。

動画は本当によく見てる。うまく付き合えるようになってほしい。

お金管理

お金は貯めるより使うほうが難しい。なので、お金を使う練習をしてほしくて、月の小遣いを1,000円渡している。なかなか高額だと思うが、少額すぎると買えるものがないので練習にならないので、まあしょうがないかなと思う。

お年玉でもらったお金の使い方も任せている。レイは今年もらったお年玉で怪獣のフィギュア(ネロンガ:シン・ウルトラマンver.)を買っていた。「クリスマスにプレゼント(エヴァンゲリオン新二号機)もらったばっかりだし、さすがに近すぎでは…」と僕の意見は伝えたが却下された。本人のお金なので使い道に僕は干渉できない。こういうところも含めて学びだとも思っている。

長期旅行

旅以上に学べる機会を知らない。「この状況をなんとか乗り切る」ということを最も手軽に学べるのが旅だと思う。ということで、毎年夏に2人で1週間の旅行に行くことにしている。
去年は九州(福岡、熊本、阿蘇、長崎あたり)、今年は瀬戸内(香川、高知、直島あたり)に行った。お金と車を運転する自信がないので、公共交通機関のみで異動、宿泊先は安宿、という比較的過酷な旅行だが、レイの中では割と困難を超えたという経験と記憶されているようで、1泊2日くらいの旅行だと「一週間旅行に比べると散歩だね。楽勝。」という感じになっている。どこでも行ける気軽さを身に着けたようでよかった。

夏の瀬戸内海に浮かぶレイ。泳げないので浮かぶだけ。なのに、3時間浮かび続けた。

アートとの関わり、あるいは世界の広げ方

音楽とかアニメとかフィギュアとか漫画とかゲームとか、全部アートだと思うので、そういうものとの接点を作るための時間やお金はできるだけケチらないようにしたいと思っている。お金そこまでないけど。
「学びが多そうなものを見繕って、それに触れさせる」みたいなことはやらないようにしている。アートについては恋愛みたいなものでタイミングがすべてで、見合い結婚みたいなことはできない。なので、流れに任せるしかない。
今出会うことよりはこれから先出会う可能性が開かれていること、アート的なものがある環境は大事かなと思うので、それはなんとなくやっている。

玄関にいるピクミンたち。

好きなものに出会ったときに、もう違う角度から照らして別の好きなところを見つける、みたいなことはしている。
例えば、ガンダムのゲームにハマってやりこんでいるときに、ゲームに登場するガンダムのプラモデルを買って組み立てたり、BGMで使われている曲をサブスクで探して聴けるようにしたり、みたいな。あるいは、プラモデルを組み立てるだけじゃなくて、それを改造したり、塗装したり、自分の作品にしていくことをやってみたり。
ドビュッシーの曲を聴いたことがあるだけで印象派の絵の見方が変わる、ということはあって、そういう「世界の広げ方」みたいなことが存在している、そういうことができるともっと楽しくなるということは知っていてほしいと思っている。

買ったガンプラにオリジナルの塗装をするレイ。
これが完成品。いろんなパーツを組み合わせて作っている。
買ったフィギュアでポーズを取って遊んでいるので、ポージングがうますぎる。
映画を見て参考にしていたりするらしい。躍動感がありすぎる。

このやり方、考え方に至った経緯あれこれ

  • 教える内容。最初は学習指導要領を参考にして、学年に合わせた知識を身に着けていくのがいいのではと思っていた。

  • しかし、途中で学校が嫌でいかなくなった子に学校と同じようなこと教えるのは違うなと思った。また、上述に書いたような家庭学習のコンセプトが自分の中で固まってきたこともあって、教科というくくりに縛られずに、教える側が生きていくために本当に大事だと思うことを教えよう、ということにした。

  • とはいえ、それだけだと具体的に決めるのが難しかったので、リベラルアーツの自由七科(文法学,修辞学,弁証法,算術,幾何学,天文学,音楽)を参考にしつつ、自分なりに必要だと思うものを考えていたら今に至った、という感じ。

  • 教えてて楽しいと思えることしか教えられないな、とも思った。つまらないけど必要だからやろう、みたいなことは教えるのが一番難しい。

  • タイムスケジュール。最初は学校の時間割に合わせて朝からやっていたが、やる気が出なくて課題や運動がうまくできない、ということが続いていた。どうしたものかと思っていたら、レイから「僕は午前中はゆっくりしたい。勉強は午後からやりたい。」と言われて、試しにやってみたらそれがハマった。朝からやるものと思っていた自分の思い込みに反省…(午前中は学童、午後から授業みたいな学校あったらいいのにな、とちょっと思った。朝昨日の宿題やることもできるし、遊ぶこともできるし、朝ゆっくり寝られるし。そういうのが向いている子もいそうな気がする。)

  • 学びのコンセプトを深めることができたのは、これらの本との出会いが大きかった。先人の知恵に敬服、感謝。

教える側の生活あれこれ

  • 僕は家事担当なので(これは休職前から)、買い物に行く、掃除をする、洗濯する、洗い物をする、お風呂掃除をする、朝昼晩ご飯をつくる、ということをやっている。仕事で磨いたマルチタスク処理スキルとtoDO管理スキルを駆使しているが、それでも自分のために自由に使える時間は少なく感じる。

  • レイの学習担当は僕が一任されているので、僕がコンセプトやデザイン、日々の実践を進めている。ただ、状況や課題については晩ごはんを食べたあとに妻に報告したり、相談したりしている。ホウレンソウ、ちゃんとやってる。

  • 僕はそれなりに多趣味なので、平日夕食後洗い物を片付けたあとは妻に子供を見てもらって自分の時間に充てている。主に、バイオリンの練習や読書、動画鑑賞など気ままに過ごしている(今は「ブリジャートン家」を見ている。おもしろすぎる)。最初は「一緒に遊ぼ!」と言われたりしていたが、「今はお父さんは遊ばない」ときっぱり断っていたら、最近は何も言われなくなった。

  • うつ病の症状で息苦しくなったり、疲れがどっと出たりするので、22時くらいには寝るようにしている。起きるのは7時過ぎくらい。

  • インプットの時間が足りないのでPodcastをひたすら流しながら家事をしている。

この生活を通じて思うことあれこれ

とにかくレイが大変だし、よくやってるし、ホントすごいわ、というのが正直なところ。自分が子供だったら、この生活、ちょっと圧強くて嫌だなと思う。レイも学校の方が楽だと思うと言ってたし。それでも、この環境で学ぶことに向き合おうとするレイを心の底から尊敬している。

とはいえ、レイもここまで来るのは順風満帆なわけではなくて、学校に行かなくなって家庭学習を始めた当初は「勉強なんかやりたくない!」と言って、プリントをビリビリに破いたりしていた。そこから、本当にいろんなやりとりをして、彼の中で変化が少しずつ生まれていって、今ようやく「できればやりたくないけどでもまあやったほうがいいのはたしかだし、つまらないわけじゃないな」というような感覚で、学びに向き合えるようになった。ここまで一年近くかかったけど、でも、必要な時間だったと強く思う。彼が今手にしている、自分で自分のことを決める感覚や、学ぶことに対する納得感、学びを通じて変わっていくことの楽しさとか、彼の今後の人生を支えていくものになるんだろうなと思う。

いやー、すごい大変だったし、これは一体どうなるんだろうかと思ったけど、さすがレイ、ちゃんと乗り切ったし、もう大丈夫そうだなって思う。これで7歳だもんなあ。30歳先輩として立つ瀬があるように僕もがんばらねば。

ということで、長々書いてきましたが、今井家の家庭学習はこんな感じ。大変だけど、楽しくやってます。これからもどうかご贔屓に。

ゼン、レイ、シュンスケ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?