短編小説『永遠よ、こんにちは。』
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「お化粧もお洒落もしなくてよくなりました。おかげで、その時間を有効に使えています」
深夜のラジオ番組で、丸の内のОLさんがそんなことを言っていた。コロナ禍で在宅勤務になって、お出かけするのも近所で買い物するくらいだから、そんな必要はなくなったということだ。なんだか、悲しいきもちになった。
わたしにとって、お化粧もお洒落もやらなければならないことではない。やりたくてしている、きもちを上げるためにしている。もちろん、人それぞれだろうけれども。
百二十年間、そうやって暮らしてきた。ある意味、こころの支えとして。
たしかに、くたくたに疲れていたら、そんな余裕は無いかもしれない。少しでも余計に寝ていたいだろう。だけど、それはきちんと眠れていないからだ。正しく眠る秘訣を知らないから疲れがとれない。
その秘訣というのも、就寝時には穏やかなきもちになれるようにするというだけのこと。あたりまえだけれども、忘れてしまいがちな真実。不安や恐怖は寝室から追いはらわなければ。
かつて、わたしの同族たちは棺桶がないと熟睡できないと信じていた。それは、棺桶の中なら安全だと感じられたから。死者のふりをすれば、なにびとにも杭を打たれたり、太陽のひかりを浴びせられたりすることはない、そんな冒涜をする者なんかいない、と考えられていたのだった。
あなたを仲間に誘おうと思って、この物語は書いている。
もちろん、わたしたちにも不自由なことがたくさん。太陽の下には出られないし、どういうわけかニンニクやハーブ、無宗教でも十字架が苦手。せっかく二十一才の若さのままなのに、鏡に姿が映らない。なによりも、ときどき、生きた人間の血を吸わなければならない。けれども、そんなのは些細なこと。永遠に生きられるのだから。
不老不死って退屈じゃないのって、亡き恋人から質問されたことがあった。いいえ、そんなことはない、長く生きれば生きるほど、もっと世界を知りたくなる。ビッグバンの後みたいに、好奇心がものすごいスピードで外宇宙へと広がっていく。
もしかして、ただの強がりかしら?そうでないなら、こんな文章を暗がりでひとり書いていないかも。
やはり、永遠とはさみしいもの。だからこそ、この瞬間、あなたを誘っている。万が一、奇跡が起こって、あなたがあなたの意思であなたの首すじを三回噛ませてくれたなら、同族へ加わってくれるというのなら、わたしはしっかりと約束しよう。如何なる偉大な芸術家でも、ダ・ヴィンチやピカソ、モーツァルトやベートーヴェンでさえも知覚することが叶わなかった、絶対的な美の世界への扉の鍵をあなたと共有することを。
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美とはいったい?
快楽とは違うのだろうか?
そんな疑問を抱いたのも、竹久夢二先生のおかげだった。先生からは、いろいろなことを教わった。というより、この世で大切なことをなにもかも教わった。
残念ながら、どんな文献で調べても『夢二をめぐる三人の女性』の中にわたしの名前は発見できない。すごく悔しい。いつか、先生とわたしのことを長編小説に書いてみようかしら。ぶあつい一冊が書けるくらい、ふたりは親密だったのだから。からだも心も愛しあっていた。はじめての相手は先生だったし、ご存命だったころは他の男性とカフェーにさえ行かなかった。
横浜から大きな船に乗って、わたしたちはホノルルから西海岸、ヨーロッパへ渡り、ドイツ、チェコ、オーストラリア、フランス、スイス、ベルリン、そしてナポリまで旅を続けた。結局、二年くらいだったかしら。
先生が他界されたのは、帰国してまもなく、満五十才になろうという九月の初旬で、当時はそうめずらしくもない結核が死因だった。そういうことは、Wikipediaに親切な誰かが記載してくれている。
ご存じの通り、竹久夢二先生は有名人だ。歴史上の人物だ。創作された美人画や詩、流行歌、童話、広告デザインは世界中の人々に現代も愛され続けている。それでも、つまり、あんなにも多才で美意識の高い素晴らしいお方が、あっけなく逝ってしまったのだ。
人間は儚い。本当に儚すぎると思う。
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さ迷えるたましい、ロストソウルになってしまったのは、わたしが二十一歳の八月のことだった。
何年も経ってからだけど、訪日していたフランスの詩人ジャン・コクトーから指摘され、なるほど、あれがきっかけだったのねと妙に納得した。
夢二先生と銀座のデパートで『ルーマニアの秘宝展』を観にいったとき、目が真っ赤な、びっくりするくらい大きな蚊に刺されてしまったのだ。とっさ、先生が平手で叩き潰し、わたしの白い腕にべっとりと血がついた。それは、ふつうの蚊ではなかったらしい。
その晩から四十度近い高熱が出て、わたしは三日間も寝こんだ。奇妙な夢をたくさん見たけれど、内容は覚えていない。『アンダルシアの犬』みたいなイメージだった。夢二先生のかかりつけのお医者さんに診てもらい、解熱剤を飲み、血液検査や高価なレントゲンを撮ってもらったが、原因は分からなかった。
やがて、四日目の夜から熱が嘘のようにひいた。それから、わたしの肉体は徐々に変わっていった。あまりにも急激な変化だったので、精神的には現実を受け入れるのが相当つらかった。いったい、どうなってしまったの?
後々数十年かけて、わたしは映画や小説、研究書から諸説紛紛な知識を吸収することになる。しかし、当時はそういった情報を得られるわけがなく、いうならば、クリスマス島の繁殖期のアカガニたちが誰にも教わっていないのに森から海岸へ一週間もかけて大移動できるように、わたしもまた本能に突き動かされるまま、なんとか臨機応変に暮らしてきたのだった。
世間体を気にして、もともと疎遠だった鎌倉の実家とも関係を絶たざるをえなく、僅かな財産だけは生前贈与されたが、所謂、天涯孤独になってしまった。
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そうこうするうちに、地獄の季節を駆けぬけ、流星のような恋や愛に何度も遭遇したけれども、真の生命の意味も分からないまま、時が嵐のように過ぎ去っていき、その運命的な初夏の真夜中にたどり着いたのだった。
つまり、二千二十年の七月初旬のこと。
「いつから、そこに立っていたの?」
その美しい青年は高層マンションの屋上から飛び下りるのをやめて、そう振り返った。
おどろくのも無理はない。ついさっきまで、わたしはコウモリに変身して、青白い月明かりに照らされた雲のすき間から彼の動向を観察していたのだから。
あまりにも彼は美しかった。二十歳になるかならないか。もしかしたら高校生、少年なのかもしれない。真っ白いTシャツにジーンズ、スニーカー、なんてことのない格好なのに特別なオーラを感じてしまう。このまま、死なせてしまうのはもったいない、とわたしは彼に関わることを決めた。数時間であれ、数日であれ、数カ月であれ、知りあってみたいと思ったのだ。
これって、ひとめ惚れかしら?
「新作ですよね」
突然、彼がうれしいことを言ってくれた。
そうなのよ、このボーダーのカットソーはシャネルの新作なの。三十万円以上もする。わたしのテンションはさらに上がってしまった。なぜ、若いのにそんな知識があるの?
「ねぇ、きみ、フェンスの内側に戻ってちょうだい。アスファルトに激突したら、その可愛らしい顔がザクロを割ったみたいになってしまう」
「ザクロって?」
あっ、ザクロは知らないのか…
「ギリシア神話でも登場するフルーツよ。とにかく、そこにいたら危ないから」
とわたしは答えた。
ちょっと面倒くさそうに口元を歪めたけれども、青年はお願いした通りにしてくれた。
近づくと、わたしよりも十五センチ以上も背が高く、ほっそりとしているのに筋肉質で、それこそギリシアの神々みたいだった。
じろじろと無遠慮に眺めてしまう。
「もしかして、ぼくを知らないの?」
青年はそう言って、右の手のひらで肩まであるブラウンのヘアーが夜風で乱れるのを優雅に整えた。
「きみを知っているか、ですって?」
とわたしは首をかしげた。
「知らないの?ショックだな。けっこう、映画やドラマで主演をやらせてもらっていて、世の中的には知られているのに」
「そういうの、観ないから」
「読書派ですか?」
「読書は好きよ。映画だって観るわ。だけど、あまり同時代の作品に興味ないの」
「ひどい。ぼくらだって一生懸命に作っているのに」
「ついていけないのよ。年だから仕方ないわ」
「えっ?ぼくと大して変わらないでしょ?二十歳くらい?」
「たましいが年寄りなの」
「ぼくだって、そうだ。ただの十九才じゃない」
そのとき、ヘリコプターが赤いランプを点滅させ、辺りに爆音を響かせながら、わたしたちをかすめるようにして飛んでいった。
「あれ、パパラッチかも」
と彼は言った。
「自意識過剰」
とわたしが言った。
*
夜が明ける一時間前まで、あたかもそのマンションの寝室が無重力状態であるかのように、わたしたちは理性から解き放たれ、三回、いいえ、四回も交わり続けた。
青年は器用でも不器用でもなかった。ただ、本能の最も深いところから湧きたつエネルギーを発散させていた。
彼の行為は午後の牧神のフルート演奏のように呪術的で、それに合わせて、わたしは狂ったように踊りまくり、クライマックス直前には催眠術をかけて彼を朦朧とさせ、たくましい首筋に二本の長い牙を刺した。温かい、真っ赤な血が白いシーツにこぼれた。
広い寝室の壁には、青年が主演したシェイクスピア劇の白黒ポスターが大げさな金縁の額に飾られてあった。芸名だろうけれども、彼の名前は雪嶋冬馬といった。去年の秋、ハムレットを演じたのだ。美しい憂鬱な表情で頭がい骨のレプリカを手に持っている。ローレンス・オリヴィエの真似だ。すこし滑稽だった。
生きるべきか、死ぬべきか、それが問題、というわけね。
そっと身支度をして部屋を出ていこうと思ったら、むかし飼っていたロシアンブルーの猫みたいに彼が神秘的に目を開けて、大きなあくびをした。
「行かないでくれよ」
と冬馬が言った。
「きみ、女性を知らないままで死ぬつもりだったの?好奇心は大切よ」
とわたしは言った。
「どうして、首に噛みついたりしたんだい?ヒリヒリする」
北欧のダイニングテーブルでハーゲンダッツを食べながら、冬馬が聞いてきた。
単なる性癖だと答えてもよかったけど、わたしは彼がとても気にいってしまっていた。
信じてもらえなくても、別にかまわない。百年近く、そんなのは慣れっこなのだ。結局、誰も誰かを本当の意味で信じたりできない。
「わたし、ヴァンパイアなの」
あぁ、すっきりした。
「なるほど」
と冬馬は表情を変えなかった。
ほらっ、やっぱり。彼は信じない。
「それよりも、未成年がこんな賃貸マンションに独り暮らしはあり得ないわ。百五十平米くらいだから、月額二百万かしら?」
わたしもハーゲンダッツを食べ、話題を変えた。
「知らない。事務所が借りているから。でも、あなただって、その年齢で全身シャネルなんてあり得ない。そのコーディネイトだと、百五十万くらいかな?」
そう話しながら、冬馬はキッチンのマシンからエスプレッソを運んできてくれた。
あと十五分で日没だ。時計がなくても、本能が教えてくれる。
「もう行かないと」
わたしは、ぐっとカップを飲み干した。
あっ、しまった、苦い!砂糖を入れ忘れた。
「ねぇ、あなたの名前を聞いてなかった」
「霜子。北風霜子」
「霜子さん、また会える?」
と冬馬がわたしの目を見た。
なんて、さみしそうな瞳だろうか…夢二先生を思いだしてしまう。
「きみが生きていればね。それまで死なないで」
わたしは彼の頬にサヨナラのキスをした。
*
夜明け前に帰宅して、いつものように地下室の銀色の棺桶でわたしは眠りにつき、ノイシュヴァンシュタイン城で目を覚ました。
月の青白いひかりが、丸天井のステンドグラスからさしていた。
広間の中央には、王のための立派な玉座があった。壁一面のタペストリーには、ライオンやキリン、サイやエレファント、クジャクやサル、さまざまな動物たちが描かれてある。
そして、美術館の額縁のような大きな窓からは、銀色にかがやく湖が見えた。
なんという美しい夢。
そして、ルードウィッヒ陛下がすぐ傍の闇から現れた。眉間に深いしわを寄せている。
「正気なのか?」
どうかしら、とわたしは首をかしげた。
「無責任だと思わないのかね。不老不死がどのようなものか、お前だって知らないわけではないだろう。まして、あの青年は死にたがっているのだぞ。永遠に後悔することになりかねない」
永遠に後悔することになりかねない、というのは陛下の好みのフレーズだった。自分自身の人生と重ねあわせているのだろう。
「そうしろと本能がささやくのですよ」
とわたしはきっぱりと言った。
「自己破壊的な本能だってあるさ」
ほら、また自分のことを…
「わしには未来が見える。青年は次第にお前を恨み、憎むようになるだろう。そして、苦悩する彼を見つめながら、お前は自らを責め続けるのだ。北風霜子、移ろいやすい感情に流されてはならない」
「ずっと独りで生きろと?」
とわたしは訊ねた。
「わしがいるではないか」
怒ったようにそう言うと、陛下は広間の反対側に置かれたベヒシュタインの黒いピアノまで歩いていった。それから、ワーグナーから教わったハノンを弾きはじめた。
いくら練習しても、同じ個所で間違えるのだ。陛下が学ぶことはない。成長することはない。ずっと変わらない。永遠の王なのだ。
「たしかに、わしは女性を寝室に迎えない。それでも、真の意味で愛せないわけではないのだよ」
と陛下はつぶやいた。
「わたしを愛してくださいますか?」
陛下の返事がなんであるかを予想できたけれど、この美しい夢が悪夢に変貌しないために、わたしは敢えてそう質問したのだった。
「もちろん、愛しているさ。わしにはお前しかいない。他に愛せる者がいるはずもない。ここはお前の夢の世界なのだからな。だから、その青年を招くのは止しておくれ。この城も、そのピアノも、何もかもが用済みになってしまう。灰は灰に。そうではないか?」
灰は灰に、塵は塵に、土は土に、その通りかもしれない。
陛下の頬に涙が光っていた。
それは、わたしがきっと望んだからだった。
*
いくつかの古代文明では、ぐるぐると回転するイメージで時間の概念を捉えていたそうである。始まりも終わりもない、ということだろう。
あれから二カ月くらい経って、わたしは冬馬と再会した。
つまり、八月の後半、内閣総理大臣が体調不良で辞任を発表した夜のことだった。
それは、日比谷の映画館でのプレミアム試写会だった。もちろん、入場制限があって、ソーシャルディスタンスの保たれたイベントだった。
去年のカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した女性監督の新作。芥川龍之介の『河童』の実写化だった。
雪嶋冬馬は、精神病患者の第二十三号、河童の世界に迷いこんだ主人公を怪演していた。演出の仕方がドン・シーゲル監督の『恐怖の街』を彷彿させ、水木しげる的な笑いもあり、アクション、リアクションがとてもスムーズな脚本で、わたしは最後まで楽しむことができた。
上映終了後、舞台挨拶が行われ、マスコミ関係者から主演の雪嶋冬馬にこんな質問があった。
「週刊誌で美しい女性と自宅のマンション屋上でご一緒されている写真が掲載されていましたが、どのようなご関係ですか?お付き合いされているのですか?」
週刊誌?わたしは知らなかった。
「作品と関係のないご質問はご遠慮ください」
慌てて、司会の女性が制した。
「お答えします」
冬馬が一歩前に出た。
わたしは胸騒ぎがした。
「あの晩、ぼくは屋上から飛び降りようとしていました。なにもかもが嫌になっていたのです。もしかしたら、役作りで、『河童』の主人公に近づきすぎていたのかもしれません。この場に参加することができたのも、あの女性がぼくの命を救ってくれたからなのです。残念ながら、あれ以来、彼女とは連絡がとれていません。名前だけは聞けましたが、なにも知らないのです」
会場の数百人が一斉にどよめいた。
マスク着用していたけれども、わたしは恥ずかしくて真っ赤になって、周囲から顔が見えないようにうつむいた。
「その女性のお名前は?」
記者がたずねた。
「ご迷惑をかけるので」
と冬馬が答えた。
「雪嶋くんは恋に落ちたのでは?」
別の記者がたずねた。
すると、大勢が笑った。
「はい、その通りです」
冬馬がきっぱりと答えた。
「そろそろ、お時間になりましたので」
司会の女性がさえぎった。
そして、その時だった!
「あっ!」
突然、冬馬が驚きの大声をあげた。
ちょっと顔をあげた瞬間、わたしは彼と目をしっかりと合わせてしまったのだ。
二人のたましいに電流が走ったようだった。一瞬で、彼はわたしだと気づいていた。周囲の人々にも、そのことが伝わっていた。
「失礼」
慌てて立ちあがって、マスコミや観客たちの好奇の視線を浴びながら、とにかく出口のほうへと急いだ。歩いた、歩いた。
ものすごい数のカメラのフラッシュが花火みたいに光って、わたしは眩暈をおぼえた。
それは、これまで感じたことのない種類の幸福感だった。
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寒椿初江さんと滅多に会うことはない。
前回、倉敷にあったわたしの自宅へ訪ねてきたのは二千十一年の春で、東日本大震災の直後だった。
あのときは、わたしの血液成分から放射能への強い耐性物質が見つかったので、治療薬の開発を急いでいるという報告だった。実用化に時間がかかるが、研究者はノーベル賞を受賞できるだろうと笑っていた。
あの話はどうなったのかしら?
「もうじき、私も定年なのですよ。霜子さんにお会いできるのも、これが最後かもしれません」
と寒椿さんが言った。
体重が増えたからだろうか。だいぶん貫禄がある。以前は音楽教師の夫とふたり暮らし、たしか、娘はベルリンかドレスデンの美大学生だと話していた。現在どうしているのかは知らない。
「特務機関にも定年があるの?」
「正真正銘の公務員ですから」
「たっぷり退職金をもらえるわけね」
「四十年の過酷な勤務に見合うかどうか」
寒椿さんは千疋屋のフルーツサンドイッチを買ってきてくれた。イチゴ、キウイ、パパイヤ、パイナップル、甘さ控えめのホイップクリームが素晴らしい。夢二先生にも食べさせたかった。当時、先生はフルーツパーラーのポスターも手がけていたのだ。
「とても美味しい。でも、挨拶にきたわけではないでしょう?また吸血鬼の血液が必要とか?コロナの治療薬でも開発するの?」
寒椿さんは、わたしがサンドイッチを食べるのを見つめていた。
「北風霜子さん、あなたはすぐに引っ越さなければなりません」
あぁ、なんとなく、そんな予感がしていた。
「そういうことね」
わたしはジンジャーミルクティーを飲んだ。
「なぜ、あんな不用意な行動を?本部は大騒ぎでしたよ」
「こんな時代の空気のせいかも」
「孤独感?」
「いいえ、もっとおぞましい感覚。人間たちには絶対に分からない」
寒椿さんがフルーツサンドイッチに手を伸ばし、遠慮がちに口へ運んで上品に咀嚼した。
「分かったわ。引っ越します。次はどこへ?」
とわたしは観念して言った。
「サンフランシスコはどうですか?」
「なつかしい。あそこなら知人もいる」
「うらやましいです」
「どうして?」
「そうやって、いろいろな人生を経験できることが」
「ねぇ、これは人生なんかじゃない。わたしは人じゃないもの」
自分に言い聞かせるように、わたしはそう答えた。
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夜明け前、いつものように地下室の銀色の棺桶でわたしは眠りにつき、ノイシュヴァンシュタイン城で目を覚ました。
青白い月光の下、ルードウィッヒ陛下は姿を現したが、冬馬のことについては何も話さなかった。彼なりの思いやりだったのだろう。玉座に腰をかけ、お気に入りの宮廷詩人が書いた童話を読み聞かせてくれた。
蝶々がとんでいた。
右にとんだり、左にとんだり、ふんわりと浮き上がったかと思うと、急に落下したりする。どこに行くか分からないような、そんなとび方をしている。
少女は蝶々のところへ駆け寄り、右手の指を突き出して、止まり木として提供した。
指がかゆくなるぐらい、蝶々がそぉーっと止まった。覗きこむと、右の羽と左の羽が言い争いをしている。
「だから、ブロンズの馬を見かけたんだよ」
「わたしのこと、すっかり忘れてた」
「きみのことは、いつも考えてるよ。きょうだけだろ?」
「わたしは、きょうの話をしているの」
「探してたものを見かけて、追いかけることは正しくないっていうのかい?」
「いっしょに飛んでるのに、右の羽が左の羽のことを忘れるのは正しいの?」
少女は蝶々が驚かないように、なるべく小さな声で話しかけた。
「ねぇ、正しい、正しくないってことじゃないんじゃない?右の羽さんがブロンズの馬にいっしょうけんめいで、左の羽さん、さみしかっただけだもの」
右の羽と左の羽は、少女の方をちらりと見ると、少し落ち着いて、しばらく、だまっていた。
そして、左の羽は涙を流し始めた。
「思いやりがないのよ」
「お前こそ、思いやりがないんじゃないか」
蝶々は、少女の指からふわりと浮き上がったかと思うと、両方の羽が一直線に伸びた。
プツン。
なにか鈍い音がして、胴の部分から左の羽がとれてしまい、蝶々はブヨブヨの地面に落ちていった。
少女は、ふたつに分かれてしまった蝶々を拾い上げ、近くの木の下の地面に穴を掘って、いっしょに埋めてあげた。
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幼少時代、とにかく、ぼくは死を怖れていた。大好きだった父さんが自殺したからかもしれない。役者になりたいと思った理由は、作品の中で永遠に生きられると信じたから。
あれから、探偵を二人も雇ったが、北風霜子を発見することはできなかった。彼女を諦めることは、生きることを諦めるのに等しい。
もう一度、屋上にあがって、今度こそ飛び降りてみようか?
そんなふうに考えながら、ぼくはソファに座って竹久夢二の画集を開いた。夢二の描く女性は、なんとなく霜子さんに似ている。
コツコツ、窓ガラスを叩く音が聞こえて、ぼくは振り返った。ベランダの暗がりには霜子さんが立っていた。ここは十七階だった。
「お別れを告げにきたの」
あいかわらず、彼女はスタイリッシュだった。ディオールの千鳥格子のワンピースを着こなしていた。
ぼくが慌てて窓を開けると、黒いエナメルの靴を優雅に脱いで、部屋に入ってきた。
「どうやってそこへ、なんてつまらないことは質問しないで。時間が限られているから…いいえ、本当は無限にあるのだけれど。あのね、事情があって、わたしは外国へ引っ越すことになったの。だから、きみにはもう会えない」
彼女はそう言って、ぼくを背中から抱擁してくれた。氷のように冷たかった。
「そうか、ちょうど良かった。今夜、死のうと思っていたから」
「馬鹿ね」
「ぼくには忘れられない童話があってさ、一匹の蝶々が飛んでいるのだけど、右の羽と左の羽が仲たがいして、胴の部分から無残にもとれてしまい、落ちてしまう」
「それを拾った少女が木の下に埋めてあげるのよ」
「なんだ、あの詩人を知っていたの?」
彼女は黙りこんで、何かを考えているようだった。
「わたしの右の羽になってくれる?」
そう言われて、ぼくはうなずいた。
もちろん、よろこんで。
次の瞬間、右の首すじから恍惚感がひろがっていった。彼女が続けて二度も噛んだのが分かった。痛みはまったく無かったが、たくさんの血が白いカーペットを汚した。
願いごとには気をつけなさい、思わぬかたちで叶ってしまうかも、という諺がある。その通りだと思う。
そんなふうにして、ぼくの夢は叶ってしまったのだ。
霜子さん、霜子さん…薄れていく意識の中で、ぼくは彼女の名前を呼びつづけた。
永遠よ、こんにちは。
(了)
短編小説『永遠よ、こんにちは。』
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