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短編小説『変身するカフカくん』

ぼくの絶望よ、世界文学になれ!



 


 その城塞の形をした職業安定所には、くたびれた灰色の背広の老人がひとりで働いていた。

 太陽が傾きかけた頃、背広の老人のいる窓口へ、やけに耳の大きな青年カフカくんが訪ねてきて、

「なにか仕事がしたいのです」

 とお願いした。

 老人は逆に質問した。

「どんな仕事ができるのかね?」

 考えてみたら、カフカくんはなにもできない。

 それも仕方のないことだった。

 これまでに働いたことがないのだから。

「なにかできるようになったら、またいらっしゃい」

 と老人が言った。

 カフカくんは思った。

 ……世の中には星の数ほどの仕事がある。なのに、どんな仕事をしたいのか、自分は分かっていない。

 それを察したのか、老人が笑顔で次のようなアドバイスをしてくれた。

「どうして人間は働かなければいけないのか、その理由を知っているかね?それぞれに答えはあってもいいのだろうが、まぁ、わしの長年の経験から言わせてもらうと……つまりは助け合いの精神だ。共存共栄ということさ。きみはパンや米を食べるだろう。ロウソクや水道を使うだろう。それは、誰かが代わりに働いてくれているから、食べられるのだし……使用できるのだ。だから、きみも働いて社会の役にたたなければね」

 社会の役にたつ?

 カフカくんは、そんなふうに考えたことがなかった。仕事というのは、生活していくために仕方なくお金を稼ぐことだ、と思っていたからだ。

「この街に生活していて、きみが心からありがたい、と感じることはなんだね?」

 老人が、そんな抽象的な質問をした。

 カフカくんは考える。ぼくが心からありがたいと思うこと……すると、あるひとつの答えが直感的に浮かんだ。

「図書館です」

「図書館?」

「はい」

「本が好きなのか」

「はい」

「では、図書館で働くとよいだろう」

 そう言って、老人は背後の書類棚から最新の求人募集の書類をあさろうとした。

「待ってください」

 カフカくんが、それを止めた。

「どうしたのかね」

「なんだか、違うような気がします」

「違う?」

「よく考えたら、ぼくは図書館が好きなのではなくて、本、そのものが好きなのでした。本がたくさんあるから、図書館をありがたいと思うのです」

「うむ、そうか」

「だから、図書館でも本屋でも、本がたくさんあるところなら、同じようにありがたいと思うのです」

「それでは本屋で働くかね?」

「それも違うような気がします」

「図書館も本屋も立派な仕事先だよ」

「もちろんです」

「でも、きみは違うと思うのだね」

「すいません」

 老人は小さなため息をついた。

 カフカくんも小さなため息をついた。

「図書館にも本屋にも、きみの好きな本がたくさんあるのだから、そういう場所で働けるのは仕合わせなことではないだろうか」

「うまく言えませんが、ぼくにとって本というのはモノではなくて、生きる希望を与えてくれるひかりのような存在なのです」

「なかなか哲学的なことをいうじゃないか。何を隠そう、そういう考え方がわしも大好きじゃよ。例えば、きみはどんな本が好きなのかな」

「小説や詩です。特に、フローベルやトーマス・マンなんかが」

「ほう、気が合うな」

「お好きなのですか?」

「この世のなによりもね」

 老人の顔がぱっと明るくなって、カフカくんも嬉しかった。

「なにがきっかけで、そんなに小説や詩が好きになったのですか?」

 とカフカくんは逆に質問してみた。

「亡くなった妻の影響かな。とにかく、たくさん読むよ。片っぱしからね。人見知りせず、新しい人たちと出逢うみたいにして。だが、わしの場合は読むだけじゃない。書いたりもする。若いころから、わしは極度の心身症でね。前の戦争で、自分が酷い目あったり、他人を酷い目に合わせたりしたから、その後遺症がずっと続いている。どんなときでも、銃でいつか撃たれるんじゃないか、路地を歩いていても地雷を踏んでしまうんじゃないか、というような病的な妄想を抱いてしまうのだ。死ぬまで、いいや、それは死んだって治らないかもしれない」

「お気の毒に」

「それでね、スイス人の有名な心理学者に診てもらったら、文章を書いてみたらよいと勧められたのだ。いつもノートを持ち歩いて、耐えがたい不安や心配に襲われたなら、その気持ちを書きとめるのだ」

「なるほど」

「それが、思いのほか楽しかった。文章を書いていると、わしは自由を感じる。役所の仕事をしながらでも、休憩時間になれば健康のために書く。もちろん、日曜日や祭日も。己の絶望感を解き放つことができるのだ。それは、詩だったり小説だったり。別に職業作家になりたいわけじゃないから、自由気ままに、のんびりと自分のペースでかれこれ三十年以上も続けている」

 そう話す老人の顔は、仕合わせに満たされて上気していた。

「三十年!すごいじゃないですか。それだけ書けば、何冊も本が出版できますね」

 他人事ながら、カフカくんもわくわくしていた。

「いやいや、誰にも読ませる気はない。死んだとき、数十冊のノートは棺桶に入れてもらうことになっている。灰は灰に、塵は塵に」

「もったいない。作家としてデビューできたり、もしかしたら印税だってもらえるかもしれないのに」

 カフカくんが真面目な顔でそう言うと、老人は照れくさそうに笑っていたが、ふと壁の時計が五時を差していることに気付いて、おしゃべりをしすぎたかもしれないな、とちょっとだけ慌てていた。

「とにかく、それが金になろうがなるまいが、自分のやりたいことを見つけるといい。それを一生懸命にやっているうちに、きみは、きみがなりたいものに変身できる。その変身したきみが世の中の役に立つかどうかは、世の中の人たちが決めることだ。大丈夫、美しい蝶や逞しいカブトムシにだって、きみなら立派に変身することができる。わしは、そんなふうに思うよ。さぁ、終業時間になったから、ここを閉めるぞ。きょうで、わしは定年退職なのだ」

 

 その城塞の形をした職業安定所から出たら、プラハの街はすでに暗がりに沈んでいた。

 カフカくんは電車で自宅へ戻った。せまい部屋の窓際のデスクには、満月の青白いひかりが降り注いでいた。

 椅子にゆっくりともたれながら、カフカくんは老人との会話を思いだした。そうして、自分が小説を書いてみるのも悪くないと考えた。

 これまで読んでばかりだったが、ぼくにだって、誰かに伝えられる物語があるかもしれない。かつて、こんなに清々しい気分はなかった。

「変身か……」

 美しい蝶や逞しいカブトムシにだって、きみなら立派に変身できるだろう、という老人の言葉が脳裏へ強烈に焼きついていて、カフカくんの新しい夢への挑戦を応援しているかのように思われた。


(了)
変身するカフカくん

イラスト/ノーコピーライトガール


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