短編小説『もう一度、温めればいい』
*
昼すぎ、ノルマの原稿を書き終え、キッチンでカレーライスを食べていたら、ぼくの携帯が鳴った。知らない番号だったので、セールスかと思ったが、とんでもない用件だった。
結果、その悲劇的ともいえる会話を交わしているあいだ、せっかくのカレーライスはすっかり冷めてしまったけれど、もう一度、温めればいいだけのことだった。
それは、こんなふうに始まった。
「高梨真守さんですか?」
電話の向こうで、女が言った。
「どちらさまですか?」
とぼくは聞いた。
「牧野糸子。牧野佑二の妻です」
誰だろう?
「牧野佑二さん?記憶にないですね」
「ご存じなくて、当然です。あなたの奥さんが、わたしの夫のことをよく知っています」
「ぼくの妻が?」
「はい。背中のほくろの位置まで」
「それって、どういう意味です?」
嫌な空気だった。
世界が灰色に染まっていくみたいな。
「あの女、いいえ、葉子さんが、この瞬間、どこにいるのかを教えてあげましょうか?」
と女が言った。
「どこって、葉子は会社で働いていますよ」
そう答えながら、それは違うのかもしれない、という予感がした。
「いいえ、丸の内にはおりません。みなとみらい、横浜美術館でムンク展を鑑賞しているのです」
「ムンク展?」
「有名な『叫び』が特別展示されています」
「ムンクなんか、妻は興味ないと思うけど」
重要なポイントはそこじゃないと分かっていながら、どう返事したらいいのか、ぼくは戸惑った。
「わたしの夫もアートに興味はありません」
と女は答えた。
「つまり、それは……」
ぼくが言いかけると、
「そう、そういうことです。あなたの奥さんは、あなたに内緒で有休をとって、わたしの夫と楽しい時間を過ごしています」
と女はさえぎった。
「まさか、」
ぼくは、不安を口にした。
胃のあたりがキュッと冷たくなる。
「わたし、探偵を雇いました。プロに任せた方がいいと思ったのです。日当を十五万円払えば、三十分おきに写真を送ってくれる。とても鮮明で、いっさいの言い逃れができないような」
次の瞬間、その女の携帯からぼくの携帯に、一枚の写真が送られてきた。
公園のベンチで、葉子と見知らぬスーツ姿の若い男がひとつのソフトクリームをシェアしながら、キスしている。ふたりは、年の離れた恋人同士に見える。
ぼくは携帯を反対側の耳に移しかえ、ゴクンとツバを飲みこんだ。相手にも、その音が聞こえたかもしれない。
「それで、ぼくはどうすればいいのだろう?」
こうなったら、事実を受けいれるしかない。
「どうすればいいかしら?そうねぇ、考えたのだけど、迷惑じゃなかったら、うちに来ていただけませんか?できたら、いまからすぐにでも」
「おたくに?」
「一度、あなたにお会いしておきたいし、これからどうするか、わたしたちは話しあうべきだと思うのですよ」
わたしたち?
そうか、ぼくたちは被害者なのだ。
奇妙な連帯感があった。
女の声はふるえていたし、時折、鼻をすすっていた。
たぶん、泣いている。
「分かりました」
とぼくは答えた。
*
カレーライスをさっさと食べ、なにが起こっているかを頭で整理しながら歯をみがき、白いTシャツとジーンズに着がえると、ぼくは家を出た。
大通りでタクシーをつかまえ、桜新町の駅近くのその住所へと向かった。
築十年くらい、五階建ての黒い壁面の賃貸マンションだった。一階はコンビニになっていて、エレベータで三階へ上がった。
インターホンをならすと、部屋のドアが開き、みず色の花柄のワンピースをきたショートカットの若い女が顔をだした。
泣きはらして、目元が赤い。
ぼくより、ひとまわりも年下だろう。
二十代後半の白い顔をした、透明感ある清楚な感じの可愛らしいひとだった。
こんな奥さんがいるのに、どうして浮気なんか、と思った。
「高梨真守さん?」
ぼくが黙ってうなずくと、女は悲しげにほほ笑んで、エアコンの効いた、日当たりのいい部屋の中へと案内した。
近所の工事現場の騒音が聞こえる。
ほとんど、なにも無い、せまいリビングルームをみまわした。二人がけの丸テーブルと椅子、テレビがあって、壁際には引っ越し用の大きな段ボールがいくつも重ねてあった。
「来月から海外赴任なのです」
と、女が説明した。
「海外赴任?」
と、ぼくは少し驚いた。
「はい、上海に」
と女は答えた。
「来月?」
それなのにこんなことになってしまって、と女は困った表情をした。
「どうか、おかけになって。ビールでも飲みませんか?わたし、飲まないといられない。あなただって、そうじゃない?それとも、アルコールは苦手かしら?」
「いただきます」
キッチンからバドワイザーの缶を二本、グラスをふたつ、女が黄色いトレイで運んできた。
ぼくたちはテーブルで向かいあって、自分のビールを注いだ。
「あぁ、おいしい」
ひと口飲んで、女が言った。
ぼくも飲んだ。
よく冷えていた。
「さっき、飛び下りようと思いました」
「飛び下りる?」
「ベランダから」
「ここ、三階ですよ」
「死ねませんね」
「骨折するくらいだ」
「なにもかも嫌になったの」
ぼくは、またビールを飲んだ。
もう、なくなった。
「おかわり、飲みますか?」
と女が聞いた。
いいえ、ぼくは首を横にふった。
「失礼ですけど、葉子さんって四十三才でしょう。ぜんぜん、わたしは納得できません。わざわざ、佑二がそんなおばさんと」
「なかなか、魅力的な女なのです」
「たしかに美人ですけど」
「ご主人は、何才ですか?」
とぼくは訊ねた。
「ニ十九です」
と女が答えた。
「なるほど」
「もう一年以上、付きあっているみたい。ふたりは、どうするつもりなのかしら?」
と女が言った。
「上海に行くのでしょう?」
とぼくは聞いた。
「はい」
「なら、もう会えないのでは」
「そうでしょうか?」
「海外赴任が決まったのは、いつです?」
「ちょうど、一年くらい前です」
「それを知った上での付き合いかも」
「別れてくれますかね?」
「そう願いたいな」
女も、ビールを飲みほした。そして立ちあがり、ふたたび冷蔵庫へ行った。もうひとつ、バドワイザーをとり出して、今度は缶ごと飲んだ。
「ねぇ、どうして、そんなに落ちついていられるの?あなたは、奥さんに裏切られたのですよ。怒らないのですか?」
「もちろん、怒っています。だけどね、いろいろなことで、妻は混乱していると思うのです。そういうことって、誰だってある」
理解できない、と女は首をふった。
「とにかく、必要とされているかぎり、ぼくは妻の支えになるつもりです」
「もう必要とされていないのでは?他の男を好きになったくらいだから」
「確かに、そうかもしれない。それは妻に聞いてみなければ」
そのとき、ぼくの携帯電話が鳴った。
知らない番号だった。
*
「おれのせいです」
救急病院のせまい待合室で、スーツ姿の若い男は頭をさげた。
となりで、彼の妻が泣いていた。
ぼくは、しゃべる気がしなくて、だらしなく長椅子に座り、自分が呼ばれるのを待った。
いつ、誰に、呼ばれるのかも分からない。
ただ、待つしかなかった。
ホテルの浴室で、常用の精神安定剤をすべて飲み、葉子は死のうとしたのだ。
やがて、看護師がやってきて、奥さまの意識が戻りました、と告げた。
まるで迷路のような、透明なビニールカーテンで仕切られた集中治療室へと案内された。
あちこちで、ナースコールや人工呼吸器のアラームが鳴りひびいていた。
ふと、ウェディングドレス姿の葉子を思いだした。未来や希望、光という言葉が似合う光景。もう十五年も昔のことで、式を挙げた教会はとり壊されて立体駐車場になってしまったけれど、あの仕合わせな感覚を未だに覚えていた。
窓側のベッドに寝かされ、葉子の腕にはいくつもの管がつながれていた。血圧や心電図、心拍数が、頭上のモニターに表示されている。
パイプ椅子に腰かけ、彼女の左手を握った。とても冷たかった。
ぼくの背後には、若い医師と年配の看護師が立っていた。
「旦那さんですよ」
と看護師が声をかけてくれた。
枕に涙をこぼしながら、葉子がうなずいた。
くたびれきって、目の焦点は定まっていない。
なにも見えていないのかもしれない。
彼女は暗闇にいる。
「迷惑をかけるわね」
弱々しく、妻がつぶやいた。
ぼくは黙ったまま、彼女の手の甲をさすった。
せいいっぱいの愛情をこめて。
「大丈夫、あなた?」
と彼女が聞いた。
「大丈夫だよ」
とぼくは答えた。
(了)
『もう一度、温めればいい』
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