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長男の「なんで委員会なんかあるんだ?」 が町会のあり方の見直しにつながるか?

友人のとある投稿を目にして、ふと、息子がこぼしたグチが頭に浮かんだ。
友人が紹介していたのはこちらの記事

ある障害を持つ男性が、町会にて役員を免除してもらう際に意図しないことを強要され、それを苦に自殺したという内容だった。

なぜそこまで町会は求めなければならなかったか、配慮することはできないのか、という見方が多い。しかし、町会を運営する立場に立てば、あの人だけどうして特別扱いできるの? と内部から批判の声があがって困ることは容易に想像できる。

町会は入会が任意であるとされているが、町会が存在する地域では、ほぼすべての住人が入ることが「当たり前」となっている。生活における割と大事な部分を町会が担っている。

身近な事柄でいうと、ゴミ当番というものが町会単位で存在する。町会に入っていない人は、ゴミステーションに捨てて欲しくないという気持ちが、入会している側には生じてしまう。

その他にも、回覧板で町の情報を知らされたり、緊急時の避難場所などが町会単位で決められている。そして入会したら、町会の役員(お世話役)を順番にするのはお互い様だから仕方ないと多くの人は諦めている。

けれども、町会に入っていないからゴミ捨てを良く思われないという状況はなんかおかしい(ゴミばかりに話が集中していますが)。町会に入らなくても、必要最低限の生活が送る権利を私たちは持っているはずじゃなかったか?

どうして、町会に入ることが当たり前、そしてお世話役をお互い様で回すことが当たり前となっているのか。

そこで、長男の「なんで委員会なんかあるんだよ!」というグチを思い出す。

そう、私たちは小学生の時から無償の「委員会」という仕事をすることが当たり前だと思って過ごしてきた。中学校、高校でもやってきた。たとえ気が進まない委員会に配属されて、仮にじゃんけんで負けて委員長になっても、やらなければならなかった。それを「当たり前のこと」「仕方のないこと」と受け入れている。

その委員会を経た子どもたちが大人になって、町会に入って順番が来たらお役を担うことが当たり前と思ってしまうのもわけはない。

長男は、イギリスで1年間過ごす経験をしたことで、学校に委員会がない状況を知ってしまった。それで学校生活が問題なく回っていることも知った。だから「なんで委員会が必要なのか?」と疑問に持つことができた。

いま一度、なぜ町会があるのか、なぜ町会に入らなければならないのか、なぜお世話役はお互い様で順番に回さなければならないのか、原点に立ち返って見る必要があるのではないか。町会自体だけでなく、町会のお世話役制度、当番制度に依存している行政も含めて、考え直す。日本のどの地域も、これから多様性を受け入れて行く必要がある。「当たり前」が通じない時がくるはずだ。町会問題で苦しむ人がこれ以上でないように、町会のあり方を整える。

それには、まず固定観念を取り払うところからはじめてみるか? 小学校の委員会、その存在意義から子どもたち自身が考えてみてはどうだろうか? 学校生活を豊かにする、居心地の良い学校空間にするために委員会があるのではないか、と私は思う。となれば、毎年、委員会に所属する学年の子どもたちが、どんなことをしたら学校が良くなるか、楽しくなるか、どんな委員会があると良いか、決めてみたらよいではないか。もし、委員会の種類と数が減っても、学校生活は成り立つはず。子どもの自主性を伸ばす良いトレーニングになる。そうして育つ子どもたちが、将来、地域の中で皆で暮らす最適案を導くことを願う。



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