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書かない。気分を記録する。

僕がぼんやり抱いている仮説の一つに
「PVや視聴率だけを追うと、コンテンツは均質化し賞味期限は短くなる」
というのがある。

 僕が働き始めた頃よりも、メディアとかマーケットの世界では「分析し、言語化し、メソッドに昇華させ、仕組み化する」というサイクルがめちゃくちゃ早くなった。
それを得意な人が増えたし、業とする人も増えた。たくさんの就活生からもそれをアピールされる。

でも、ゲームそのものよりも、その「攻略本」を作ることにみなが必死になるゲームなんて、みんなすぐに飽きちゃうに決まっている。

 といっても、別にそういうデータがあるわけでもエビデンスがあるわけでもないのですが。

 こういう話をしようとすると「エビデンスは?」「データある?」と気になり、エビデンスがないとどこか後ろめたささえ感じてしまう。

僕自身も「分析したり言語化しなければ、落ち着かない病」にしっかり罹患しているのかもしれない。
 
でも。いいじゃない。
自由に創作する場 note の上くらい、後ろめたさを感じず、加工もしない、生のままの「気分」をつらつら書き、自らを迷わせ、結論とも言えない結論に誘ってもらえば・・・と思うのです。


いろんなものが均質化されていく中で、しぶとく価値を持ち続けるのではないかと僕が期待しているのが「記録」です。とにかく愚直に、じっくり、淡々と残された記録。

たとえば、戦争の記録。
夏になると、あるいは夏の間だけ、日本のメディアは戦争を振り返るコンテンツを配信する。 

終戦後、アメリカは戦略爆撃調査団という部隊を派遣し、終戦直後の長崎や広島の様子を「カラーフィルム」で撮影している。

そこには建物が一切なくなり、はるか山の麓まで荒野になってしまった様子や、そこでも荷車を押し生活を始めている人々の姿が映っている。

その中でとりわけ鮮明に印象に残っている映像がある。それは、瓦礫となった教会の背景をゆっくり流れる雲と、空の青さ、です。

2021年の夏の空も青いし、1945年の空も青い。
当たり前なのだけれども、「あの日の空も青かった」という事実の記録が、僕をあの頃の日本へと想いを馳せる最良のトリガーになっている。


あるいは、ひとつの映画。
まだ見ていないのでレビューを書くこともできないのだけど、街へ出る機会があったら観たい映画がある。
「東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート」です。

表参道から歩いても行ける場所、1964年の東京オリンピックの都市開発で作られ、まるで高度経済成長期の東京に迷い込んだような感覚におちいる「霞ヶ丘アパート」という一角があった 

しかし、このたびの 2020東京オリンピックの準備のために強制的に立ち退きを迫られ、もう今はありません。

その場所はちょうど、今回のオリンピックで各局テレビ局がよく使っていた、背景に国立競技場を望むガラス張りの「あのスタジオ」。あのあたり。

嵐のようにやってきて、嵐のように去っていったオリンピック。大きく人生が変わった人達の、その日その日の「気分」のようなものが映画には記録されているのではないかと、僕は期待しているのです。


とかく気分は消えやすい。
その瞬間には自分の中ではとても確かで硬くてしっかりした質感があるのに、喉もとすぎると真夏の蜃気楼のように消えてしまう。

曖昧になるどころか、思い出し方を忘れ、あったことさえ忘れてしまうのが不思議すぎる。

7月の上旬には「オリンピックなんてけしからん!!」と怒り、8月上旬には「日本のアスリートすごいね!」と熱狂し、9月に入るや「オリンピック?懐かしいね」「開幕式直前で辞めた人って誰でしたっけ?」となっていませんか?
すみません、僕はなっています。

きっと来年の夏には、8割の人がオリンピックに反対していた事実や、まして開会式の人選に怒っていた「あの気分」なんて、本当になかったことになってしまい、サッカーW杯に熱狂していると思う。

だからこそ、「気分」の記録って価値があると思う。

つまらなくてもいいし、ユニークじゃなくてもいいし、洗練された言語化もされていない。価値だってなくてもいいし、意味なんてついていなくてもいいと思う。
だって、意味はきっと数十年後の誰かが勝手につけてくれるから。僕が1945年の「空の青さ」にさえ勝手に意味を見出してしまうように。


3日前は37度の真夏日だったのに、9月に入るといきなり梅雨のような雨が降り続いている。今朝は20度、肌寒く、一気に秋が来たような感じです。そして「秋」と書いただけで無性に秋刀魚が食べたくなります。これこそ秋の気分です。

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