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ユキヒョウ的ものづくり

2週間ほど猛烈に忙しくて、書く時間がありませんでした。

秋にかけてもっと忙しくなっていきそうですが、すこしだけ間ができたので、自分のための文章を書きたい。息つぎ、息つぎ。


ひと昔まえ、映像制作の現場では
「お前が作るモノがつまらないのは、お前という人間がつまらないからだ」
みたいな尖った言葉が飛び交っていました。まるで戦場です。飲み会といえばコレ。だから、飲み会はもっとも嫌いな「業務」でした。

いま、こんなことを言うと一発レッドカードなので、こういう人はめっきり見なくなりました。ほぼ絶滅危惧種。ヒマラヤのユキヒョウみたいなもんです。でも、いざ出会ってしまうと、身の危険を感じるところもユキヒョウそっくりなので、以下、彼らをユキヒョウとでも呼びます。

ユキヒョウ的な思想、つまり仕事の成果物と「人格」とを結びつける思想はとにかく危険だし、もはや政治的に正しくありません。

「労働力を提供するから、正当な対価だけもらえればいいよ」という人にとっては関わりたくない存在で、真に受けていたらワーク・ライフ・バランスも崩壊します。

その意味では、ずいぶんと生きやすい社会になりました。社会は確実にいい方に向かっています。


なのですが、あくまで僕個人としては、やっぱり自分の人生や人格、魂を削るようにものを作ってるユキヒョウの作品に強烈に惹かれてしまうところもあります。残念ながら。

先日、エヴァンゲリオンで有名な庵野秀明さんのドキュメンタリーを見ました。個人的には、何度見てもエヴァンゲリオンの面白さは今ひとつ分かりませんが、ドキュメンタリーはとても面白かったです。あと、『シン・ゴジラ』は結構すきです。

で、庵野秀明さんの働き方がとてもユキヒョウ的でした。(でも、それを部下には押しつけてない気がします。たぶん)

そういう人にとってのモノ作りって、「仕事」というよりもほとんど「存在証明」みたいなところがありますし、ひとつひとつの技術も「スキル」というよりも「文体」という感じがします。

シン・ゴジラでのゴジラの放射線や、エヴァンゲリオンの砲撃、ナウシカの巨神兵の炎とかも、やっぱり庵野さんの「文体」なんだなと思いました。

一見すると涼しげな顔して、涼しげな文章を書いている村上春樹さんだって、「文章の勉強というのはどうすればいいんでしょうか?」という質問に対して、こんなことを書いています。

 文章というのは量を書けば上手くなる。でも自分の中にきちんとした方向感覚がない限り、上手さの大半は「器用さ」で終わってしまう。
 それではそんな方向感覚はどうすれば身につくか?これはもう、文章云々をべつにしてとにかく生きるということしかない。(『村上朝日堂』より)

ある程度の「基礎」を身につけたあと、本気で何かを作ろうと思ったとき、たぶん人は「生きてきたようにしか作れない」のかもしれません。

note の世界もおなじ。僕がめちゃくちゃ好きな書き手の方が何人かいますが、そういう人の文章はすごく面白いと同時に、どこかあやうい。その「あやうさ」の中に、「この人しか書けなさそう」がある。実にユキヒョウ的です。


マスに向けて発信するのであれば、ある程度まではマーケティングをしたり、統計を見ることで「それっぽい」ものができます。でも、その先にはだいたい答えがない部分の問い、定量化できない「問い」が待っているように思います。

たとえば、『鬼滅の刃』で「炎柱・煉獄杏寿郎を生かすか・殺すか」みたいな問いです。

アニメ『鬼滅の刃』の滑らかな動きや、時々はいるギャグ調のとぼけた描画、3次元的なカメラワーク、レコード大賞を取った「炎」は、どれも高い技術だし見る人を引きつけます。
が、究極的にはこの「問い」の答えを明瞭に際立たせるための小道具であり脇役です。というか、そうあるべきだと僕は思います。

その「問い」に決着をつけるのは、結局のところ、その人の「好み」と言いますか、もっと大袈裟にいえば「死生観」みたいなものではないでしょうか。死生観って、もうほとんど「その人自身」ですよね。

そんな「死生観」みたいなものが垣間見えると面白い。いや、そういうところこそ、僕は好きなんだなぁと、だんだん自分のことが分かってきました。


たぶん、ユキヒョウ達の思想には一抹の真実があるのです。

でも、それをもっと丁寧に、やさしく、持続可能に、ポリティカル・コレクトリーに伝える話法が、まだ、ない。そこを開発して、ユキヒョウ的な先人を供養することが、我々の世代の仕事のひとつだなぁ、などと思ったりする今日このごろです。

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