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「説明的すぎる」という言葉が気になって

「全部を描いてしまうと説明的になってしまうんです」

先日、NHKの番組「日曜美術館」で日本伝統工芸展の特集がやっていた。その中でたいそう大きな賞を受賞した蒔絵師の方が、インタビューで語っていて、「なるほどなぁ」とテレビの前で唸ってしまった。
テレビの前で独り言が増えてきてきたら、すっかり年寄りである。

ちなみに、その作者の作品はこちらである。

作者が暮らす北陸の町・輪島では、冬はとにかく天気が悪く晴れがほとんどない。そんな折、ふと雲間からさしてきた陽光が椿を照らすのが美しく、その淡く微かな光を金粉で表現したかったという。

その時に、葉っぱ1枚1枚の輪郭をすべて金箔で描いてしまうことはせずに、一部だけを描き、それでいて葉っぱ全体を見る人が感じられるようにした、というのだ。

なるほど、そう言われて見ると、金箔というとても明るい素材を使っていながら、同時に陰翳がしっかりと描かれている。その分、金の明るさが際立っているようにも思われてくる。


「説明的」という言葉になんとなく強烈に引きつけられてしまうのは、僕もまた、文章を書いたり、写真や映像を撮った折に「説明的すぎる」としばしば指摘され、怒られてきたからなのだ。

「説明的すぎる」
あらためて考えれば不思議で面白い言葉である。説明的にすぎると、一体なぜダメなのだろうか。そして、なぜつい “説明的” になってしまうのだろうか。

ついこの間も、原稿の中で「雪吊り」ということば使う際に、
<松などの木を雪の重さから守るために用いられる雪吊り>と説明しようとしたところ、
「この文章を読む人で“雪吊り”という言葉を知らない人は誰も居ないから、必要ありません。」と指摘されてしまった。
すみません、「雪吊り」のことを知らなかったのは他でもなく私でした。自分がその事柄について明るくないと、つい、言い訳するように言葉を足してしまう。
説明的すぎる表現は、作り手のエゴだったり、自己保身から起こるのです。

工芸品を作っている人に限らず、カメラマンや文筆家、料理人にいたるまで、ある程度のところまで熟達した人は、異口同音に「<たし算>よりも<ひき算>が大事」と語るようになる。

そして、やっぱり「ひき算」のほうが難しい。
ひき算が難しい理由は、第一に、「結局、何がいちばん大事なのかを分かっていなければならない」ところにある。

そして、もうひとつ。
「説明しない」ためには、読者や視聴者、鑑賞者、受け手の想像力を信じる必要がある。これが難しいのだ。

ひき算して、ひき算して、川に架けられた飛び石のようになった橋を落ちることなくお客さんに渡りきってもらう必要がある。それはひとつの綱渡りのコミュニケーションなのかもしれない。

しかし、鑑賞者は余白や行間を、自らの想像力で埋められた時、その作品を「自分のために作られたものだ」と感じることができる。そうなるとその作品は、いつまで強く心に残ることになるのだ。

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