時間に匂いはあるか?

本日は、高校生たちと哲学カフェ。

1分の瞑想、チェックインと流れも決まって、高校生たちもすっとその場にいられるようになってきていると感じる。

今日のテーマは、メンバー一人が提案した「自然と調和するには?」である。

テーマを持ってきた高校生のモヤモヤを聞いてみる。

一つは、畑をやっていて赤ウリの苗の植え替え時期を逃していること。
もう一つは、捕まえたヤドカリを返そうと思いつつ胸ポケットに入れていたら、弱って死んでしまったこと。

そのエピソードから、その高校生は「自然は待ってくれない」ということを感じたようだった。

それは、人間同士でも同じで、はやい相手とどうやって時間を合わせるかについても、モヤモヤしているようだった。

ほかの高校生からも、それぞれの時間の感じ方について話が出てくる。ランニングをしたときに、ふっと感じる心が戻ってきた話。

一日がもう三時間伸びてほしいと思うときがあるという話。

さて、ここで私は、疑問が出てくる。

「なぜ、テーマを持ってきた高校生はモヤモヤしているのだろう?」

ふと、思いついたのは「自然」が半径3メートルに入ってきたのではないか?ということ。これまでなかなか見えづらかった世界が、手で触れられる距離に来たのではないか?ということ。

それは、一人のメンバーがシェアしてくれた病弱の正岡子規が庭を眺めていることと同じではないだろうか?

世界は「知らない世界がある」ということを想定すると、格段に広くなる。「知らない領域」の仮定こそが、世界の広さであると言っても良いかもしれない。

さらに、半径3メートルの世界を感じ尽くすには、入力の解像度を上げる必要がある。

そうすると、「時間」は消えるのではないだろうか?

そんな気付きが出てきた。

質とは密度である。密度は、なんの密度か?

メンバーが最後の振り返りで言ってくれたように意識の密度であろう。そのものに、どれだけのものを込められるか。

さて、私たちは時計に縛られている。生活は時計が先に来て、時間に正確に生きようとしている。し、それを社会は推奨している。

しかし、本来、時間とは主観的体験だ。時計は目安にしか過ぎない。

時を味わい尽くすことは、半径3メートルを味わい尽くすことに通じる。
解像度を高くして、考えることだ。

時が匂い立つ感覚はあるだろうか?時が温かい感覚はあるだろうか?時が美味しい感覚は?手触りは?

匂う時を、せめて感じたいと思うセッションでした。

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