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シャコタンと三輪車

昼間から酒を飲んでいたころに、捨てられた三輪車で街を巡ったことがあった。西荻窪の住宅街だったとおもう。色褪せたキティちゃんに跨り街を見渡すと、アスファルトのひび割れは解像度を増し、電柱の先端は細く尖る。路面の小さな段差たちはつぎつぎと存在を主張しはじめ、体全体に伝わるそれら存在の叫びは迎え酒の染みた胃を震わせ、吐気が込み上げてくる。西荻窪のロカンタンとは俺のことだ!なんて独り考えていたとおもう。

三輪車の視点は、世界がまだ狭く、それゆえあまりにも大きかった幼年時代を思い出させる。大きかったというよりも高かったと言うほうが適切だろう。昔から背の順に並べば手を腰に置いていた人間にとって、彼の知る狭い世界は高くそびえ立っていた。子供の目線では見上げられないそれらは恐ろしかった。俺はとにかく背伸びをする子供だった。

、、、後輩の改造車の後部座席に乗りながら、そんなことを思い出していた。トヨタの旧車を改造したその車は、やたらと車高が低い。窓を開けて煙草を吸う。古い車なので後部座席にも灰皿がついている。窓から見る外の景色はちょうど三輪車に乗ったときと同じくらいだ。地面が近い。道ゆく人の視線を一挙に浴びているのがわかる。フロントガラスの前にはパールが垂れ下がり、長いシフトレバーの透明な先端には一輪の赤い花が埋まっている。

新宿から四谷を抜けて皇居の方へ走り抜けていく。シャコタンから見上げる官庁街はいつにも増して高い。運転手はパトカーを睨みながら格調高い街の外側を目指す。
後部座席の後ろでは何故かずっと紫のパトランプが光っている。小さい頃乗っていたミッキーマウスの三輪車にも押すと光って音が鳴るボタンがあった気がする。少年が体だけ大きくなって大人の世界に入り込んだような、ある種のアンバランスさで構成された空間だ。

シャコタンはとにかく揺れる。高速道路に乗れば路面の繋ぎ目ごとに不穏な音を立てながら車体が跳ね上がる。一定の間隔で揺れる様は電車のそれに近い。電車がシャコタンじゃなくてよかったと心底思う。シャコタンはほとんどの駐車場に入れない。とにかく段差に弱い。踏切を越えるのも一苦労だ。小さな段差を乗り越えるためにくねくねと曲がる様子は匍匐前進みたいだ。改造車乗りは生活費を切り詰め、日々愛車を不便に、より不便に改造していく。

それらの情熱はきっと失った世界の高さを取り戻す運動なんだと、俺は思う。
歳を重ねて、世界は少しずつ広くなった。インターネットの発展によって、国境のハードルはずいぶんと低くなった。世界は広くなることで、その背丈を縮めてしまう。自動販売機の一番上のボタンも押せるし、思いつきで海外にも行ける。夜中でも玄関から家に入れるし、たまのご馳走だったマグロの刺身を適当に酒のつまみにしている。俺の身長はそこにあった高さをいつの間にか追い抜いてしまった。

古くから人間は世界の高さを天上のものに求めた。そのような人間の営みは一般に形而上学と呼ばれる。しかしながら天上の光は、人間自身の手によって葬り去られてしまった。それが輝きを真に取り戻すことはおそらく二度とない。だが人間には地上においてその高さを取り戻す可能性が未だ残されている。目線を下げることによって。それは三輪車に乗ることかもしれないし、車高を下げることかもしれない。夜の街を流れる改造車は紫色の光を放ち、濡れた道路を照らしている。

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