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ツイ廃がツイッターをやめて自分の時間を取り戻す決断をした

昨年の12月の半ばから5年続けてきたTwitter(X)を一旦休止した。

ツイ廃だった私には重い決断だったけど、理由はツイッター上の人格がだんだんウェイトを増してきて思考を乗っ取られるようになったからというのと、ツイッターがつまらなくなったから。

妊娠期間中に始めたTwitterが、情報収集のツールとして大活躍し、妊娠出産、乳児期、幼児期、教育、お出かけ情報など、多くの自分では出会えないような情報に出会えたおかげで、生活が豊かになった気がするし、
子供が4歳になった今も、Twitterから多くの気づきやライフハックを拝借していた。

自分自身のアカウントも、生来の検索好き・発信好きが高じて、情報収集から少しずつ情報発信に移行し、床屋政談的な些細な意見も、Twitterのアルゴリズムに乗って多くのいいねを獲得するようになり、なんでもいっちょガミして「ご意見番」になった気分でいた。
平凡な意見よりも尖った意見の方が実際に多くの人に刺さり、それにつれてフォロワーも増えていったことで、自分の中で日増しにTwitterの重みが増えていった。
あらゆる隙間時間が、Twitterに埋められていくのを実感した。隙間時間だけでなく、本来しなければならないことがある時でも、Twitterに手を伸ばしたくて仕方がなくなってきたので、明らかに依存症になりつつあった。

そして何よりも、Twitterで形成された「イモンヌ」というキャラクターに私自身がだんだん侵食されていった。人間に「本当の私」というものは存在しないが、それでもTwitterをやっていないころの「私」は何もかもを言語化したり、一刀両断したり、そんなに「意識高い系」考え方を常に持っていたりしていなかったはずだ。
5年間のTwitterの薫陶を受けて、あらゆる事象に対して脊椎反射的に「イモンヌ」が持っている倫理規範に照らし合わせ、自分の中のlike/dislikeボタンを押すようになった。現実の中の誰かの発言を聞いても、本人の話を良く吟味することなく「あ、これはTwitterで見たアレだな?」「Twitterだったら炎上案件だな」と判断基準がツイッター化している自分に対してだんだん自覚的になって来るようにもなり、それに嫌気を差し始めた。

ツイッターは同じ構造の情報と感情をリサイクルする頻度が高くなっていき、激高とカタルシスの量産設備となった。


ツイッターには触れてはいけない話題がいくつかある。そして絶対にバズる話題・構文もある。
それを利用してマネタイズしている業者はいくつもあるのに、それらにたいしてツイッタラーは本気で怒ったり、あるいはカタルシスを感じて溜飲を下げたりする。そしてそれがコロナ禍になって以降、さらにいうとXになって以降余計に増幅されてきている。
五年もやれば繰り返される同じ話題に対する同じ反応のうねり、そして確かに似た感情が自分の中でも沸き起こっていることに対する自分の救いがたさをも感じてしまう。

昨年末に炎上を経験した。今までも炎上しているし多くの人にブロックされている自覚はあるし、他人に嫌われてもあまり気にしない身ではあるが、上で書いたようなことなども考えていたところだったので、一旦お休みするタイミングとしてよかったのかなと思った。

ツイッターを使わずに、noteで自分の思考を取り戻したい。

ツイッターをやめて、真っ先にしたのはXのアプリを消すことだった。なので今は裏垢もないし、ROMもしていない。「イモンヌ」のアカウントをどうするか、しばらく時間を置いてから考えたいと思っている。

朝起きて真っ先に開いていたXのアプリは、今は日経とNewspicksに取って代わられている。情報強者から受動的にライフハックや遊び場情報を受け取れない代わりに、自分でオンライン/オフライン含めて今まで以上に積極的に探すようになった。そして何より本を読む時間を取り戻した。

「アイデア資本主義」
「人類と気候の10万年史」
「奇跡の社会科学」
「聖書と音」
「面白くて眠れなくなる植物学」
を一か月ですでに読了して、ずっと読みたかった「銃・病原菌・鉄」にもようやく手を付け始めた。
本格的な株式投資を始めるにあたり、バフェットやピーターリンチ、オニールの投資に関する名著も読む時間が確保できた。

これからはもう少しNoteで発信をしていきたい。情報のうねりに身をゆだねるのではなく、取捨選択の先に残ったエッセンスを自分なりに変換して、ツイッターで身に着けた良い部分ー「言語化」、それを武器に、自分の思考を整理し、誰かのキッカケになれたらと思っている。

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