見出し画像

X最大の失策はツイ廃にお金を配ったことである

X(ツイッター)の楽しみは発信そのもの。報酬はいいねの数だ。

数年前からTwitterをやっていて、順調にフォロワーさんも増えてきた。Twitterをやったことがある人ならわかると思うのだが、なぜあんなに内容の濃い情報や専門的な知識を惜しげもなく、無料で出すことができるのか疑問にすら思う時がある。

それがTwitterの最大の面白いところであり、私たち一般人がまさにその受益者でもあった。
Twitterから学んだ事は数知れず、各種専門家、専門家とまで行かなくてもエキスパートがお互いコミュニケーションを行い、けんけんがくがくと百家争鳴と言っても過言ではなかった。

同じよう事例は、実はTwitterに限ったことではない。例えばウィキペディアの編纂やLinuxの開発なども同じである。基本的には無償であり、集合知によって面白いものがどんどん作られていき、結果として、経済合理性という茅の外にあるような巨大で複雑な「建造物」が出来上がったのである。

発信する人に与えられるのは純粋な喜びで、「人が喜んでくれるものを出す」という喜びである。発信という行為は、手段ではなく目的そのものであった。

Twitterが儲かっていないという話が何年も前から言われてきたのだが、ある意味それは当然である。経済的合理性とかけ離れたらところの、人間として本来の喜びに立ち返ったメディアなのであるから。

ツイ廃にお金を配って失われた楽しさと天秤をかけられた価値

そしてTwitterからXになり、方向性が一変した。巨万の富を持つイーロンマスクは、お金配りおじさんとして、ツイッタラーをお金で突き動かそうとした。
もちろん彼が意図した真のところはわからない。少なくとも、この行為によって、ツイッターは変質した。
TwitterがXになろうが変わらなかったものが、発信者にお金を配った瞬間変わってしまった。
ある意味ツイッターの死だと思った。

多かれ少なかれ、ツイートすること自体、ポストすること自体が目的だったこと、フォロワー増やすこと自体が目的だったのに、それがお金を稼ぐ手段に貶められた。

お金目当てに沸いた連中

私が最初にもらった金額は16ドルぐらいだったと記憶している。多いのか少ないのかさておき、自分の発信はこの程度の価値なのかと落ち込んだ。

時短の料理法、面白生活ハック、女性のエンパワメント。もろもろの発信をしてそれなりに評価を得たつもりでいたし、そんなやり方もあったのかと度々メディアにも取り上げられたり、困った人の役に立ち「ありがとう」と言ってもらえることもあった。そのこと自身が、私が発信をするモチベーションになり、自分の知っている何かが誰かの役に立っていると実感することで得られる些細な慰みでもあった。

ところがこちらの価値は16ドル、2000円ちょいでございます。と言われた。
そうか2000円程度のために私は何かとTwitterを開き、知っていることを頻繁に書き込み、炎上リスクを負いつつ、無駄にブルーライトを吸収して視力を削りながらツイートしているのかと思うと切なくなってしまった。

かたやインプ稼ぎの為の連中が盛んに沸いた。
どこへ行ってもバズっているポストにぶら下がる各種言語の一言リプライ、何の価値も産まないのにどこでも湧いてくる迷惑な存在。サーバーのリソースと電力を食い散らかすだけで、イーロンの考える人類のための仕事とは真逆である。

イーロンマスクは見誤っている

イーロンは喜びの目的を、手段に貶めた。毎月振り込まれる情けない額を見て、一層やる気を無くす。
Wikipediaがかりに編纂者に報酬を与えていたら、とてもじゃないが今のような素晴らしい百科事典にはならなかったと思う。
Linuxも開発できなかったと思う。

やり甲斐搾取などと数年前からもてはやされているけれど、ホンモノのやり甲斐が金銭などに変えられない。わずかな金銭を積まれた方が惨めな気持ちになってしまう。
私の地元でボランティアの日本語講師をしている看護師の方は暑い夏も寒い冬も校舎へ赴き無償で外国人達に日本語を丁寧に教えている。区が時給で1,000円やら1500円やらを出して彼らを報いるべきなのだろうか?彼らの働きはそれっぽちで評価できるのだろうか?

自発的なボランティアといやいやながら無休で駆り出される学徒出陣とは別個のものである。やること自体が喜びなのである。子供がおもちゃで遊ぶのと同じで、それ自体が楽しいのだ。大人の評価が欲しいとか、お駄賃がほしいからやっているわけではない、おもちゃで遊ぶこと自体が楽しいのである。

Twitterも私にとってはオモチャであり、遊びであった。
それなのにイーロンはそれをつまらない労働に変えてしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?