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アウトプットって、理想と現実を埋めるための手段なんだ

このひと月ほどで、アウトプットの持つパワーをすごく実感した。
アウトプットってなぜだか「完成形」で提示しなきゃという謎の使命感・義務感を持っていたのだけど、ちょっと違うことに気づいた。この謎の感覚を破壊することが第一関門。アウトプットという行為そのものによって、物事が前に進むことがあるというところに意味がある。そして、これは自らアウトプットしない限り実感できない感覚なのだろうなと思う。


グラレコやってみたいんです、興味あるんですと言ってみた結果

昨日キャリア相談に行ってきた。信頼できる知人キャリアコンサルタント。だからなんでも言えるというのもあるのだけれど、私はこうなりたい!を前よりも具体的に言えるようになった。
やってみたいこと。

・居住エリアでグラレコ(図解)仲間をみつけて一緒に勉強してみたい
・居住エリアで手描きの魅力を伝える活動をやってみたい

ここに以前の私なら(いや、今でもそうだけど)補足したくなる。まだ勉強始めたばっかりでレベルも全然なのだけど、いつかチャレンジしたいんです、と。

この補足したい衝動をグッとこらえて、「いつか」を「今」に言い換えてみる。そしてかわりに今の私のレベルを示すグラレコ(正確に言うと図解)を作って提出してみる(ちょっと個人情報モリモリのためupできない)。結果としては

知り合いにファシリテーション部やっている人がいるから紹介してあげるよ〜♡と言われました!

どうなるかはこれからだけれど、「やってみたい」「今の私のレベルでやってみた」を放ってみた結果の1歩前進!
以前の私ならそんな提案を受けても「え、でも……」と続けてしまっていたけれど、これもグッとこらえる。このあたりの訓練もアウトプット習慣の賜物のような気がする。恥をかいても気にしない精神。一応は「まだまだ初心者ですがぜひお願いします、ファシリテーションとはちょっと違うかもだけど、グラレコ的なものに興味がありまくりで」と伝える。

アウトプットのサイクルって

アウトプットのサイクルってこんな感じ。

①アウトプットしたい(しなきゃ)と思う
②うまくアウトプットできず絶望する
③アウトプットしたい内容を、まとまらないままに羅列して並べてみる
④羅列されたものを眺めてみる、調べてみる、わからないと言ってみる、どの部分に絶望しているのかを考えてみる
⑤再びアウトプットにチャレンジ

アウトプットって、③④の状態をそのまま自分の外に放ってみる感じ。それでいいんだと気づいた。③④を放りながら、放ったものをもう一度回収して、精度をあげたアウトプットに再チャレンジ。それを何度も繰り返していくイメージ。

不完全すぎるアウトプットや、③④の状態の自分だけ見られたら自分の評価がガタ落ちするのじゃないかという不安があった。けれど、③④をオープンにすることで仲間に出会えることがあることにも気づく。アドバイスをもらえることにも気づく。恥ずかしくてたまらないから自然と学んでしまう。

手描きだって同じかもしれない


描こうと思うと描けずに思考停止。イメージと仕上がりには大きな溝がある。

私は手描きがすごく好き。絵日記は数年続けていて、最近なんだかグラレコというか図解というか……がすごく気になる。

手描きにまつわるあれこれ(文房具も含め)が大好きだけれど、それが好きな理由も腑に落ちた。
仕上がりはさておきイメージを絵にしようとする過程が楽しい。観察したり調べたり。自分のイメージをもう少し解像度上げて眺めたり。そしてその過程で何かしらの発見がある。私はこう思ってたんだとかここが気になるとか、もう少しこんな表現ができるようになりたいとか。

そういうわけで、せっかくなのでnote含むアウトプット習慣を続けて行きたいと思った今日なのでした。

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