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「心」の物語について

人は、努めて人生を理性的に生きようとするものである。目の前に何か魅力的なものがあったとしても、それを今手に入れてしまえばこの後の将来にどんなことがあるだろうかと、つい理性的に思考してそれを懐に入れることを躊躇ってしまう。しかし同時に人は、理性を介さずに人生を生きることに極めて強大な憧れを持っている。ルネ・クレールの『悪魔の美しさ』(1949)の脚本家でもある劇作家のアルマン・サラクルーは、「判断力欠如で結婚、忍耐力欠如で離婚、記憶力欠如で再婚」という言葉を残したとされるが、この結婚への冷笑的な揶揄の中にも、やはり理性の欠如によって結婚へと至る人間への逆説的な称賛が感じられるのだ。

現代の映画をいくらかつまらないものにしているのは、キャラクターの強すぎる理性であるような気がしてならない。大九明子の『私をくいとめて』が、主人公・黒川みつこのいささか歪んだ恋愛を描いていた前半部までは素晴らしい出来であった一方で、彼女のトラウマであったり、かつて持っていた夢の挫折であったりを描くようになる後半部になると途端に見るに耐えないものになってしまうのは、この映画の後半部が主人公の理性的な内省で進んでいくドラマ構造になっているからだ。同じようなことを深田晃司の『淵に立つ』や、今泉力哉の『愛がなんだ』にも指摘することができる。映画評論家の蓮實重彦も深田の作品に関してそのことを指摘している。

『淵に立つ』がわたくしはどうしても好きになれません。確かに彼はショットを完璧に撮れる人です。対象への愛着も十分にあるし、単に愛するだけじゃなくて距離の取り方も心得ている。しかし所詮は感情の物語なのです。一種の心理劇になってしまっている。その点では文学的なのかもしれません。(中略)最新作『よこがお』(2019)も非常によく撮れています。キャメラワークは素晴らしいし、女優の演技や存在感も無視できないものがある。しかし結局のところは、「心」の問題に帰着してしまう。(蓮實重彦『見るレッスン』p.59-60)

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『淵に立つ』は深田のオリジナル脚本であるが、『私をくいとめて』と『愛がなんだ』はそれぞれ綿矢りさと角田光代の原作小説を映画化した作品である。フランスの小説家レイモン・ラディゲは、ラファイエット夫人の小説『クレーヴの奥方』に多大な影響を受けて書いた『ドルジェル伯の舞踏会』について、「心理がロマネスクであるところの小説」と語った。ラディゲやラファイエット夫人がその文学の中で試みたことは、ある人間の心理を、まるで戦争の行末を克明に描いた叙事詩のように雄弁に語るということに過ぎなかった。彼らは人の心の因果を詳細に語ることが、それまでの物語小説と同じかそれ以上に人を感動させるということを示したのである。だから文学において、人物が考えることの流れを逐一追っていくという行為そのものがある種のドラマであるために、綿矢や角田の小説においても人の理性的な内省の流れが魅力的な小説の題材となったのである。そもそも文学というものは、人間が理性によって作り出した「言葉」という道具を用いて物語を語ろうとするものだ。「言葉」は人間しか用いることができない。だからそれは、主人公が語り手である一人称小説であろうが、神の視点である三人称小説であろうが、人間そのものに本質的な基礎を置いている。デカルトの言を信じるなら、この世界で「経験」でないものは「考える私」のみである。言い換えれば私たちの世界は、「私が考えたこと」(=理性)と外部がもたらす「経験」との2種類の要素から成り立っている。だから文学が人間の言葉、すなわち理性に本質的な基礎を置いている以上、「私が考えたこと」である理性的な内省を語っても、また現実的な経験を語っても同じようにロマネスクとなるのである。

しかしながら映画においてはそうはいかない。映画はあくまで、「経験」を用いて物語を語ろうとするものである。実際にカメラの前で起きたこと、カメラのセンサーが感受した光の動き、すなわちカメラの「経験」の総体が映画に他ならないのだ。だから文学が言葉という「理性」に基礎を置いていたのとは異なり、映画は物理的な「経験」にその本質的な基礎を置いている。それゆえに映画で「私が考えたこと」を描こうとすると、ある種の齟齬が発生してしまうのである。「考える私」からすれば、主人公の理性的な内省も、世界に起こる物理的な事象も、同じように「出来事」なのである。しかし映画がその本質的な基礎を置く「経験」からすれば、物理的な事象は確かに「出来事」であっても、理性的な内省は単なる「情報」に過ぎないのだ。綿矢りさや角田光代の描く物語が、小説では成り立っていても映画で成り立たないのはそのためである。

それでもやはり疑問は残る。「フランス心理小説の祖」と言われ、理性的な内省の流れを描写した世界最初の小説の一つである『クレーヴの奥方』が、映画的にほとんど完璧な形で映画化されたという事実があるからである。マノエル・ド・オリヴェイラは『クレーヴの奥方』を1999年に映画化し、傑作にしてみせた。「私が考えること」をドラマにし得ないはずのカメラが、しかしどうしてドラマにしてしまい得たのだろうか。

私たちが『クレーヴの奥方』の物語を見て心を動かされるの何故か。それは後世の評価でよく言われるように、「恋愛心理を克明に描き得た」からなのか。きっとそうではないだろう。『クレーヴの奥方』の感動は、絶対に夫以外の男性を愛してはいけないという強烈な貞操観念を持ったある女性の、心の中の苛烈な戦いの行く末にある。クレーヴ夫人のつい抱いてしまった感情とそれを抗しようとする理性との間の葛藤なのである。そこで描かれるのは、理性ではもはや制御することのできない感情に他ならない。その激烈な感情は、当然「私が考えること」ではないし理性的な内省でもない。それは映画が本質的な基礎を置いている「経験」なのである。そのことをオリヴェイラは理解しており、『クレーヴの奥方』は理性と矛盾する感情を官能的に描いた、映画的なことこの上ない映画となったのである。

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確かにオリヴェイラの『クレーヴの奥方』は内省的な映画である。しかしそれは理性と経験との葛藤の内省に他ならない。映画が描き得るのは「経験」のみである。だから映画は、「私」にはどうしようもない「感情」は描けても、「私が考えたこと」は描くことができない。

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