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物語作者

「物語」とは何でしょうか。私たちは映画を見て、「この映画には物語がない」だとか「この映画の物語は退屈だ」とか、しまいには「映画に物語は必要ない」などと言ったりします。しかしここで言う「物語」とは一体何を指すのでしょう。私たちは「物語」とそうでないものとを明確に区別することができているのでしょうか。もちろん「物語」は「時間」と同じように、また「空間」と同じように、目に見ることはできません。にも関わらず、私たちはいつでも「物語」を欲し、「物語」を語ろうとさえします。「物語」は人間にとって、生命活動上必要不可欠なものにまでなっているのです。しかしながら、私たちが「物語」について多くを語ることができない以上、「物語」とは何かということを理解するのがとても難しい状況が続いています。ですから、「物語」について分析する必要があるでしょう。
哲学や社会学において「物語」という単語が使われる時、それは決まってネガティブな意味を含んでいます。「物語」とは現実を無視した理想主義的でご都合主義的な、歴史書と未来予想図とが合体したものであるというように。簡単に言えば、世界、つまり「自然の時空」は全くもって偶然的であって因果関係の組まれたものではないのにも関わらず、人はそこに「物語」を導入し、あたかもあらゆる自然の時空上の出来事が必然的に起こったものであるという風に、哲学者は「物語」を批判するのです。彼らがこのように「物語」という単語を使用することは、「物語」とは何かということを解明しようとする今日の私たちにとって非常に示唆的な事実であります。なぜ哲学者たちは「物語」に批判的か、それは言うまでもなく「物語」が現実を無視したご都合主義的なそれであるからです。現実は私たちのことを全く顧みずに動き続けるものである、このことが哲学者たちの根底にはあります。現実の複数の出来事には、確かに因果関係は(ほとんど)ありません。彼らが言う「物語」とは、物語にはあって現実にはないもの、つまり因果関係のことに他ならないのです。
ここで個人的な話をさせていただきましょう。私はここ最近に見た映画の中で、非常に感動した瞬間があります。それと言うのも、エリック・ロメールの『満月の夜』を見た時に、主人公の女がとあるダンスパーティに行くシーンで彼女がそこにいた見ず知らずの男と「いい感じの雰囲気」になり、また会う予定をする場面です。 ー彼女には彼氏がいるのにも関わらず!ー その男は帰ろうとする彼女に、「もう少しいようよ」とせがみますが、彼氏と同棲している彼女はそれができません。そこで男は、「明日夜7時に電話するよ」と言って彼女を返します。そしてその次のショット、翌日の7時、彼女が自分の部屋で電話をとるシーンにつながるのです。私はこの「物語り」にいたく心を動かされてしまいました。なぜでしょうか。この私の感動の原因を辿るには、似たような感動を覚えたほかの瞬間を参照してみることが重要です。記憶を遡ってみましょう。そうするとすぐに、ペドロコスタの『溶岩の家』の記憶が想起されます。主人公のマリアーナがカーポヴェルデ島に昏睡状態の黒人男性を連れてやってくる場面です。マリアーナは、島につけば病人の親族が迎えに来ると言う約束を聞いていました。しかしそこには親族はおらず、いたのは全く関係のない中年、あるいは高年の男性でした。彼女は男性に、病院はどこにあるのですか、と聞きます。すると男性は、島の反対側だよ、と応答するのです。次の瞬間、彼女は男性のトラックの荷台に病人と共に乗り、島の反対側へ向かうショットに続きます。他の映画も思い出してきました。ロベール・ブレッソンの『ラルジャン』です。ブレッソンが最もラングに近いた映画に他ならないこの映画にも「物語的」な瞬間が多くあります。私がこの映画であまりに興奮した瞬間をここに告白しましょう。主人公のイヴォンは銀行強盗に加担した罪で刑務所に入ります。彼は何度も妻に手紙を送りますが、そのうちに返事が来なくなります。それで気を病んだイヴォンは食事中に看守に暴力を振るい、独房に入れられます。彼はその独房の中で一日中、配布されている銀メッキのコップの端で部屋の床や壁を擦り不快な音を鳴らし続けます。興奮状態にあるとされたイヴォンは、毎日睡眠薬を投与されるようになります。しかし彼はその睡眠薬を飲まず、枕の下に貯めているのです。そして数十錠の薬の群が画面に示されると、次のショットでは元々イヴォンの房であった部屋のドアの下部にある隙間から光が漏れているのが示されます。その部屋にいる男が、外の騒ぎを聞いて窓の外を見るとイヴォンが救急車で運ばれているのが分かります。私が先ほど、ブレッソンが最もラングに近づいたと言ったのは、このシークエンスが『暗黒街の弾痕』の最も素晴らしいシーンによく似ているからです。この場面の画面構成はとにかく因果関係のある複数ショットによって成り立っています。しかしここで驚くべきなのは全てのカット割りが、次のショットが示されることによって前のショットの意味が提示されているということです。大量の薬のショットだけではこのショットの意味は分かりません(私の頭が悪いだけかも知れませんが)。しかし次のショットで、この薬のショットの重要性を私たちは理解することができます。ここではほとんどのカットの変化が因果関係のもとにあると同時に、後のショットが示されることによって前のショットの強さが示されます。『ラルジャン』という映画は、全てのショットでミステリー映画の伏線回収をしているかのような、非常に「物語的」な映画に他ならないのです。
このようにして「物語」の記憶を遡っているうちに、一つの大きな事実に気づくことができます。『満月の夜』や『溶岩の家』、『ラルジャン』、それに加えて想起された ーここで詳しく書く余裕はありませんでしたがー 『悲情城市』やグル・ダットの『渇き』(中島哲也ではありません)などの作品に共通するこの感動はすべて、古典ハリウッド映画を見た時の感動と等しいのです。『ラルジャン』がラングの『暗黒街の弾痕』を想起させるのは偶然ではないのです。ここで挙げた映画群と古典ハリウッド映画にある「物語」を語ることに対する感動は、複数の異なるショットが実は因果関係によってつながっているという事実に対する感動なのです。私がここで言う「物語」という単語の定義を確認してみましょう。物語とは、「複数の因果関係のある出来事の連なり」です。多くの言説によって軽蔑される「物語」や「物語ること」は、実際は映画において非常に重要な概念です。それは「物語ること」を軽蔑する論者が決まって称賛する「ショット」や「リズム」と同じくらい重要なのです。それがいかに重要であるかを証明してみましょう。カメラに記録された複数の時間的な空間 ーつまり時空ー を映画的にする(もちろんショットを繋げてしまえば「映画」にはなり得ますが、映画はそんな簡単に面白いものにはなりません。)のは、紛れもなく因果関係なのです。古典ハリウッド映画の光が美しいとき、それはその主題 ー例えば女優のクロースアップー と光という自然が因果関係をもって共存しているからだし、カメラワークが美しいとき、それは私たちの(作者によって強制された)視点が完璧に主題の感情に沿うように動くからです。またセリフが美しいとき、それそのセリフの発話者が、まるで元から作家によって考えられたセリフを口にしているかのように感じるからだし、編集が美しいのは、全く別の時間に撮られた複数のショットがあたかも連続した時間であるかのように存在しているからなのです。映画において、因果関係を持っているものはすべて美しいと言っても大袈裟ではないでしょう。だから私の定義で言う「物語」は、無条件に美しいものであるのです。
ホークスの『コンドル』が人を興奮させてやまないのは、それが紛れもない「物語る」映画だからであって、ショットが美しいからでも演出が素晴らしいからでも何でもありません。鈴木清順の『野獣の青春』が美しいのも同じ理由からです。
物語作者がするべきことは、「物語ること」の美しさを網羅することです。その美しさは、素晴らしいショットを撮り、素晴らしい編集をし、素晴らしい演出を施し、素晴らしいセリフを書くことと同じで、現実には偶然的であって因果関係のないものに、因果関係を導入したことの美しさです。そうすることで私たちは、古典ハリウッド映画のような「物語が進むこと」の快楽を享受できるようになります。
物語とは混沌が秩序へと変貌する一瞬の夢のような光景を捉えたものに他ならないのです。

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