Shin-Tom@療養生活

1回死にかけて、戻ってきました。とても幸運なことで、自分でも悪運の強さ(?)にびっくり…

Shin-Tom@療養生活

1回死にかけて、戻ってきました。とても幸運なことで、自分でも悪運の強さ(?)にびっくりしていますが、死にかける以前の状態には戻れませんでした。何かと制約の多い、その状況をマイペースで受容しようとしていますが、そう簡単なことではないということを身を以て経験しているところです。

最近の記事

「大衆的検閲」? 商業主義とディティールの逸失

桐野夏生の岩波『世界』(2023年2月号)への投稿が話題になっている。その中で、桐野はわざわざ「大衆的検閲」なんて言葉を使っているが、言わんとしてることの核心は、文章を読む人の、物事や人間への解像度が粗くなり、読解力・理解力を欠如した人やその能力が低い人も表に現れて、炎上処理のコストもかけたくはない出版社が商業的都合優先するようになり、作家が書きたいことを好きに自由に書かせてもらえなくなり得ることへの危惧の表明だろう。 現実の物事や人間存在は、従来までと比べ物にならないほどに

    • すっかりnote、見るだけになっちゃったな。ネタがないわけじゃないはずなんだが、うまい具合に自分の中でまとまらない(意識してまとめようともしてないが)。 ボヤーっと自分の考えてることをいい感じにひとまとまりの形にしたいとは思うのだけど。

      • 買い物難民

        玄関から徒歩1分に再び復活した我が家の冷蔵庫…になるはずだった新規開店スーパー。お目当ての生鮮食品の売り場スペースが極小で、取り扱い品もこちらの想像を越えて最低限以下。開店早々なのに、今回も撤退は時間の問題だなと感じざるを得なかった。 出店にあたっての地域調査の結果(高齢者しかいない、新しいものに興味がない、購買力がない)に対して、資本の論理から在庫管理が難しいものは置かないという経営判断、リスクヘッジなんだろうが、実際にその、ここまで来たのかという貧乏たらしい光景が目に入

        • 攣りそうなところは温める…病院で看護師さんに授かった知恵。実際、今、助かっている。

        「大衆的検閲」? 商業主義とディティールの逸失

        • すっかりnote、見るだけになっちゃったな。ネタがないわけじゃないはずなんだが、うまい具合に自分の中でまとまらない(意識してまとめようともしてないが)。 ボヤーっと自分の考えてることをいい感じにひとまとまりの形にしたいとは思うのだけど。

        • 攣りそうなところは温める…病院で看護師さんに授かった知恵。実際、今、助かっている。

          Twitter、今日はまだAPIの限度には達してないようだ。まぁ、正常化したんだとしても、愚か者が牛耳っているようなところはもう長くはないのではないか? またいつ愚か者の気分ひとつで制限させるかわからないし。あ、ここの大将がまだどんな人物か知らないや。そのうち、わかるだろう。

          Twitter、今日はまだAPIの限度には達してないようだ。まぁ、正常化したんだとしても、愚か者が牛耳っているようなところはもう長くはないのではないか? またいつ愚か者の気分ひとつで制限させるかわからないし。あ、ここの大将がまだどんな人物か知らないや。そのうち、わかるだろう。

          しかし、このnoteというのも「見つける」のカテゴリーからわざとらしく、いかにも炎上しそうなトピックは外してて、それはそれで、事勿れ野郎が運営してるサービスなんだなぁと思うなど。 まぁ、「建設的」「クリエイティブ」「ポジティブ」でなければ人にあらず、ってか?

          しかし、このnoteというのも「見つける」のカテゴリーからわざとらしく、いかにも炎上しそうなトピックは外してて、それはそれで、事勿れ野郎が運営してるサービスなんだなぁと思うなど。 まぁ、「建設的」「クリエイティブ」「ポジティブ」でなければ人にあらず、ってか?

          何かの話題についてハッシュタグなどを検索して不特定多数の見解とか知恵を拾えるというのがTwitterを使う理由であり、良さであったわけだが、APIのアクセス回数制限はそこを狙い打ちでスポイルしてしまって、もはや致命的。

          何かの話題についてハッシュタグなどを検索して不特定多数の見解とか知恵を拾えるというのがTwitterを使う理由であり、良さであったわけだが、APIのアクセス回数制限はそこを狙い打ちでスポイルしてしまって、もはや致命的。

          ひとまずTwitterの代替にすることにする。

          ひとまずTwitterの代替にすることにする。

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          斉藤淳 伊藤剛 菊池誠 池田信夫 藤原かずえ 新田哲史 門田隆将(門脇護) 佐々木俊尚 東浩紀 たかまつなな 野村修也 石井孝明 有馬哲夫 タクラミックス スルメ 池内恵 上念司 細谷雄一 阿比留瑠比 小菅信子 山口貴士 林智裕 柴田英里 平裕介

          「自由」と暴力

          社会的に自分よりも力の劣る者を上から押さえつけ、自分の思うがままに消費の対象にするのは明らかにひとつの暴力の形と言って良いだろう。 いわゆる「表現の自由」戦士という呼称は、彼らの言う「(表現の)自由」が、本来的に憲法で保障されるような、基本的人権としての自由でないがための揶揄である。 彼らがそのために戦っている「自由」とは、まさに冒頭に書いた、社会的弱者/マイノリティーに対する暴力を俺たちに振るわせろ、という「自由」の要求であって、そんな上から下に向かう自由が社会的に認められ

          「自由」と暴力

          アラート

          まぁ、しかし、塵のような、こういう出来事(鳴り響くだけのアラート)が人々の経験に記憶され蓄積されていくと、ボディブローの如く、まともに思考するスタミナを削って、とにかく「敵国」をこの世から消し去りたい、というふうに個々の人々の欲望は収斂されていくのだろう。国防という題目に都合良く隠れつつ、あくまで一人ひとり自分の心地良さを最優先した極私な動機でもって、それを阻害するものが世界から消滅することを本気で熱望し始める。戦争は実質的にそうやって個々の願望、大願が集まって始められるのだ

          なんとか生きてるのに、不愉快なことが多い。

          なんとか生きてるのに、不愉快なことが多い。

          表現

          「存在を脅かされる経験」「多数からその存在を蔑ろに扱われる経験」というのはそんなに想像し難いのだろうか? もし、こういうことでPTSDだったら、不特定多数の人前に出るのは相当しんどいはずだし、その傷口にこれでもかとまた塩を塗り込み、烙印を重ね押ししてくるものが普通に公の目に入る場所にあったら。 そして、自分の表現したものがまさにその「もの」だとしたら。それでも、表現は自由だから、と知らんぷりし続けるのか。 自分の表現を大切に思っているなら、その意味はきちんと届くべき人に

          本来の3分の1の入出力。できることが限られる。

          本来の3分の1の入出力。できることが限られる。

          信教の自由

          何かを信じるということを個人だけで行うなら、それは「内心の自由」の範疇であり、何人もそれを犯してはならない。つまり、組織団体結社を通さない純粋な個人による「信教」は、どこまでも自由ということになる。しかし、何かを信じること、「信教」「信仰」を組織団体結社を通じて行うなら、そこには当然、社会関係が生まれ、また当然、社会的行為と見做される。それゆえに「信教の自由」は「内心の自由」の範疇を外れ、その社会の秩序の範囲においてのみ保障される。

          考えごと

          誰かが自らすすんで愚行権を行使することで、選択の余地のない事情を強いられて同様の行為をせざるを得なかった別の誰かがその行為に関わる被害を被っている時、前者の(あえて愚行を選択する)自己決定の権利行使は、あくまで間接的にだが、後者(他者)の生存の権利を大幅に脅かし、さらには毀損しており、社会的な公序良俗の観点から抑制されるべき対象になるのではないか。そして同時に、被害を被り、生存の危機に瀕している者に対しては、その直接的な加害を阻止し、何らかの救済手段が早急に取られるべきであろ