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大人になれば 08『さようなら・夏目漱石・わが星』

春ですね。
春はさようならの季節です。

社会人になってからは「さようなら」の季節をあまり感じなかったけれど、門前で学生の友人ができるようになってからは少しだけ感じるようになった。彼ら彼女らは春になると新しいどこかへ向かっていく。

でも、ぼくも学生だったときの「さようなら」とちがうのは、なんだかつながっているという気分。
SNSの存在も確かにあるけれど、それよりは同級生という枠でつながっていた学生時代と比べて、門前での友人はその人自身とのつながりだからだろうなーなんて思ったりする。そんなことをぼんやりと考えている自分に気づき、春だなーって思う。少しさみしいけれど、またいつかどこかで会うのが楽しみです。みんな元気でね。

そういえば、以前なにかの雑誌で作家十数人が「美しいと思う日本語」について書くという特集を読んだ。いろんな作家がさまざまな言葉を挙げていたが、ぼくが一番印象に残ったのは椎名誠が挙げていた「さようなら」だった。確かに「さようなら」はどこかセンチメンタルで、何かしらの美しさがある。夜空に光る月のように。

月といえば、夏目漱石は「I love you」を「我、なんじを愛す」と訳した学生にむかって、「そういうときは『月が綺麗ですね』くらいでいいんだ」と言ったという逸話がある。どうも本当にそう言ったかどうかは怪しいらしいが、ぼくはこの話が好きだ。なんというか、当時の気分や夏目漱石の人柄が偲ばれる。

さらにいえば二葉亭四迷は「死んでもいいわ」と訳したらしい。気持ちはわかる。そういうシチュエーションあるものな。リアルだ。
現代のぼくたちは「あいしてる」と言ったり、言えなかったり、「月がきれいだね」と言って伝わらなかったりしている。時代が変わって言葉が変わっても、伝えたい気持ちはいつだって変わらない。それはいつだって日常の中にある。

夏海さんから貸してもらった演劇『わが星』(ままごと ・出演、三浦康嗣 出演・柴幸男監督)のDVDを観ていたらこんなことをつらつらと考えてしまった。

この演劇は説明がむずかしい。台詞をラップでやっていたり、音楽を効果的に使っていたり(□□□だ)、宇宙と家族という永遠と刹那を交差させたり、主役や個人が存在しなかったり(とぼくは思った)と特徴はあるのだけど、なんていうんだろう、ぼくはもっと「全体的な感じ」を強く思った。音楽のように。

音楽でいえばグルーヴというのだろうが、ぼくはその言葉に詳しくないので「うねり」と言ってみる。
登場人物たちは相手にむかって言葉を放つ。ラップのリズムにのって、くりかえし。言葉はループされる。それは感謝だったり、小さな人生だったり、家族との会話だったり。つまりは日常だ。
放たれた言葉はループを重ね、ラップのリズムにのって、永遠と刹那の反復の中で音楽的なうねりを生み出していく。うねりは波のように大きくなり、だんだんと明確な方向を示す。「終わること」についてだ。日常の積み重ねの先に必ず終わりがあるように。

うねりの中で放たれるのは何でもない言葉、何でもない日常。なのにぼくは圧倒される。終わりがあるからこその愛おしさ。日常であることの喜び。
後半、もはや放たれた言葉は誰に向けてではなく、うねりそのものになって舞台を突き進む。ぼくは圧倒されて、言葉の波に、想いの渦に呑みこまれる。素晴らしかった。

ぼくたちは何でもない日常を生きている。何でもない言葉を交わしながら。「おはよう」「おやすみ」「すきだよ」「ありがとう」「さようなら」を積み重ねて。人生という刹那の中で。

執筆:2014年3月28日

『大人になれば』について

このコラムは長野市ライブハウス『ネオンホール』のWebサイトで連載された『大人になれば』を再掲載しています。


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