過去は常に現在からの審判に向かい合わねばならない。
この数十年、ずーっと蓋をして見ないふりをしてきたことが世界的なコロナ禍により、東京オリンピックを期に全部ぶち撒けられた感じ。
見ないふりを続けるよりマシなのでその点では良かったと思うが、やっぱり痛みを伴う。自分も加害者であり被害者である混沌さがより辛い。辛いが、この痛みは大人が引き受けなくてはいけない。
高橋源一郎の『ぼくらの民主主義なんだぜ』でこんな一節があった。
「慰安婦問題」に関して、この国では、「強制性」があったかどうかが議論になっている。またその裏側には、当時の社会情勢の中で「慰安所」の設置そのものは否定できないという考え方もある。だが、あるアメリカ人は、東郷にこう言う。建国の頃アメリカは奴隷制を受け入れていたのだから、歴史的には奴隷制は当然の制度だ、という議論は、今のアメリカではまったく受け入れられない。過去は常に現在からの審判に向かい合わねばならないのだ、と。
「過去は常に現在からの審判に向かい合わねばならない」
高橋源一郎『ぼくらの民主主義なんだぜ』
この一節は重いが、覚悟を決めて付き合うしかない。色々な言い分は出て当然だが、今の定規で過去を測る以上、痛みは前提になる。「今」の大人の責務だし、積み重ねるしかない。
その痛みは「ぼくたちは何者であるのか?」という問いそのもののはずだ。「今」のぼくから「過去」を見ることでしか解を得ることはできない。未来のぼくは今のぼくから作られる。
どれだけ無様だったり、メンツが潰れたり、正体がバレようと、子どもたちにツケを回すのだけは止める。それを大人の役割の最低限にする。そうしないと、恥ずかしくて「大人です」って言えない。
カッコ悪いのは仕方ないが、卑怯な態度、ダサい姿は見せたくない。見ないふりをしてきた自覚があるなら尚更。今は大人の意地の張りどころ。大人、踏ん張れ。
追記
東浩紀さんのツイートを見て、本当にそうだなあと思いました。
学校関係者にコロナ感染が出たから甲子園辞退とか言われたら、僕なら人生全体が嫌になるぞ。
「僕なら人生全体が嫌になる」
本当にそう思います。ぼくもスポーツには全く興味がないけれど、その気分はとてもよく分かる。大人のツケを若者に押し付けてどうする。大人、踏ん張れ。覚悟を決めろ。
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