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fictional diary#28 名前のない色

赤に近いような濃いピンク色、それとも、薄紅色、といったほうがいいのだろうか、見たことのない色の壁を、路地裏の奥でみつけた。建物はすこし古ぼけていて、中には人の気配がなかった。誰も住んでいないみたいだった。壁は所々にひびが入って、水の滴っている箇所もあった。そこかしこに、遠目で見ればわからないくらいの小さなほころび。狭い路地裏の奥、こんなに明るい色をした建物に住んでいた人は、一体どんな人だったんだろう。周りの家はどれも、土やクリームのようなありふれた薄茶色に染まっていて、そのうすい紅色はとても目立っていた。もしわたしがこの国に住むことがあったら、この建物に住みたいと思った。そんなことは一生ないとわかっていたけど、空想するのは自由だ。壁を水で洗い流して、ひびの入った箇所はペンキをあたらしく塗りなおす。窓際に白い鈴蘭の鉢植えを置いたら、壁の色にきっとよく映えるだろう。わたしは家の中、古い映画のオードリー・ヘップバーンみたいに、窓際で静かにギターを弾く。そんなことを考えながら、ずいぶん長い間、その家の前にぼうっと立っていた。足が疲れてきたから、町に戻って喫茶店でも探そうと、来た道を引き返すことにした。建物に背を向けて歩き出した。角を曲がる前、きっともう二度と見ることはない、その建物の不思議な壁の色を覚えておきたくて振り返った。名前のないその色を、目に焼きつけるようにじっと見つめた。


Fictional Diary..... in企画(あいえぬきかく)主宰、藍屋奈々子の空想旅行記。ほんものの写真と、ほんとうじゃないかもしれない思い出。