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2020年コロナの旅22日目後編:古都クラクフと煙のカーシャ

2020/01/07続き

クラクフ空港について早速、オブヴァジャーネックの店がいくつかあるのに気づく。

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オブヴァジャーネックとは、ベーグルの原型になったと言われるパンの一種である。諸説あるようだがオブヴァジャーネックはポーランドの中でもクラクフのユダヤ人街が発祥の地とされ、ポーランドからアメリカに渡った移民たちがそれをもとにベーグルを生み出したという。

私は京大にいたころ北白川にあるグランディールというベーグルで有名なパン屋さん(※抹茶チョコベーグルがおすすめ)に入り浸っていたことがあり、ベーグルにほれ込んで色々と文献を読んでいたことがある。そして常々、このオブヴァジャーネックというのはどういう物なのだろうと思いを馳せていたのだった。

ベーグルのマイブームは去って久しかったが、そんな記憶がよみがえって頓に嬉しくなる。早速少額両替して(※スウェーデンで現金が大量に余った教訓を生かした。結果的にポーランドはスウェーデンほどのカード社会ではなかったが。)買ってみた。2.5ズウォテなので、およそ80円か。

安い。スウェーデンの高い物価に苛まれた10日間を経て、本当に物価の安さがありがたい。アーランダ空港内のスタンドで同じものを買おうと思ったら300円はするだろう。味はゴマのついたプレーンなベーグルという感じで、単体では衝撃な美味しさというわけではなかったが、素朴で飽きの来ない印象を受けた。

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オブヴァジャーネックをかじりつつも、私にはある任務を遂行する必要があった。この日も実はSNSで知り合ったカーシャという女性と会うことになっているのである。まずは例によってSIMカードを至急調達する必要がある。スウェーデンのSIMカードは使えないので早速新しいものを空港の売店で買う。5ギガバイトで300円である。ポーランド、安い。下手したらタイより安いおそれも出てきた。

物価の安さが垣間見えてホクホクしながら空港のすぐ外のバス停へ。グーグルマップで宿への最適ルートを探す。バスはもうバス停に停まっていた。

SIMカードの質はなかなかよく、サクサクと画面が推移して最適ルートが表示される。と、そこまではよかったのだが、バス停にある券売機で乗車券を買おうとするも、カードが使えず購入手続きができない。こまってバスの中にある券売機を使おうとするもこちらもカードを受け付けてくれない。バスの中に入ったり外に出たり繰り返してひとしきりおろおろしたが、カバンの奥底に眠っていた予備のデビットカードが奇跡的に使えたのでなんとか乗車できた。定刻を少し過ぎていたのだが、バスは私のことを待っていてくれたようで、私がチケットに点刻するとすぐに出発した。


車窓の外を流れていく景色は随分スウェーデンとは異なる。無機質な四角い建物と道路が整然と並ぶ街並みにはスウェーデンのような温かさがあまり感じられない。後で知ることになったが、その、空港から町の中心地までの間の住宅があるあたりは共産党が支配していた時代の遺物で、装飾などを廃しているため特に殺伐としているらしい。東欧の旧共産圏の国々の主要な都市は皆同じ構造で、スロヴァキアの首都ブラチスラバなど、旧市街もあまりよく保存されていないケースもあった。後にアメリカ人の写真家のスカイラとザグレブの街の周辺の殺伐とした団地地域に迷い込んだ時、彼女は

”I seriously fuck with the vibe(「この感じガチで良いわ。」.)”

と言っていたが、私には未だにあまり理解できていない感覚である。ある意味、異国情緒があることには間違いないが。


とはいえ中心街に近づくにつれてだんだんとにぎやかさが増してくる。街に活気がでてきて、クリスマスの装飾がまぶしい。ポーランドは敬虔なカトリックの国だが、民族的にはスラブ人であり、正教会の影響があるのかもしれない。今日、1月7日は、正教会におけるクリスマスの日なのである。

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最寄りのバス停について下車すると、国立美術館の前である。美術館の建物の正面に大きく下げられた垂れ幕にはレオナルド・ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」の絵が描かれている。高校の世界史の授業でなぜクラクフにこの絵が流れ着いたのかという顛末を習った気がするが、失念してしまった。とにかく、私のクラクフについての知識はこの絵があるということと、ワルシャワより前の首都であったということだけである。


スウェーデンとほとんど変わらない寒さに、ロングコートの襟を立てて肩をいからせて首元から顔まで覆う。日本では考えられないくらい暗い夜道を足早に歩いていると、道端に軍人たちの巨大な彫像があるのを見かけた。なんとなく旧共産圏っぽさを感じる。

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直にクラクフの旧市街にさしかかる。よく発達した路面電車の線路によって囲まれた、陸の孤島のような雰囲気の区画が昔のクラクフの市域で、今は北方にほんの一部を残すのみだがかつては城壁で覆われた典型的な中世都市だったという。


私はその城塞都市の慣れの果てを横目に見つつ、そのすぐ外側にあるはずのホステルにむかうべく路面電車の線路沿いに歩く。市域の周りを4分の1周もしたところでグーグルマップの赤いピンの場所に着くが、どうも建物が見当たらない。ホステルがあるはずの場所には、全く違う名前のレストランがある。辺りをウロウロしながら入り口を探すが、一向に見つからない。カーシャとの待ち合わせの時間が気になってくる。


結局、ホステルの場所の謎を解くのに10分ほどかかってしまった。先述のレストランの建物の中に入り、中の階段を上っていくと4階がそのホステルになっていたのだ。


中に入ると非常に温かい。ヨーロッパの人はいつも日本に来ると断熱のお粗末さに愚痴をこぼすが、それも納得がいく。屋内ではコートを着ていると暑い。それもエアコンではなく、断熱と温水か温められた油か何かが流れるヒーターのおかげなのである。だからエアコンのように過剰に空気が乾燥しない。


受付の前の広々としたロビーの床にはビーズクッションや、それらに合わせた低い机などが配してあり、くつろげるようになっていた。2人の男が離れたところでそれぞれ真剣な面持ちでスマホをいじっている。あまり社交的な雰囲気でもないので特に挨拶もせず受付へ。

これも後でわかることだが、ヨーロッパのホステルには大きく分けて2種類ある(※私はヨーロッパの国全てに行ったことがあるわけではないが、他の旅人たちから聞いた話も含めるとヨーロッパ全域に言えることのようである)。「パーティーホステル」か「それ以外」か、だ。日本人がイメージするホステルはだいたい「それ以外」の方に属する。一方、パーティーホステルというのはその名の通りパーティーに狂いに行く場所である。その中でも就寝空間は静かなところと、寝室すらもアヘン窟のようになっているところがあって面白い。また、季節によってもパーティー度合いが異なり、概して冬は熱量が低いらしかった。さて、このPillows Party Hostelというホステルは、名前とは裏腹に、少なくとも今は賑やかとは到底言い難い。パーティーホステルは、私のような小心者は入るのにも少し緊張するのであるが、その点このホステルの閑散とした雰囲気は空の旅で疲れ気味だった私にはおあつらえ向きだった。


受付には、ビッグバンセオリーというコメディドラマのシェルドンという登場人物に似たひょろ長い印象の若い男性が立っていた。シェルドンというキャラクターの知能が高い設定に影響されてそのように感じただけかもしれないが、彼の英語は非常に流暢で、理知的な感じの人物だった。女性的な感じもしたが、それもシェルドンを演じたジム・パーソンズが同性愛者であるから、それが投影されたのかもしれなかった。


案内された部屋の扉はびっしりと落書きがされていて、パーティーの余韻を感じさせる。

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中に入ると8人部屋で、こもった空気は、風邪で何日も風呂に入っていない時のような、いかにも不健康な体臭で満ちている。私のベッドの隣には若い男が寝ており、時折咳き込んでいた。実際風邪か何かでシャワーも浴びていないのかもしれなかった。


荷ほどきをしているともう一人男が入ってきて、寝ていた男をたたき起こす。
「行くぞ。」
「え?ああ、もうそんな時間か。」
これから一時的に同居人となるらしきこの2人に軽く挨拶をする。彼らはイタリア人で、ヨーロッパを旅行しているという。寝ていた男の方に体調は大丈夫かと聞くと、しばらく寝たのでせっかくだから街の見物に行くという。気を付けられよと言い荷ほどきを続けるが、どうもその後の協議の結果、やはり具合の悪いほうの男はベッドに残ることにしたらしい。


カーシャとの待ち合わせがあるので、身支度を軽く整えてホステルを出ることにする。去り際に相変わらず壁に向かって咳き込み続けている男に声をかける。
「おい、大丈夫?なんか帰りに買って来ようか?」
「いや、大丈夫。ありがとさん。」
重厚なコートを羽織って、カーシャとの待ち合わせ場所に向かう。クラクフの旧市街の広場にある「Eros Bendato」の前とのことだった。それが何なのかは分からないが、グーグルマップにその名を入力してピンが表示された場所へ向かうと、教会の鐘楼のような塔の前に巨大な男の頭が転がっている。それは銅像なのであったが、夜の闇の中で興味深い美観を呈していた。カーシャはなかなか現れず、私は寒空の中20分ほど立ちっぱなしで体が底から冷え切ってしまった。遅れて現れた女性は、身長は175センチほどはあっただろうか。黒いロングコートを着て栗色の長い髪の毛を風に靡かせた歩き姿が格好良い。しかし近づいてみると、面立ちには小動物的な愛らしさがあった。


カーシャは遅れてきたことに関して悪びれることもなく、流暢な日本語で
「はじめまして。」
と言って軽く会釈した。こちらも四半世紀の日本生活で五体に染みついた習慣で反射的に「はじめまして。」とお辞儀をした。


カーシャは日本学の学生で、日本語がとても上手だった。私は久しぶりの日本語の会話に少しどぎまぎしながらも、彼女の言語能力に感心しきりだった。


カーシャはいくつか店に連れて行ってくれたが、どこも閉まっているか満席である。「ポーランド人は日本人と違ってレストランに入るのに並んだりしないんだよ。」とはカーシャの言である。たしかに京都と違って、クラクフの街には行列は一つもなかった。ビエドゥロンカというスーパーの開店を待つ人々がまばらに店の前に散在している、というのがもっとも行列に近い現象だったように思う。


結局、カーシャも行ったことはないが気になっていたという店に入ることになった。温かい店内にほっとして上着を脱ぐ。こ洒落た店だったがボーイが来ないので、私がカーシャの上着を預かってコート掛けにかけた。真っ黒なコートの下は、くすんだピンクのセーターと、スキニージーンズという出で立ちだった。彼女は、日本の女の子だったらデートにジーンズは履いてこないよね、と笑った。


席に案内され、カーシャに地元のおすすめは何か聞いてみる。
「ピエロギがいいんじゃない?」
ピエロギとは、ロシアでいうペリメニであり、ラヴィオリなどとも類似する、いわば洋風の水餃子のようなものである。
私とカーシャはお互いにピエロギと、アペロールを1杯ずつ頼んだ。
料理がくるまでカーシャと色々な話をする。なんでも彼女のお父さんは植物学者で、なんと秋篠宮殿下と共同で研究をしていたこともあると言う。カーシャ自身の日本に関する関心もあり、お父さんが学会の発表で京都に来る機会に1度ついていったらしいのだが、その際、カーシャが日本学を学んでいるということを聞き及んだ殿下が直々に
「よければお話してみたい。」
と仰せになったらしい。カーシャはそんなわけで秋篠宮殿下と10分ほどお話しすることになったという。
「気さくで、お優しい方でした。」


アペロールで乾杯する。甘くて苦いこの酒は、ウィーン時代、イェーガーマイスターに次いで私のお気に入りであった。イェーガーが好きだったのは、ショット瓶で飲み比べの対決をするのが好きだったからで、味は断然アペロールの方が好きである。


そのうちピエロギも運ばれてくる。見た目は水餃子そのもので、玉ねぎを飴色に炒めたようなものが上に乗せてあり、彩りにパセリが振られている。

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食べてみるとしかし味は餃子とは似ても似つかない。これは水餃子にも言えることだが、皮が厚いので小麦の感じが強い。タネは肉と玉ねぎがベースのようである。
「美味しいね。」
「そうでしょう。私、水餃子よりピエロギが好き。」
私も、ピエロギの方が好きだ。というか、私は餃子が苦手である。子供のころ食べた母親の餃子があまり好きでなかった。長じて冷凍食品の餃子を食べたときはそのおいしさに感動したものだったが、未だに好物とは言えない。その点、ピエロギは見た目こそ餃子的で幼少期の苦手意識を蘇らせておきながら、味が全然違うので良い意味で裏切られる感がある。


ピエロギは見た目よりも腹にたまる。一皿に乗った10個を食べ終わるころにはかなり腹が膨れていた。食事が終わってアペロールをもう一杯飲みたいところだとこぼすと、飲みなよ、という。
「うん、飲みたいには飲みたいんだけど、予算もあるからね…」
「心配しないで。ポーランドは物価が安いからどうせ高くならないよ。」
確かに今まで見てきただけでも物価はかなり安そうだった。しかしそれは節約できるチャンスであるということであって、スウェーデンや日本であれば使っていたであろう金額に到達するまで遊んでいいということとは捉えたくない。ここまで読んできて頂いた読者の皆さんはもうお分かりかもしれないが、私は貧乏性なのである。
「うん、まあ、ともかくもやめておこう。」
我々はお会計を頼んだ。やはり、それなりにお洒落な店なので一人1500円くらいはする。確かにスウェーデンで同じ体験をしようと思えば2倍は払わなければならなかっただろうが、安いということもない。カーシャも、1000円は超えないと思っていたという。クラクフの物価も上がっているのだろうか。


割り勘で支払いを済ませてカーシャのコートをとり、袖を通させて自分のコートを羽織る。再び二人寒風の中へ踏み出す。
「お酒飲みたい?」
カーシャが聞く。
「うん、実は是非とも飲みたい。さっきのお店は高そうだからやめといたけど、アペロールでもやりたいな。」
「コウスケは旅人だから節約しなきゃね。じゃ、私がいつも行ってる、大学生が集まるバーに行きましょう。」
なんでもそのバーは、音楽やダンスなどを学ぶ学生たちが夜な夜な集まって大騒ぎするところなのだと言う。話を聞くだけでわくわくしてくる。ぜひそこに行こう。


カーシャが案内してくれたバーはDymという店で、彼女は店先でタバコを吸っていた数人と抱擁を交わし挨拶する。

店内は話に聞いていたよりも整然とした印象だったが、黒の混ざったような水色を基調にとても趣味のいい調度がしてあった。私はカーシャに誘われるままにカウンターの一番奥の席に座る。働いている人たちも全員顔見知りらしく、一通り挨拶して私を日本から来た友人として紹介してくれる。
「ちょっと期待させすぎちゃったかな。今日は割と静かみたい。」
「そうだね。でも雰囲気がいい。静かなほうが話しやすいしね。」
我々はそれぞれビールをもらう。
「ポーランドの女は日本人の女の子みたいにかわいくないから、男と同じくらい飲むんだよ。」
と言ってカーシャはビールを呷る。確かに良い飲みっぷりである。私も酒にはめっぽう強いのだが懐具合が心配なのでジョッキのビールをちびちび啜る。

程なくして大勢の客がなだれ込んで来た。凄まじい熱気である。新しく入ってきた客たちとすでに飲んでいた客たちはお互いに情熱的に挨拶を交わす。

カーシャの仲のいい友達も入ってきて、我々をはさんで座った。私の隣に座ったのはアリヤという赤毛の女の子で、カーシャの隣にはその彼氏が座る。バーの空気は途端に熱を帯び、大騒ぎとなる。


私とカーシャには、オクタヴィアという小柄な女学生と、トムというひょろ長い男子学生が給仕してくれていたが、トムは音楽のボリュームをあげようと言って裏に消えていく。程なくしてバー内のスピーカーの音量が上がると、客たちの間で歓声が起こる。年よりめいたことは言いたくないが、このような若い熱量にさらされるのは学生時代ぶりだった。


カーシャは煙草を吸うと言って、数人の友人たちを伴って外に出ていった。そういえばEU内では屋内の喫煙が全面的に禁止されていると聞く。カーシャもアリヤもタバコを吸いに出て一人になったので、バーの中の様子を改めて観察する。

カウンターに飛び乗って踊る者がいる、ギターをかき鳴らす者がいる、また、男の膝に乗って流れている曲にあわせて和声を即興する女がいる。その時かかっていたのは、エステルとカニエ・ウェストのアメリカンボーイという曲。美しい旋律に鳥肌が立つ。


我々に給仕してくれていたトムも、その瘦身からは想像がつかない声量で歌を歌う。声の出し方が素人ではない。オクタヴィアに話しかける。
「トムは声楽をやってるの?」
「うん、歌うまいよね、彼。」
「本当に感動するほどうまいよ。オクタヴィアは何を専攻してるの?」
「私も音楽なんだけど、器楽専攻でヴィオラやってるんだ。明後日コンサートあるから、よかったら来てよ。」
私はクラシックの楽器のコンサートが大好きなので、是非とも行きたいと伝えた。


カーシャは程なくして戻ってきた。タバコ臭くてごめんね、という。たしかに少し煙草の匂いがする。それに私はその匂いが好きではない。しかし私は、日本の飲み屋と比べたら全然ましだよ、と言った。それは気を遣ってそういったというよりは、まったく本心であった。

私の古い友人であるフランス人の松ちゃんは、幼少期からおぞましい量のタバコを吸って声も幾分ハスキーなのであるが、日本の、屋内で副流煙が充満した空間には耐えられないという。


その後もカーシャは度々タバコを吸いに外に出たが、ある時、
「せっかく来てくれたのに何回も煙草に出ちゃってごめんね。ちょっと中毒かもしれない。」
と言って笑った。私は、何を気取っていたのか今となっては分からないが、次のように答えた。
「大丈夫だよ。君の人生は君のものだ。したいことをしたらいい。」
すると、カーシャは不愉快そうに顔をゆがめ、多少は冗談めかしつつも
「それさーいてい!私が一番嫌いな言葉!私なんてどうでもいいんだって言ってるのと同じじゃない?」
と言って出ていった。私はしどろもどろになって、いや、気にしなくていいというのを強調したかっただけで…などと取り繕おうとしたが後の祭りのようだった。

タバコを吸い終えると彼女は戻ってきたが、もう行こうという。外に出ると、そろそろ家に帰らなければならないというので家まで送っていこうかと提案すると、
「本当に近いから、大丈夫。」
ときっぱりと断られた。

その夜そこで道を分かってから後は、テキストでも返事がまばらにしか返ってこなくなり、ついに全く返事がなくなった。後日オクタヴィアのコンサートに一緒に行かないかと誘ったが返事がなく、一人で行ってもオクタヴィアとしても知り合いの知り合いよりも薄い関係の人が来ても反応しづらいかなどと考え、行かないことにした。


Dymは私が人生で訪れたバーの中でも最高のものの一つであり、そこで目にした若者たちの宴の鮮やか光景は今でも鮮明な愛すべき記憶だが、その後クラクフに滞在中は近寄りがたく感じた。


宿に一人戻ると、部屋の電気が消えて真っ暗である。咳の音を頼りに自分のベッドに辿り着き、ふかふかの掛け布団をかぶって寝る。


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次回予告

2019年12月17日に始まった私の世界旅行。1年越しに当時の出来事を、当時の日記をベースに公開していきます。

次回は2019年1月8日。フリーウォーキングツアーという概念との出会い。クラクフ、そして欧州における、ユダヤ人迫害の歴史。アレックスとの出会い。

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