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1985年の中国の話②

わたしがバレーボールの親善試合ではじめて中国、北京・上海を訪れてから36年が経った。
あえてはじめてと表現したのは、その後ビジネスも含めて、20回近く中国を訪ねている。

わたしはどういうわけか「中国体質」、何かよくわからないが、急に中国へ行きたくなるのも、この最初の中国訪問がとても印象的で刺激的な体験だったからだろうと思う。

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しかし一方で、この時一緒に旅した友人たちは皆「今回の一回きりで充分」とか「どうせだったらハワイの方が良かった」・・・、
 今とは違い「行きたくてもいけない、近くて遠かった中国旅行」の評判は友人たちにはいまいちだった。

馮利

一週間以上の滞在だったので、その間何度か通訳が変わった。延べ10名くらいの北京大学生が入れ代わり立ち代わり我々の世話と通訳をしてくれた。
 その中でも印象深かったのは、馮利という女性
 彼女は北京大学で日本語を勉強する中でも最優秀な学生という評判を後から他の通訳から聞いた。

わたしたち一行はバスで何校もの学校を訪れてはバレーボールの親善試合を行った。
試合内容はよく覚えていないのだが、とにかくどこへ行っても大歓迎される。

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 皆親切で、握手の山々、お土産までくれるものだから、私たちも何か?と思って、リュックの中から持ち合わせた日本のグッズを手あたり次第渡しまくった。
「懐中電灯、カイロ、ビックリマンチョコ、靴下や軍手(みんな新品)などなど」日本だったら「失礼かな」と思うものまで、とりあえず方々で渡した。
 その反応は恐るべき、カイロを一つ渡しただけでも大感激してくれる。
通訳の馮利が「これはどうして使いますか?」ともらった本人の言葉を日本語に直してくれる。
渡した本人は「こうやって」といって、カイロを振って暖かくなるのを待つと・・・もらった中国人は「おーっ」と大感激
 これが面白くて、みんなカイロを方々で配りだしたのだった。
手を振って別れたバスの中で、高校生は大爆笑「あんな安モンであんなに喜ぶ?」といって爆笑を続けていると・・・
 北京大学生の通訳馮利が一言「私たちは、今はとても貧しいです。日本の文化にあこがれています。でもこれからはもっと勉強して強い国になります

 真面目にいうものだから、バスの中はシーンとしてしまった

楊紹

もう一人、男性で楊紹という人も印象的だった。
この人は最終日に上海空港までのバスの中で、最後のお別れの言葉をマイクで言った。
「私たちの国は眠れる獅子と呼ばれて久しい。」
ここで乗り合わせていた大人たちが失笑・・・楊紹は続ける
「今は日本の文化に30年遅れていると言われているが、この先5年で私たちは日本の10年、20年分の進化をすると思っています。」
大人たちは彼の言葉を冗談だと思って笑うものもいた。
中には「そのまま寝といてくれ」とヤジを言う大人もいた。

「通訳に応募した学生はみんな日本にあこがれて日本語を勉強しているが、今回初めて日本人に会うことができた。みんな大感激している」
と、からかい気味の日本の大人を横目に見ながら、喜びの言葉で締めた。

天安門

その4年半後、天安門で多くの北京大学の学生が、「自由化」を求めて戦い、多くの犠牲者を出した。
馮利や楊紹もその中に加わっていたのかもしれない。
あの事件の報道を見るたびに今でも彼らの顔を思い出す。

近年、わたしが単身中国へ行くたび、中国人のセラーから日本で見たことのないようなメカや道具を案内されてはビックリしている。
36年前にソニーのウォークマンにビックリしていた彼らの表情を今は私がやっている。

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