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獅子舞の大きさは富の総量に比例!?まちづくりの装置として獅子舞を再考する

獅子舞にとって最も重要なのは、どのような振る舞いをするか?ということだと思う。近年、獅子頭や胴体の部分は地域外に発注する場合が多いし、モノというのは借り物であって使う土地から湧き出るように出現したものではない。むしろその道具を使って、その土地で舞い歩くという段階になって初めて、芸能としての真髄が引き出されると思う。獅子舞の原点を考えた上で、獅子舞の身体性と街との関係性を分析。新しいまちづくりの方向性を獅子舞の舞い方から考える。

土地性に翻弄される舞い

獅子舞は元々、土地の自然との向き合い方の一つとして生まれたものであって、五穀豊穣や大漁祈願などの願いとともにあった。そこから発生する厄を鎮めるための芸能だったのだ。地域で暮らす人々にとって、その土地で安心して暮らしていける「心のよりどころ」としての役割を担う存在が獅子舞だったわけだ。

巨大化する獅子舞は、街の賑わいの象徴

獅子舞の振る舞いというのは千差万別である。「住民参加型」の獅子舞というのは、基本的に「関わり代」を増やしていくことに腐心するため、獅子舞の胴体を大きくしてより多くの人が獅子舞の演じ手になれるようにする。これが、山形県の置賜地方などでみられる黒獅子というタイプの百足獅子の一部に見られる。普通獅子舞といえば10人以下でおさまる場合が多いのだが、黒獅子で最大と言われる西村山郡朝日町宮宿の豊龍神社の豊龍獅子舞は長さ10メートル、幅4メートルの幕に5~60人が入る。黒獅子同様に、石川県や富山県に伝わる加賀獅子などの百足獅子も巨大であるが、このエリアは加賀藩の文化奨励策が元で胴体が巨大化して豪華になったものと考える。あるいは、長野県飯田市の大獅子は元々、農村部が養蚕で力をつけて祭礼に大型の獅子を登場させるようになり、それを戦後復興の文脈で中心部の祭りの目玉にしたという経緯がある。一方、獅子舞ではないが牛鬼という巨大生物を街中に出現させる愛媛県宇和島市などは、おそらく観光化の影響だろう。このように獅子の巨大化には少なからず、住民参加、文化政策、経済発展、観光化などの諸背景があり、総じて身体的な動きは小さい。土地に接続していくような感覚はなく、前の人の動きを真似て足を合わせるのがせいぜいである。町の経済的な発展は、祭りの賑わいとともにあり、同時に土地の自然や気候、風土などに鈍感になっていく。そのような傾向を感じざるを得ない。

土地と接続する技術を持つ獅子舞

これらの大型の獅子舞とは対照的に、三匹獅子舞やしし踊りなど、関東以北に数多く分布する一人立ちの形態には、土地に接続する地域の人々の技術のようなものを感じる。三匹獅子舞が数多く分布する関東平野は、水害に悩まされてきた。その水害を乗り越えるための「心のよりどころ」として、獅子が作られ、舞われるようになった。埼玉県戸ヶ崎の獅子舞は水門を切るために獅子頭をかぶり、周辺の村人を追い返したなどの逸話も伝わる。あるいは、栃木県の三匹獅子舞は神社への奉納が主であり、家を一軒一軒回る形態はほとんど見られない。獅子舞が途絶えても獅子頭の奉納を絶やさない地域もあり土地の祈りと接続するための術として獅子舞が伝承されていることがわかる。岩手県葛巻町まで行くと究極的に素朴な権現様という獅子頭の一形態が見られ、地域の小さな祠に獅子頭が祀られている。昔は獅子頭は鹿やらイノシシやら、動物の頭だったのだろう。それが簡略化され、今の獅子頭という長期保存が可能なモノへと移行した。ただし、その舞い方は伝承され続けているので、そこに原始的な動きとそれに関する真正性が存在するように思うのだ。宮城県から岩手県にかけて多く伝わるしし踊りの逸話によると、猟師が鹿の動く様を模倣したとか、鹿を供養する思いを表現したとか、土地のケモノ(自然)と接続していく知恵として獅子舞の動きが存在していることを感じさせられる。

巨大な獅子舞は、富又は助け合いの総量

ここまで獅子舞の身体的な動きがどれだけ土地性に基づいているか?を考える上で、体の大きさが重要な役割を担うという話を展開してきた。おそらく獅子舞の体が大きくなることと富が蓄積されることには相関性があって、お金は貯まるけど土地に対する感性が鈍る町の構造を象徴しているのが巨大獅子と言えるわけである。お金持ちが良いものをたらふく食べて、太っていくのと同じようなものだ。これはお金持ちというよりも「お金に頼る人」というのが正しいかもしれない。結局、助け合いの総量で幸せが作られるとすれば、一部が現金化されて一部が数値化されずに漂っているような交換経済のような曖昧なものであるくらいがちょうど良いのだと思う。そう考えると、獅子が巨大化する過程において、貨幣経済ばかりが浸透するのではなく、「地域民の助け合い」が意識されることは非常に重要であるように思う。そういう意味で、巨大な獅子舞が助け合いの装置となる可能性はある。

小さな獅子舞は、個人主義又は土地に接続する

一方で、獅子舞の体が小さくなればなるほど、身体の動きを個人でアレンジしていくことができ、各々の技能に注目が集まる。この身体的パフォーマンスにおいて、その動作の決定は個人の精神や身体的特徴といった元々持っているものと、その舞い場としての周辺の環境とがどのように接続していくか?という観点が重要になる。舞い場がもし観光客などの観衆が多い場合、もしくはそのような人々を求めている場合、より派手でニーズに合致した「魅せる」演技が必要となる。一方で、人気がなく自然ばかりのところか、あるいは地元民のみが見守る場合、暮らしの中から湧き出るような必要不可欠で切実さを伴う舞い方になると思う。それは穀物の成長を妨害する台風を切るような動きかもしれないし、あるいは歯打ちをして濁った空間を浄化するような舞いかもしれない。現在、観光による見世物化の問題が叫ばれているように、人々の暮らしと切り離されたところで文化が消費されていることが本当に土地の暮らしにとっての豊かさをもたらすかは再考せねばなるまい。そういう意味では、土地に接続していく舞い方をより意識することが必要だと思う。これはある意味「外に目を向けずに内側を磨くこと」という言葉と同義である。

新しい獅子舞の身体性

ここまで考えてみるに、新しい獅子舞が目指すべき方向性は、経済的に裕福で祭りが賑やかな町では獅子舞を巨大化させて助け合いの装置(人×人の掛け算)としていく一方で、小さくて自然豊かな田舎町は土地と対話するための装置(人×自然の掛け算)として小さな獅子舞を継続していくのが良いだろう。資本主義社会の限界が叫ばれ、自分ごと化されないつまらない町が広がる中で、獅子舞は町を面白くしていく装置として機能する可能性を秘めている。そのことをより多くの人に気づいてほしい。


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