マイノリティが「正欲」を読んだ

朝井リョウの「正欲」という本が話題だったので読んでみた。

本著のテーマを、マイノリティの中のマイノリティ、現代の「多様性」への疑問視として受け取った。

マイノリティとして社会的に取り沙汰されているジェンダーマイノリティ(=LGBTQ+)以外にもマイノリティはおり、マジョリティが作った社会に不適合というだけで、それ自体が絶対的に善か悪かという論点に裁かれないままに、生きづらさを抱えさせられてしまう当事者について、当事者目線で語られている。

衝撃はない

マイノリティ

同じマイノリティとして境遇には共感はするが、生きづらさまでを共感することはできなかった。そこまでの生きづらさだろうか、という疑問が常にまとわりついた。つい登場人物たちと距離を感じ、彼ら彼女らの苦しみに寄り添えない自分が冷徹な人間とすら感じる時間だった。

「そんな生きづらいか?」と思ってしまうのはなんでか。

自分軸で捉えてしまったから。

自分もマイノリティだから、重ね合わせてしまい、自分はそこまで苦しくはないという理由で、主人公たちの問題を矮小化してしまった。

他社の問題を自分事にとらえて矮小化するというのは、人間の過ちあるある。それが働いていることを認識し、共感はできないけどそれぞれに事情があるよねぇという感じで読み進めていた。

理性的に認知していることを、感情的に理解することを小説には求めることが多いが、そこができなかったことは、作品に物足りなさを感じさせた。

知識としてのそういうひとがいるっていう、事実ベースの情報は、巷に転がっているし、小児性愛や動物性愛なんかも、ジェンダーマイノリティの連想でそこまで遠くの世界じゃない。

動物性愛をテーマにしたノンフィクションが話題になったは2019年、4年も前のこと。


さらに、これまでマイノリティとして生きてきたために、本作の切り口にも特段新鮮さを感じなかった。

具体的にマイノリティ性を少し説明する。マイノリティと言っても色々だ、というのがこの作品のテーマでもあるから。

性的マイノリティが自己理解のために普遍的に利用されるフレームワークにSOGI(そじって読む)というのがある。

一般的にはSOGIって、LGBTのような、ある特定集団の呼称。
(詳しくは 日本労働組合総連合会 「LGBT」「SOGI(性的指向・性自認)」ってなに?

SOGIとは
SO = Sexual Orientation 性的指向
GI = Gender Identity 性自認
をくっつけて作られたことば。

「正欲」には、この二つのうちの性的指向(SO)のマイノリティであることで悩んでいる主人公が登場する。性的指向のマイノリティのマイノリティのマイノリティをわかりやすく明るみに出したことで、多くの人に衝撃を与えたらしい。

自分の立ち位置を説明するにあたり、超主観で、ざっくりと性的指向のマイノリティ度のグラデーションを表現してみる。

①マジョリティ:異性愛
②-1マイノリティ:同性愛・両性愛
②-2 マイノリティのマイノリティ:無性愛(アセクシャル)・全性愛(パンセクシャル)/多性愛(ポリセクシャル)など
②-3 マイノリティのマイノリティのマイノリティ:特殊性愛(小児性愛・動物性愛等)など

自分は②-2くらいに所属している。
そのため、②-3への情報的感情的アクセスが容易であり、この本で②-3に関するテーマにものすごく衝撃を受けるということはなかった。

自分のSOGI(特にGI)については別のnoteで書いてあったような。https://note.com/0602norihisa/n/n7ad0befe4d87

この本のレビューをみていて、「②-3の世界を初めてしった。」という感想が多いことのほうが正直衝撃をうけた。まじか・・・って。

自分にとっては当たり前のそこにいる感覚だったから、そんな影の扱いだったのか、と。

②-1 マイノリティのマジョリティですらツチノコ扱いで、「同性愛者は知ってるけど、周りにはいない」って発言が、まだ縦横無尽に飛び交ってることを考えると、納得できるが、世間との感覚的な乖離は凄まじい。

ついこの前、第三者からの提供精子を使った生殖補助医療を受けられるのは婚姻している夫婦のみに限るっていう法案が進んでいて、同性カップルファミリーなんて当たり前のようにいるのに、今更問題視して、医療の対象外にするという流れがあったり。

https://twitter.com/ono_hal/status/1724213573306720258?s=20


こうやってグラデーションを可視化してみると自分が本書のテーマで扱われるマイノリティに近い世界に位置していることを自覚し、一方ででマジョリティにとっての親和性が低いことを認識できた。

アセクシャリティ

自分の性的指向はクィア。②-2の「など」に含まれ、LGBTQ+の「Q+」に含まれるところ。対象は人間であり、ジェンダー的な観点でのマイノリティであることから、LGBTQ+に含んでもらえているし、社会的な居場所も確保されつつある。

性自認にも性的指向にもアセクシャリティを含みつつ、それ以上ピタッと示せる言葉はこの世に存在しないか、したとしても普遍的ではない。それくらいニッチに棲息してる。

マジョリティの異性愛からの距離によって、異常だという取り扱い方をされるとすれば、
この性自認でもあるし性的指向でもあるアセクシャリティが、②-3の世界への親和性を高めているんだろう。

だって、自分はアセクシャルであり、かつ好きなひとはアセクシャリティっぽいひとって、論理的に考えたら、恋愛や性愛の外にいる人間てことになる。

好きなたべものは、食べられないもの。

って答えてるみたいな。それじゃ答えになってない!意味わからん!って異常者扱いを受けてきたので、

「食べる」という概念を拡張して、目でみて食べるも「食べる」。空想で食べるも「食べる」。

というように、一般的な「好き」を拡張して、自分なりの「好き」で世間ズレを埋めてなんとなく適応している(理屈っぽいことは承知)。

わかりやすさをこれ以上追求できないことを反省しつつも再度要約すると、社会の当たり前から結構離れたところをうろうろしてるということ。

同性愛

そして、もうひとつ、ざっくりいえば同性愛者として生きている自分は、ある国では犯罪者として裁かれる。(遠くの同朋が今も死刑に処されているニュースを見るたびに悲しみを味わっている。)

法律とは絶対的な善悪なわけがないし、犯罪の定義が文化的なものであり、マジョリティが組織をまとめるために必要な、単なる線引きだることも身近な感覚としてある。

たまたま生まれ落ちた場所のルールに適合する性質を持っていて、犯罪者として扱われなくて幸運だったって、そう思いながら生きてきた。

悪とは、人単体ではなく社会とともに作り出すもの。

そのルールに適合せず持って生まれた性質が犯罪として扱われるとしたら、とても苦しくて、自分の性質に抗いながら生きていけるか確かな自信はないとも感じていた。

長くなったが、こういう経験があるために、「性的指向が人ではない」ということも、まぁあるんじゃないって、自然の摂理のように思えている。

マイノリティ性に負けない

自分のマイノリティ性にかこつけて卑屈になり誰もわかってくれないと諦めていたら、なんだか悲しいことがおきるっていうのは本著から感覚的に受け取れたことである。

マイノリティになっている事象(本著でいえば特殊性愛)がもつ社会不適合性よりも、その事象が「マイノリティとして迫害/差別される」ということのほうが、間接的にいろんな悪影響をもたらしていると思う。

同性カップルの家族だから子どもに影響を与えるのではなく、
同性カップルの子どもは育ちが良くないと考える周囲の偏見が、子どもに悪影響を与えている。というように。

当事者のほうからも自滅行動を取っていることはある。
隠し事をしているということから人付き合いを減らしたり、
普通と違うから劣っていると思い込んたり。

これもマジョリティの思考の押し付けが結構影響していて、
「普通は〇〇~」「~するのが普通」っていって、普通だから正しいという主張をよく耳にする。普通であることと正しさって別なはずなのに、その正しさの根拠に「普通」「マジョリティ」であることをもってくる。

論理破綻してるからマジでやめてほしいって思うけど、他人は変えられないので、自分ができることとして、マイノリティ性からくる悪影響を矮小化というか、最小化することは大事なのではないかと思う。

普通と違っているからといって劣っているとは思わないようにしたり、
隠しているのは嘘をついていることとは違うと割り切って人付き合いをやめない、とか。

いや、むずいな。

自分の身に降りかかるマイノリティ自覚がもたらす害悪とその対応について、もうちょい認知する必要がありそう。

人種差別感情とかも似てる。

差別される側という認識があるから、実際は差別的な言動じゃなかったとしても、そういう風に捉えちゃったり、差別されるのではと恐怖に慄いて自分の行動が制限されたり。

たとえばヨーロッパ旅行中に、レストランで風がびゅんびゅん吹く場所に案内され、ウェイターが全然来なくても、それが差別だと気づかずにいられるのは、ある意味幸せなことだったり。

とりとめもなくなってしまった。

ボンボヤージュ

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