見出し画像

「自分の世界の外側」

人にはそれぞれ自分の世界がある。
それは悪いことでも、良いことでもあると思う。


この間、姉と食事をしていた時のこと。

「街や電車に妊婦がめちゃくちゃ増えた。」
と言い出したのだ。

もちろん
急にそんなことが起きるはずはない。

妊娠した姉の中で、
世界への”認知”の仕方が変わったのだ。

言われてみれば
当事者でない私も確かに同じであった。
妊娠が身近になった私は、
電車や街中で妊婦を意識することが多くなった。

このくらいの大きさだと何ヶ月くらいかなぁとか、
この高さの段差大丈夫かなぁとか。

今までも視界には入っていただろうが、
接触することが無い限り、
脳を経由するほどしっかりと意識することは
少なかったように思う。

要するに、
人は、”無意識”に"認知"というフィルターをかけて
世界を見てしまっているのだろう。

そういえば『流浪の月』を観た時も
同じような気持ちになった。

ーーーーー
帰れない事情を抱えた10歳の少女と、
その彼女を招き入れた孤独な男子大学生。
居場所を見つけた幸せを噛みしめたその夏の終わり、
彼は「誘拐犯」、少女は「被害女児」となる。

15年後。偶然の再会を遂げたふたり。
それぞれの隣には現在の恋人がいた。
ーーーーー

世間からは”誘拐”、”洗脳”とみえる二人でも、
内情は全く違うかもしれない。

日常生活では
映画やドラマのように、
自分のいないところの世界が見えることはない。

相手の背景を想像しようにも
その想像も自分がするわけなのだから
もちろんフィルターがかかってしまうだろう。

そう、
部外者がどうこう言えるもんじゃないのだ。

かといって、
すべてをほっとけば良いということでもないし、
もちろん当事者が幸せならそれで良い
ということでもないとは思う。

自分も、相手も、
変動する認知という個々のフィルターを通してしか世界は見れない
ということ自体を常に意識していく。

そうすることで、
それぞれの”認知”が”個性”と思えて、
自分の世界の外側だったとしても、
色んな人との会話が
もっともっと楽しいものになると良いなぁ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?