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梶間和歌「東海道中膝栗毛戯作読者の不思議」 ― 三鷹古典を読む会2022年9月定例会を受講して ―

以下の文章は「三鷹古典を読む会」2022年9月定例会「東海道中膝栗毛」の回に参加された梶間和歌さんが、受けた後のご感想を文章にまとめてくださったものです。


人に何かを伝えるにも、自分の商品をセールスするにも、“相手目線”“顧客目線”が重要だ、
などといった言説は、いい大人であれば耳にタコであろう。
が、実践できている人が一握りであるからこそ、
そうした教えが繰り返し、形を変え言葉を変え伝えられるわけで。

例えば、想像してみてほしい。
見ず知らずの他人に

「あなたのことをこんなに、長いこと想ってきたのに、あなたは僕にまったく気づかない」
「僕はこんなに身を焦がしているのに、あなたはほかの男ばかり見て」

と言われて「まあ、そんな一途な想いを私に……」とときめく女子は、恐らく、いない。
まず「お前誰だよ」「知らんがな」となるし、
男性でなく女性であれば身の危険を感じて110番したくもなろう。

が、そうした“報われない”“やりきれない”、裏を返せば“身勝手な”おもいを抱いたことがないと言い切れる人が、果たしてどれだけいるか。

こうした案件、
相手に自分がどの程度認識されているか(または、いないか)、認識されているとしたらどのように認識されているか、
の冷静な把握のできていない視野の狭さがまず痛い。

相手にその程度の認識しかされていない自分という異性が、おもいの丈をぶつけた結果、
相手に与えるのがときめきか、それとも恐怖心である可能性のほうが高いか、
の判断のできないあたりも痛い。

想いを返してほしければ、想われて然るべき振る舞いをすべきであり、
商品を買ってほしければ、買いたいと思われて然るべきアプローチをすべきである。

こちらが勝手に想うだけ想って「相手は返してくれない、冷たい」となじるのは、
贈答恋歌の作法としてはありでも、現代の恋愛において尤もだと頷かれるものではない。
「こんなに頑張っているのに売れない」と嘆く店主やセールスマンがいるとしたら、
「結果につながる努力以外、どんなに頑張ったところで自己満足だよ」と言いたくなるだろう。

される側としては「やだ、気持ち悪い」「視野の狭い、大人げない大人だこと」と思えるのに、
いざ自分が想いを懸ける側や売る側になるとその痛さを地で行ってしまう、
それが我々凡人だ。

「愛する人に愛されないのは、俺の前世のおこないが良くないからだ。そういう運命なのだ」
と前世や運命で都合よく片づける前に、愛されて然るべき振る舞いをしろよ光源氏、

というその言葉を自分自身にも向けるべき場面がまったく一度もなかった人は、なかなかおるまい。

光源氏はまだよい。
彼は生まれも育ちも最上級、顔はキラキラのイケメン、あらゆる分野において才能に恵まれた、
性根こそ少々ひん曲がりはすれ、正真正銘の貴公子だ。
スーパーイケメン貴公子が多少調子をこいた発想や勘違いした発言をしても、
愛らしい子どもの失言同様、いくらかは見逃されるところがある。

ひるがえって、「こんなに頑張ってきたのに」と言う我々はいったいどれほどのものか。
貴公子でも令嬢でもモデル級美男美女でもない我々が光源氏並みの痛い事を言い出すならば、
その痛さはどこまで掛け合わせられることだろう。

……という前提で生きていると、
「三鷹 古典を読む会」2022年9月定例会で扱われた『東海道中膝栗毛』の主人公たちには、あまり優しい視線が向けられない。

ふたりの旅の始まりについてざっとさらうと、

・駿府の豊かな商家の息子、弥次郎兵衛が、
 夜をひさぐ旅役者、元服前の(のちの)喜多八に入れ込んで店の金を使い込み、
 田舎にいられなくなり喜多八と駆け落ちする
・江戸に出た弥次郎兵衛は喜多八を奉公にやり、自分は飲み仲間のあっせんで働き者の女房を持つ
・喜多八が勤め先の金を使い込み、身元引受人である弥次郎兵衛はその尻拭いの15両が必要になる
・訳ありの妊婦を腹の子ごと引き受けたら15両という話があり、
 弥次郎兵衛は芝居を打って落ち度のない妻を離縁し、金を手に入れるが、
 その女性を孕ませたのが喜多八だとわかる
・長屋仲間は弥次郎兵衛の前の妻と親しかったので、
 新しい妻が産気づいても弥次郎兵衛は近所に助けを求めることができず、
 弥次郎兵衛は彼女をお産で死なせる
・奉公先の乗っ取りを目論んだ喜多八がおかみさんに色目を使っていたとわかり、解雇される
・散々な流れの運直しにお伊勢参りに出発する

どこをどう切り取っても自業自得では、というところをすべて運のせいにして
「ついてねえな。お伊勢参りで運直しだ! 」
で物語を始めるのが、江戸時代の文学なのだろうか。

いや、確かに、ご都合主義がなければ物語は進まない、というならば、
江戸時代の戯作げさくよりずっと“文学”らしい先行作品にも例はある。

いくら若くて視野が狭いとはいえ、有力貴族の協力なしに政治がつつがなく進められると考えにくい状況で
恋愛感情のみを根拠に天皇が後ろ盾のない更衣を偏愛するようなことが現実的にあり得るだろうか、
と言い出したら、
いや、その設定が通らなければそもそも『源氏物語』は始まらない、ということになろう。

実家との縁の断ち切られた孤児である若紫の、光源氏の妻として強力なライバルとなり得る女性たちは、
若紫が光源氏と新枕を交わすにふさわしい年齢になるちょうどそのタイミングで、全員表舞台から退場した。
葵上は亡くなり、六条御息所は伊勢に下ろうと考え始め、朧月夜は朱雀帝の尚侍に、朝顔は斎院になる、という形で。

こちらは、桐壺帝の更衣偏愛よりは自然な流れだが、そもそも

“結婚しても(当時の価値観としては)何のメリットもない、実家と縁の切れた女性”が
主人公との愛や信頼関係のみを根拠に正妻に近いポジションを手に入れる

というストーリーに当時あまり現実味がなかったからこそ、ロマンスとして憧れられ、愛読された面はあろう。

……と見てゆくと、
『源氏物語』にだってご都合主義はある、物語とはそういうものだ、
といえばそうなのかもしれない。
が、しかし、程度というものがあるのでは……という気持ちは否めない。

比較対象が『源氏物語』となるとすべてが劣って見えるものかもしれないが、
江戸時代の作品には、読者としてその物語に入ってゆく前段階で抵抗感の生まれるポイントが多々あるように思われる。

「俺だって一生懸命生きているのに、こんな具合だもの、神頼みで運直しするしか」
と発想する主人公に対して
「えっと、“こんな具合”でない現実になって然るべく振る舞うという発想はないので……? 」
と突っ込む読者が少ないからこそ、当時こうした戯作は成り立ち、流行したのだろうか。
「自分にもそういうところがあるからこそ、人のそういう部分にも優しくありたいものだ」と、多くの人の心理は無意識に働くのだろうか。

私は
「人のそういう部分を醜いと感じるからこそ、自分も同じようについ自分中心に考えてしまわないよう心掛けよう」
とするタイプなのだが、
弥二さん喜多さんを形容する“ダメな奴だが憎めない”の“憎めない”の部分がどうにも腑に落ちない私は
人より特別潔癖なのだろうか……さて。

和歌さんがその発端に驚き呆れた「東海道中膝栗毛」、その講座の模様は、以下のnote記事にてアーカイブ配信されております。興味のある方は記事単独、もしくは、イヤーブックをお求めになってご視聴ください。
また、毎月「三鷹古典を読む会」は開催しております。興味のある内容の回に現地参加(三鷹)・オンライン参加(note)、ぜひお待ちしております。

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