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現代思想2023年8月号 特集=裁判官とは何か

興味のある分野が特集されていて嬉しい!
橋本先生が徳が高く、木庭先生が木庭先生でよかったです。

人が人を裁くとはどういうことか
司法の判断には客観性が想定される一方で、その職権は根幹に「良心」という主観的・属人的な概念を前提としている。また大量の判例や法令を高次に処理できる大規模言語モデルの登場により「誰が裁くのか」も急速に揺らぎつつある。本特集ではこうした両義性やゆらぎを踏まえ、裁判官という存在を通じて〈裁き〉をめぐる問いに臨みたい。

現代思想2023年8月号 
特集=裁判官とは何か-家庭から国家まで…法と社会のはざまから問う-



裁判と裁判官をめぐる幻想 / 瀬木比呂志

民事系裁判官を33年務めた後に大学教授に転身した、民事訴訟法学者による論考。

はじめに「裁判官・裁判の本質と役割等」がコンパクトに概観されており、特集の筆頭という位置付けとして親切な設計になっている。

その上で「裁判の神格化と儀礼・幻想の必然性」「儀礼の実際」「幻想の実態」について考察されているが、実定法の専門誌ではあまり見かけないので興味深い。
特に「幻想が制度論において有害なかたちで現れる例の一つに『裁判官の忙しさ』がある。実際には日本の裁判官は、国際標準からみても特別に多忙ではない」「真の問題は、日本の裁判官が、さまざまな意味で圧迫やストレスの多い環境で働かされていることにあり、忙しさは大きな問題ではない」「『裁判官たる者、常に忙しくあるべきだ。あってほしい』という幻想、願望が、反射的に、根拠・エヴィデンスに乏しいそうした言説を導いている可能性が大きいのではないか」(16頁)との指摘は、もう少し詳しく知りたくなった。『檻の中の裁判官 : なぜ正義を全うできないのか』『民事訴訟の本質と諸相』なども出版されているようなので、そちらも読んでみたい。

論考では、ケーススタディとして「岡口裁判官のTwitter等をめぐる問題」が分析された上で、結語として「裁判官・裁判所制度、それらのあるべき姿について考える場合には、まず、それらに関する実証的な事実を確定し、それに基づいた議論を行う必要がある」(19頁)と述べて、幻想や神話を解体する重要性を確認した上で、いくつかの司法制度改革について見解を示していた。


個別意見からみる最高裁判所裁判官――第一次夫婦同氏制違憲訴訟判決における寺田逸郎裁判官補足意見を素材として / 渡辺康行

「誰が裁判官であろうと判決は変わらない」という、アメリカ人研究者であるダニエル・H・フットの日本司法のイメージ(名もなく顔もない裁判官)に対して、裁判官の個人研究を行なってきた憲法学者による論考。

取り上げられるのは「寺田逸郎元最高裁長官の、とりわけ家族と憲法という領域における思考方法の特徴」(20頁)。通常の判例評釈でも、多数意見と補足意見の共通点と相違点を比較分析するが、寺田補足意見の背景や影響力について一歩踏み込んでいる点が面白かった。『憲法学からみた最高裁判所裁判官』の新作という感じだろうか。

ただ、筆者本人が述べる通り、寺田元判事は「最高裁退官後も、長官経験者という立場上、関与した裁判について語ることはきわめて抑制的」(30頁)であるなど、資料的な制約がある印象を受けた。泉元判事へのインタビュー(『一歩前へ出る司法 泉徳治元最高裁判事に聞く』)を敢行されている実績を鑑みれば、饒舌な裁判官を取り上げてもよかったのではないかとも感じた。他方で、特集全体として家族法やジェンダー法への関心が強いという印象を受けたので、夫婦同氏制違憲訴訟判決を取り上げたのは、多くの読者にとってありがたいのだろうと思う。


裁判官の良心と法律家共同体の責任――片親疎外論を素材に / 木村草太

「弁護士・検察官・法学者ら法律家は、法学部・法科大学院・司法研修所などで専門教育を受け、法律家の共同体の中で、お互いにその知見や業績を評価し合う関係の中にいる。裁判官もその一員として、法律家共同体の価値観や雰囲気に鋭敏に反応する。裁判官が、法律家共同体の中で高く評価された解釈論や、法律家全体の空気のようなものを取り込んで判決を書く光景は珍しくない」(34頁)とした上で、憲法76条にいう「裁判官の良心」と法律家共同体の関係を指摘する。
そして、アメリカ司法では、医学・心理学では否定された片親疎外論が法律家共同体に侵入してしまい、裁判官の良心に悪影響を与え、虐待の誠実な検討を歪めたという Meier の研究を紹介。「日本の裁判実務にとっても他人事ではない」と警鐘を鳴らしている。
これは、後掲の小宮・牧野対談の課題意識とも呼応しているだろう。

ところで、筆者は「法律家共同体の概念」について、(おそらく法学を専門としない読者にも配慮して)長谷部恭男『法律学の始発駅』を引用していた。そして、(本論考の主旨との関係では瑣末なので明示的には触れられていないが)法哲学者 H.L.A.ハート のいう法律家共同体は officials となっているので、大学に所属する法学者は対象外ではないかとの指摘もある。
この文脈において、本論考の註にて、樋口陽一「どう読み、どう考えたか 藤田宙靖『覚え書き : 集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について』に接して」『世界』883号(2016年)が「法律家共同体という言い方が閉鎖的なサークルを想起させることに配慮し、開かれた公共性を担う専門家集団としてこの言い方(引用者注:「法律家共和国」)を提案する」とされていることは、個人的には非常に興味深かった。ハート<長谷部<樋口という順に、拡大・開放傾向が見られることになりそうだからだ。

もっとも、筆者が「おわりに」でまとめたような、下記の論法をとれば、上記の法律家共同体/共和国の外縁問題は大きなものではなくなる。「裁判官の良心は、裁判官が個人で形成するものではなく、法律家共同体の影響の中で形成される。つまり、裁判は、その国の法律家全体の問題である。さらにいえば、法律家共同体の意識は、他分野の専門家や社会全体の意識に左右される。そうだとすれば、あらゆる分野の専門家、そして一般の人々が裁判の結果に影響を与えているということだ」(38頁)。


裁判官と「表現の自由」――沈黙強制からの自由と良心 / 志田陽子

裁判官の表現の不自由問題に関して、岡口基一判事の弾劾裁判を主たる対象として検討する、言論法・芸術法を専門とする憲法学者の論考。

必然的にSNSにおける表現活動も主題になるし、適正手続き、裁判所法49条にいう「品位」、裁判官の守秘義務、政治活動の禁止、国民の知る権利など、それぞれ重量級の論点を伴う概念が絡み合うが、簡潔明瞭に解説されていた。

ところで、法律を専門としない人々が疑問を抱きがちなロジックとして、萎縮効果論the last straw 理論がある。本論考で両者が紹介されていた。
前者は「その定義上、観察不可能で実証が難しい効果に対して、どれくらい保護すべきか?」という問いへのディフェンスが求められることが多い。後者については、分析哲学で議論の蓄積があるはずなので触れられてもよかったのではないかと感じる。ただ、紙幅の関係で厳しかっただろうとも思った。


国際刑事裁判所の裁判官――裁判所の独立と国際政治の狭間で / 竹村仁美

国際刑事裁判に関する概説。国際刑事裁判所・裁判官、裁判準則、裁判官の合意形成、独立性と国家との関係などについて、国際法学者が論じる。
国際刑事法は、学部時代にも勉強したことがなかったので、新鮮だった。

「超国家機関ではなく、主権国家の作った国際組織」であり、各国の「主権を補完する功利主義的組織」だからこそ、正統性が問われるし、司法の独立を堅持する必要があるとのこと(60頁)。

個人的に面白かったのは、国際刑事裁判で、裁判官は法律問題に関して個別の意見又は反対意見を表明できるという点。これに対する批判として、「第一に、判決に対する信憑性や権威に良い影響は与えないと考えられており、第二に、刑事事件の判決に対する反対意見はコモン・ロー以外の法体系の国では知られておらず、第三に、全員一致で意見を出していれば受けないだろう政治的圧力に晒される可能性を生じさせ、第四に、コモン・ローの裁判所に関する研究でさえ、全員一致が司法の正統性にとって最も重要な要素であることを示唆している」ことがあるという(57頁)。
第四の批判点である、全員一致と正統性についてもう少し知りたくなった。


性犯罪を裁くシステムと「常識」 / 小宮友根+牧野雅子

司法におけるジェンダーの問題について取り組んできた社会学者二人による対談。両者とも語りづらそうにしている雰囲気が印象的だった。
「これまで裁判官というものは、憲法で裁判官の独立が保障されていることもあって、法学の中で語られるべきものだとされ、法学の外から批判や分析をすることがなかなか難しい立場や領域だったと思うのです」「2019年3月に性犯罪の無罪判決が相次いで報道されると、その判決に疑問を持った人たちが声をあげ、後にフラワーデモと呼ばれる運動に広がったのですが、そのときに、声をあげた人たちに対するバッシングがインターネット上で起こり、法の素人が裁判官を批判してはいけない、無罪判決を批判するのは法教育が不備だからだという主張までされたのです」(63頁)という逡巡や悩みを読むと、法(学)を専門としない人たちからはそのように受け止められてしまうのか、と感じた。
また、故意に関する理論について、多くの法学徒にとっても理解が難しく(だからこそ司法試験でも問われ)、故意の認定に関する実務も複雑なので、他分野の人ならなおさら大変だろうと思う。

性犯罪の動機について、捜査機関や裁判所における物語(「性欲という動機に駆られて」「性欲の赴くままに」)と、再犯防止プログラムにおける前提(「性暴力は性欲からではなく自分から起こしたもの」)に齟齬があり、捜査・裁判・矯正という一連のプロセスで基本的な知見や価値観が共有されていないという指摘が興味深かったし、裁判官は「その狭間に置かれつつ、責任の所在として焦点化されやすい、ある意味で気の毒な存在」という評価に納得した(64-65頁)。

研究目的での刑事確定記録等の閲覧申請が一時は不許可になった経験に関連して、「法学研究者や弁護士なら許可する可能性があると言われたこともあり、ここでも法や法学関係者との壁のようなものを感じました」という体験談に接して、なんだか申し訳ない気持ちになった。
裁判記録破棄についても言及されていたが、研究目的での資料・情報アクセスについて改善を進めるべきとの主張に同意する。


裁判官を裁く――一九七〇年代イタリアにおけるフェミニズムの裁判実践 / 小田原琳 

「公的領域における/対する女性たちの、過酷なまでの挑戦」としての「性暴力と裁判」について。イタリア近現代史・ジェンダー史学者による論考。

告訴や裁判官の忌避申立てなどの訴訟活動だけでなく、その前後において、被害者の女性がフェミニストたちの助けを得て、「自分の被害を構造的に理解」した様子が伝わってきたし、「対抗的公共圏」という概念が興味深かった。


ゲーテと裁判――嬰児殺しをめぐる詩と真実 / 石原あえか

詩聖や文豪として崇められてきたゲーテについて、近年の文献学調査によって虚構が剥がされつつあることを紹介する、ドイツ文学者による論考。
法律家や官僚としてのゲーテの「冷淡あるいは身勝手で保守的な側面」や、「イメージ戦略」「自己プロデュース」に長けていた点など、知らないことが多くて、非常に興味深かった。

ゲーテは、法学博士である父の意向により、法学部で学び弁護士をしていた経験がある。ゲーテ作の悲劇『ファウスト』のヒロインは嬰児殺しをしてしまうが、実在する事件と人物がモデルになっているとの先行研究を本論考は紹介する。
当時の刑法典であるカロリナでは、嬰児殺害をした女性は、生き埋め、溺殺、杭刺刑のいずれかに処されることになっていた。たとえそれが、未婚の女性の出産が懲役刑とされる中での望まない妊娠の末であっても。

若き啓蒙君主のカール・アウグスト公は嬰児殺害に関する死刑廃止を試みたが、枢密顧問官のゲーテが死刑維持に賛成票を投じたことで、死刑が執行されることになったという。しかし同時期、ゲーテは人道主義を標榜する詩として有名な『神性』を作っている。ドイツ文学者たちは「詩人と官僚で正反対にとれるゲーテのギャップ」に苦しみ、従来の解釈とは真逆の読み方すら提唱されているらしい。
なお、評決に関わる小論が文書館に残されていないことを指摘し、ゲーテが事後に証拠隠滅を図ったのではないかとの仮説も示唆されていた。


裁判官の熟慮と直感――アフリカ民族誌の比較視点 / 石田慎一郎

人が人を裁くことの根源的困難さに向き合う裁判官の知恵や賢明さに関する、法人類学者による論考。
私の研究関心に近いこともあって、とても面白く読んだ。

人を知る法、待つことを知る正義 東アフリカ農村からの法人類学』を再読したくなったし、先行研究として紹介されていた Heidi M. Levitt & Bridget R. Dunnavant "Judicial Wisdom: The Process of Constructing Wise Decisions" なども参考になった。
ちなみに、同じく紹介されていたカドーゾ『司法過程の性質』を買って読もうとしたら、購買履歴に存在していた。本棚を探せば出てくるだろうか。

論考の中で、アジア法学会設立20周年記念シンポジウム「賢者としての裁判官」が紹介されており、その最終成果は2024年に学会誌として公刊予定とのこと。楽しみ。


裁判官の良心 / 木庭顕

安定の木庭節(ぶし)を浴びれてよかった。


裁判官は感情に動かされてはならないのか?――「法と感情」研究を手がかりに / 橋本祐子

「裁判官は感情に動かされてはならない」という台本を覆すことを目指して、裁判官の良心と正義感覚、法的判断における共感や同情の役割に焦点を当てつつ、現代の研究動向を紹介する、法哲学者による論考。

法と感情」が大会テーマになった、2021年の日本法哲学会に参加していたので、かなりスムーズに理解できた。
註において、日本の最高裁判事の読書傾向に関する「司馬指数」「塩野指数」について言及されていたのもよかった。


裁判と時間 / 吉良貴之

本論考も「近日公刊予定」である単著の一部になるだろうと推察しており、大いに楽しみにしている。


裁判官が衡平を実現すること / 伊藤克彦

アリストテレスの「衡平」概念を手がかりにして、裁判官の法的判断と司法裁量の問題について検討する、法哲学者の論文。

私の研究関心に近い問いが立てられていることもあり、勉強になった。ただ、アリストテレスの議論や「衡平」に関する概念史に不案内だったので、十分な理解に至れていない気がする。時間をおいて再読したい。
また、法律を専門としない読者を意識して丁寧に課題意識や前提を伝えていることもあり、個人的に一番面白そうなところ(衡平の基準の問題、立法府の問題)で紙幅が不足していた感じもしたので、「現在執筆中の著書」の公刊を待ちたい。

なお、本論考に関して、山形聡志さんが以下の記事を書いている。


「バイアス」を問い直す――人間の判断と「客観性」の問題 / 松村一志

「『客観性/バイアス』という二分法に関わる知識社会学およびフェミニスト立場論(feminist standpoint theory)の議論を検討することで」「人間の判断を排除すべき歪みとしてのみ捉える真理観を問い直してみる」(155頁)、社会学者による論考。
こちらも私の研究関心に近く、非常に興味深く読めた。「人間の判断を切り捨てたり、AIの判断を排除したりというように、どちらか一方を選ぶことにはあまり意味がない。むしろ、人間とAIがどう結びつくと、どのような認識や判断が得られたり、得られなかったりするのかを具に検討し、より良い『視覚』を探ることこそが必要」(163頁)という結論にも共感する。

機械的手順だけを認め、人間の判断を切り捨てようとする「アルゴリスト的な見方」について、科学史家ピーター・ギャリソンが、人間の介入を排除する「客観性」が「認識的徳 epistemic virtue」(認識に関する美徳)の一種にすぎないとして批判していることを紹介。「機械的客観性」という美徳だけでなく、専門的訓練に裏付けられた「訓練された判断 trained judgement」という美徳が求められる分野もあり、客観性には複数の価値があることを確認する。
その上で、バイアスに関する3つの用法(統計学的用法/心理学的用法/社会学的用法)を導入し、マンハイムの知識学やハラウェイの「状況に置かれた知」などを通じて議論を整理し、「客観性=機械/バイアス=人間」という二分法の短絡さを戒めている。

なお、町村泰貴「AIによる裁判予測は裁判官の独立を脅かすか?」、成原慧「『AIによる差別』にいかに向き合うか」なども紹介されていた。


「無名」の裁き――その隙間で見るもの / 高橋ユキ

「傍聴マニアがこうじて、ライターになった」筆者によるエッセイ。

杉田宗久裁判官と岩垂正起裁判官という2名の裁判官を軸に、尋問や説諭が描写されている。「流れ作業のように終わる裁判が多いなか、こうした裁判官に出会うと心が沸き立つ」という印象的な場面を切り取っていた。

裁判を傍聴したことがないだろう多くの読者にとって、「裁判の儀礼・幻想」や「法と感情」に関する論考を、より実感をともなって読めるようになるよう配慮がされていると感じた。


心理学からとらえた裁判官という存在 / 綿村英一郎

「裁判官は一般人とどう違うのか?」「裁判官はAIと置き換わりうるのか?」「裁判官らしさとは何か?」を問う、心理学者による論考。

2番目の問いが、私の研究関心に特に近く、興味深かった。また、論考中で紹介される調査(例えば、向井ほか「裁判におけるAI使用への支持の程度と規定要因」)、共感的なAI裁判官が人々から受容されるのかに関する実験も勉強になった。
ただ、実定法や裁判実務に関係する記述、共感と信頼の理論的関係、正義論、それらに伴う調査設計部分が気に掛かってしまい、うまく読み込めない部分も多かった。再読をしたいと思う。


裁判官の「感動」物語――法の道徳化とメディアコンテンツ化 / 岡沢亮

ソーシャルメディア上の動画に対する人々のコメントを分析して裁判官像や役割期待について検討する、社会学者による論考。

筆者も指摘するように、法と道徳の関係は、法哲学の主要論題の一つだが、同時に、メディア論における論題でもあり、法や裁判や裁判官の表象をめぐる研究として行われてきた。
本論考では、タイトルにある通り、判事を法専門家としてというよりは人として道徳的に称賛しているとの分析が示され、感動を与えるメディアコンテンツとして扱われていると評価されていた。


〈裁き〉のドラマトゥルギー――舞台芸術から考える自己と他者の弁証法 / 本橋哲也

ギリシャ悲劇、シェイクスピア演劇、南米映画、韓国ドラマという4つの舞台芸術を通じて〈裁き〉の諸相を分析する、カルチュアル・スタディーズを専門とする研究者の論考。

裁き/捌きは、共同生活を営む人間たちの、自己と他者の対立と融和として捉えられいた。『アンティゴネ』、『ヴェニスの商人』、『鳥の歌』、『未成年裁判』という作品を通じて、自己と他者との弁証法が探索されていた。