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ゆるさざるもの

観るは見るに含まれているし、聴くも聞くに含まれている。微妙なニュアンスの違いはあれど、こだわりがなければ後者一択で間違いない。

同じように赦すも許すに含まれているが、調べてみると実は大きな違いがあった。許すはこれからの行いを許し、赦すは過去の行いを赦すらしい。ただ常用漢字外なので新聞などでは許すに統一されている。

正義は弱い者いじめを許さない。

この視線は未来を向いていて10年後も100年後も変わらないだろう。近しい人が弱者の立場から脱却できた途端に弱い者いじめを容認するようでは正義とは呼べない。

正義は弱い者いじめを赦せない。

赦すか赦さないかは実際に虐げられた人が決めることだ。当事者でもないのに反省の色が見えるとか言って赦しを与えようとするなら「お前、何様だよ」となる。

怒りの理想的な終着点は赦しである。自分のことで怒っているならどこかで「もう、いいや」と赦すことができる。もちろん一生赦さないつもりならそれでもいい。相手はそれだけのことをした。

しかし、他人のために怒る場合はそうはいかない。未来に起こる同様の罪は当然許さないだろうし、誰かが過去に犯した罪を赦す権利は当事者にしかない。不倫の謝罪会見なんかは行き場のない怒りを鎮めるためだけの不毛な儀式と化している。

正義感で怒ってはいけない。ブレーキがないのだからアクセルを踏んではならないのだ。