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さようなら

最終回みたいなタイトルだが、そうではない。これほどありふれた言葉なのに久しく使っていないことに気づいたのだ。小学校の帰りの会でテンプレート的に「先生さようなら」と言っていたのが最後だった気がする。

語源を調べると「左様ならば」が変化したものらしい。それまでの会話を切り上げて、あとに続く「ごきげんよう」や「また明日」などの挨拶につなげる接続詞として使われていたようだ。

つまり、この言葉自体に意味はない。単純に接続しているだけ。重要なのはあとに続く言葉のほうなのだが、なぜかそこが省略されている。こういうところは実に日本人っぽい。

言うまでもなく別れの言葉である。ただ、省略されている言葉によって微妙にニュアンスが変わり得る。

「左様なれば、これにて御免」
「それでは、ごきげんよう」
「さようなら、また明日」

これらは再会することが前提になっているように感じられる。別れは一時的なものであり、軽い気持ちで交わされる日常の挨拶だ。
では以下のように言葉が続くならどうだろうか。

「さようなら、お元気で」

別れの挨拶には違いないが、今生のお別れ感がある。再会を期する挨拶とは一線を画す。

だから僕はこの言葉を気軽に使えないのだと思う。使うとしたら二度と会えないことを確信しつつ、それを相手に伝えねばならないときだろう。