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天国にはwi-fiがあるのにパスワードを誰も知らない

ばーちゃんは勉強熱心で読書家、音楽が大好きでいつも気高く、自立した祖母だった。
幼少期は大きなお屋敷から送迎付きで女学校に通い、習った歌や踊りでたくさんの軍人を見送ったのだといつも話していた。

ばーちゃんは旅行が好きだった。2人の息子が独立したのちに祖父と離婚してからは、1人であらゆるツアーに参加し日本中の離島を巡った。「日本はもう行き尽くしたわ」と70歳を過ぎてからも中国や韓国へ行っていた。どこへでも1人で行って、その土地の文化や歴史をたくさん学んでいた祖母だった。

ばーちゃんが1人で住む家にはたくさんの本があったがその中に小説はまるでなく、歴史や政治、社会学、自己啓発などの書物がほとんどだった。自分が読んできた本の感想を細かくメモして残していた。

娘が欲しかったばーちゃんは私を娘のように可愛がってくれていた。でも札幌と東京で離れて暮らしていたのでほとんど年に一回、お正月にしか会えなかった。ばーちゃんに会うとき、私はいつも人見知りで緊張していた。
それでも私の親族の中で最も文化的な人であるので、ばーちゃんと話すことは昔から好きだった。

私が「歌舞伎を見てみたい」と言っても、歌舞伎は新しすぎる歴史を小馬鹿にしている、という無知な平成生まれにはまるでピンと来ない主張で、「能と狂言と人形浄瑠璃しか見に行かないのよ」と頑なであった。
いつだかばーちゃんと人形浄瑠璃を見に行ったとき、ばーちゃんはとても真剣に観劇していたが、私には何がなんだかわからなかった。

ずっと東京で暮らしていたばーちゃんもいよいよ一人暮らしが限界だということになり、息子たちが暮らす札幌へ来ることとなった。
迷惑をかけたくない・一緒に暮らしたくないと頑固だったばーちゃんは、88歳でいきなり知らない土地の老人ホームで暮らすこととなった。
とても辛かったと思う。
その頃のばーちゃんのメモ帳には、東京へ帰りたいことと、息子2人に対する恨み辛みが幾度も記されていた。息子2人、つまり私の父親と伯父は若い頃は素行が悪く、祖母は何度も学校や警察に呼ばれていた。更に大人になってからは2人とも北海道へ移住してしまい、祖母をずっと独りきりにした。祖母は寂しいなんて言葉はひとつも言わなかったが、私が数か月に1度電話をするときは2時間話し続けた。電話がなるべく長く続くように、時には何度も同じ話を繰り返した。私は幼いながらも祖母の積年の寂しさを感じずにはいられなかった。

ばーちゃんが札幌に来てから2人でお寿司を食べたり、蕎麦を食べに行ったり、買い物に行ったりした。ばーちゃんは札幌の蕎麦屋で初めてニシンそばを食べた。「こんなのがあるのね」と驚いていた。東京育ちのばーちゃんは田舎そばを食べて「鬼が食べる蕎麦みたい」とも言った。
2人で出かけたとき、別れ際にとても寂しそうにするので胸が痛かった。

私が家でピアノを弾いているとばーちゃんはそっと後ろで見守りに来て「あんたいいじゃないの」と言ってくれた。
私が民謡の伴奏をし、ばーちゃんが歌った。
91歳、明るくて伸びやかな歌声であった。

ばーちゃんは95歳まで本当に気高く生きた。誰にも迷惑かけないから、とその言葉通りに連休が終わってから突然ガタガタと容体が悪くなり、あっけなく死んでいった。私はばーちゃんがそんな状態にあることも知らず、母から連絡があって深夜病院に駆けつけたときには、もう遅かった。
最後の最後を見届けた身内は誰もいなかった。
看護師さんからは苦しまず穏やかに、静かに息を引き取ったと言っていた。

ばーちゃんは、最後の最後まで1人で生きた。
私にとってはいつもお洒落な可愛い祖母であった。

ばーちゃんと暮らしてみたかった。
ばーちゃんの持っている文化や歴史をもっと知りたかった。

ばーちゃんの最後のメモ帳には「茜ちゃんと話がしたい」と書いてあった。
ばーちゃんの衣装箱には私がプレゼントした靴下が綺麗に風呂敷に包まれて残っていた。
とても悲しくて、とても寂しい。
私も、ばーちゃんと話がしたい。

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