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家、人の境界の曖昧さ

近年、古民家のことがよく話題になります。空き家問題や古民家の再利用がされたりと時折メディアでも取り上げられます。

ちょっと思い出したことです。確か桑子敏雄さんの本だったと思います。

日本での境界、ゾーニングの曖昧さが語られていました。例えば、障子を思い出してほしいのですが、紙一枚で部屋や外を区分けしていますね。紙ですから、音や気配などもわかります。また、神社の紙で作った紙垂(しで)も神聖な場であることを示すのに、お祭りなどでみかけますね。それもずいぶん簡単な、といったら叱られそうですが、ゾーニングとしては曖昧というか、記号的なもの。しかし、それで成立しているわけです。日本の文化、あるいは家屋は境界の曖昧さを含みつつ成立していて、それはある意味オープンな文化だったと言えます。近所の人が調味料を借りに来たり、近所の子が家に入ってきたり。もうずいぶん前のノスタルジーでしょうか。

しかし、近代化するにつれて障子的な曖昧なゾーニングが、コンクリートのようなはっきりとした強固なものに変化していく。と同時に、人間関係にもあてはまる。私たちの人間の捉え方も、内と外をはっきりと区分け、分類化するようになる。あるいは個人主義化されていく。

古民家や田舎がブームになるのは、ある種の近代性への抵抗でしょうか?(とはいえ、田舎は田舎でそんなノスタルジーが今でもあるとは思わないのですが…)。そんな話を思い出していました。

この話は大きなテーマにつながっていくのでここまでにしますが、このnoteやsnsのつながり方も興味深いです。まだ考えがまとまっていないですが、ちょっと考えてみたいところです。


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