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調和について(魔女の宅急便)

 私の友達の大好きな”魔女の宅急便”を見終えたところだ。子供の頃見た記憶が少し蘇っては来たが、やはり名作は見る時期によって味が全く違う。新しい映画を見る気分だった。今の私がキキを見て感じたことは、嬉しさでももの惜しさでもなく、悲しみと虚しさだ。
 私がこのように感じることが一般的な理知にふさわしくないとしても、少なくとも私という人間の思う理知には合うことを願いながらキキについて少し書いてみたい。

 その前に、簡単に内容を紹介したい。主人公である魔女のキキは近代社会をいきている魔女の一人だ。この世界の魔女は13歳になると親から独立し、1年間を他のまちで暮らしながら修行をしなくてはならないという古い伝統がある。キキはその伝統に従うために、友達のジジ(キキが魔女であるがゆえにジジの言葉を理解できる)とともに、海が見える街に住み着く。パン屋さんのオソノさんの好意に甘えて、魔女としてできることが飛ぶことしかないキキはパンの配達の仕事をするようになる。しかし、ある瞬間からキキはジジの言葉を理解できなくなり、飛ぶことすらできなくなる。憂鬱な日々を送る中、街に不時着していた飛行船が、突風に負けて飛んで行ってしまいそうになり、飛行船と地上を結んでいた唯一の縄に人々はしがみ付く。大きな飛行船であったがゆえに、たった数十人の力では飛行船を止めることができず、飛行船はそのまま飛ばされる(空にまっていったというよりかは、ある程度浮いた状態で空中をさまよっていたといった)しかし、その飛行船を止めようとして縄を捕まえていたキキの友達のトムは、一人だけ縄にしがみついたまま、飛行船とともに空中に浮いている。キキは再び魔法を使えるようになり、箒に乗ってトムを救い、街の皆の喝采を受けながら降りてくる。

 宮崎駿監督が好むように思われる調和(私はそう信じている)というテーマに重点を置くと、美しくハッピーエンドな作品だとみなすことも可能だ。幼い頃の私も、そう思ってたようだ。だが、今回はこの映画を見てとてもやるせない気持ちになった。

 まず、宮崎監督が意図したかはよくわからないが、(この映画の原作の小説もあるらしいが、その小説は読んでないため、純粋に映画からのみ意味を探りたい)この映画では男性の魔法使いは言及されない。魔法使いと魔女の差を考えたときに、魔法使いとは、今を生きる若者ならハリー・ポッターを思い浮かべるように、ファンタジー小説や映画に登場する”中立的な”意味の、魔法を使える人間、というイメージが強い。しかし、魔女はそれと少し意味が違う。西洋の魔女とは、白雪姫のりんごに毒を塗る、年老いて邪悪な魔法使いの女性というイメージが強く、歴史的事実においては魔女狩りの対象としてのイメージもある。宮崎監督の作品は全体的に西洋を背景とする映画が多いが、この映画の背景が西洋的であるということ、そして、魔法使いという呼称が使われず、男性の魔法使いが言及されない世界観であるということ(キキの親からすぐ理解できる。キキの父は車にのり、キャンピングを準備する一般的な人間男性に描かれる一方、母は常に魔法の薬を製造する姿のみ描かれる)。そしてキキが街に定着するように協力してくれたパン屋のオソノさんは日本式の名前ではあることは言えるが、オソノさんの名前のみを日本的にすることで、主人公のキキや、トム、ジジは西洋的な名前であることを対照を利用して強調しているのではないかとも思える。監督の優しさとも言えるだろうか。
 つまり、筆者が思うには、「魔女」という単語が使われたのは監督が西欧社会における魔女を想定していた上であえて取り上げたということだ。

 このような観点からの”魔女”という概念を前提により話を進めると、魔女であるキキは実家で近代的な機械などに接する機会はほぼない。父の車があるが、車に乗る姿は描かれず、ラジオも親(多分母であろう)により禁止され、聞きたいときにはいつでも聞けるという条件ではなかった。しかし、修行のために旅立つ際にそのラジオを手に入れ、家を出る瞬間からキキの周りには、機関車や車、信号、巨大な都市、街の規則を守ることを強いる警察官、そして同じ街にすむ個人的な人間たち(キキが箒から降り、”この街に住みたいです。住まわせてください”というが街を歩く人々は、”あ、、そう”のような生ぬるい答えとともに、なぜ私に許諾を得ようとするのだろう、という顔をして通り過ぎる)と向かい合う。つまり、キキが向き合った状況とは近代文明の発達、あるいはそれに起因する文明のシステムである。しかし、それとは相反する魔女、つまりキキは伝統を表すとも言えるかもしれないが、近代と対照的な”伝統”という単語だけではとても説明がつかない。
 私はキキから“差異”を感じた。人間が電車と車、自転車と飛行船で移動する一方、キキは箒にのり、人間の社会では幼いとされる年である13歳(作中、ホテルで泊まろうとするが13歳であるという理由だけで保護者はいないか、身分証はないか、と聞かれる。あるいは13歳なのにもう仕事をしようとしてるところが捗々しいなどという話をされる場面が描かれる)に、家を出て一人で稼ぎながら生活をせねばならなかった。猫と会話もできる。言語(共通する言語を持つが、猫と話ができる)、習慣、職業と何一つ作品の中の人間と同じところがない。
 あえて”魔女”という存在が使われたことは、魔女が温故知新の”故”を意味すると思うよりは、人間や文明そのものと対比される存在、とみなす方が合理的なように思われる。

 言い換えれば、魔女は一般的な人間とは異なる存在、この社会に例えるならば、違うという理由だけで注目をあび、ある地域では一般的な習慣やルール(その習慣やルールがアイデンティティに関わるものであろうとも)に従うよう強要される”異なる存在”、つまりマイノリティーとして描かれたとも読めるだろうとのことだ。

 この”異なる存在”であるキキは、トムという近代的(科学が好きな)人間を救うことで英雄となり、キキに規則を守るよう警告をした警察官とも仲良くなる。(エンディング・シーンに少し映る場面による推測だが)おばあさんが精誠を込めて焼いたパイが嫌いであった女の子とも、円満に過ごせるようになる。
 私が一番悲しくなった場面はこの幸せなはずのエンディング・シーンだった。その理由の一つは”異なる存在”が近代の人々と完璧に適応できるようになるきっかけが、”命”という共通する媒介を通した危機一髪の状況とそれを乗り越える英雄的な行為を通して演出されたためであり(調和に重きを置けばトムへの人間愛とみなすことも可能だろう。しかし、トムでなくともキキは自分を犠牲にしながら助けにいっただろう。そしてそのことによって街に溶け込めるようになるだろう。)もう一つは、キキは魔法が再び使えるようになり空を飛べるようになっても、ジジとは話が通じないまま映画が終わってしまったためであった。

今この世界に存在する数えきれない(魔女のように、彼らだけのあるものを共有している)”異なる存在”はマジョリティー社会で大事とされる価値を大いに肯定するような振る舞いをし、それを認められなくてはその社会に溶け込めないという現実(かなり暴力的な同化主義的とも言えよう)と、そのような機会が与えられるのも、機会を掴み行動するのも現実的に可能性がとても低いという事実。さらにキキとジジが会話を交わせなくなったように、社会に適応するためには、彼らが持つ自分のアイデンティティ(ジジと会話をできなくなることは、魔女としてのアイデンティティの一部を失ったと皆しても大げさな解釈ではない)をある程度失うとしても、それは仕方ないという現実が作品に描かれていたためだ。

 ”郷にいけば郷に従え”という言葉は、今もよく使われる。英語でもあるこのことわざは(When in Rome, do as the Romans do)”ローマ帝国”が存在していた時期にのみ、啓蒙主義以前の時代にのみふさわしい言葉なのではないだろうか。ローマの外部からの人間ががローマという世界を圧倒する帝国の心臓部に入り、生き抜くためには、ローマが適用したルールを従わなければいけない暴力の蔓延する、人権の概念のない時期であったのだ。その掟が、外国人であったらプールに入れない、東洋人は椅子に座れない、ムスリムはヒジャブをつけられない、などといった暴力的な掟であろうと、その時代を生きるものなら従わざるをえなかっただろう。しかし、我々が生きる現代はいかなる時代であろうか。”自由”という単語は、友達同士の駄洒落でも使われる時代である。
 だが、我々はまだローマ帝国の傘のしたで生きているように思われる。そしてその傘から逃れることは、魔法の箒にのって街の人々が皆見ている中で、命を救わななければいけないくらい難しいことなのかもしれない、という事実が私の視界を滲ませた。

 自分の大切なものを切り離さなくてはいけない状況におかれたものが、あるいは既にそうしたものが、もしこの書き込みを読んでくれるのであれば、こう伝えたい。
 あなたが悪いのではないですよ、と。

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