地域おこし協力隊の存在意義

私、地域おこし協力隊をやっていました

「地域おこし協力隊をやっていた」ということを、行政職員になってから積極的に言ってこなかったんですが、これから言っていきます!
という謎の宣言から始めます。笑

これまで発信してこなかった理由が明確にあるわけでは無いんですが、改めてあの3年間を振り返った時に、身に付けたことや経験したことが、今、職場でかなり生きているな、と思えていることが大きいのかもしれません。
あとは、何と言っても今の仕事が「地域おこし協力隊業務」だからです。隊員側と行政側、どちらも経験したうえで行政側の協力隊担当者になる、って、かなりの確率じゃない?って密かに思っています。
期待されているのか、たまたまなのか、真偽は不明ですが(笑)自分の経験を生かして出来ることがあるならば、全力でやりたいと思うわけです。

協力隊時代の話

<協力隊時代>
2016年4月~ 岡山県笠岡市 地域おこし協力隊として着任
2016年9月~ 庄屋屋敷とくら(カフェ部門)オープン
2017年1月~ 庄屋屋敷とくら(ゲストハウス部門)開始
2019年3月  協力隊任期満了に伴い、故郷の諫早(いさはや)市に帰郷

超ざっくりですがこんな感じで活動をしていました。
カフェもゲストハウスも、それ自体をしたい!というわけでは無く、「人が集まる空間づくり」をしたかったので、そのツールとしてカフェやゲストハウスを使って実験のようなものをしていた、という感覚です。なので、カフェ×○○、宿泊×○○のように、色んな企画を立ててました。

例えば… 田植え&稲刈り体験、WWOOFの実施、歌声喫茶、映画観賞会、ピザ窯づくりワークショップ、ピザ焼き体験会、外国人ゲストと地域住民との交流体験、ヨガ教室、マルシェ、…などなど。

今考えたら、本当に好きにさせてもらいました。もちろん苦しいこともあったけど、「楽しかったこと」「苦しかったこと」どちらも両方大事な経験だったなと、今は思えるから不思議ですね。

地域の方々にも本当に良くしてもらったなと思います。

隊員を卒業→ふるさと諫早へ

協力隊は最長で3年が任期なので、任期終了後にその場に残って定住するか、違う選択肢をとるかは、隊員なら誰しもが経験する選択だと思います。悩んだ末に、私は生まれ故郷である長崎県の諫早市に戻ることにしました。

戻った大きな理由の一つは、実家の父母の存在です。大学卒業後から20代後半まで、結構好き勝手させてもらって、まあ心配をかけていたんだと思います。それと、高齢になって病気がちになったことも一つの要因ですね。

もう一つは、稲垣先生の言葉かな。隊員3年目の7月に起こった西日本豪雨のときに、笠岡市も被災して、ボランティアセンターを立ち上げたんですが、その際に、新潟中越防災安全機構の稲垣先生(現在は機構の理事兼ふるさと回帰⽀援センター 副事務局⻑)が来てくれました。運営していたゲストハウスに宿泊してくれて、夜に話す時間があって。

協力隊の制度の一番大きな意義は、地域で活躍していく人材が育つこと。それはどの地域だっていい。地域を元気にしていくんだという志がある人が、日本中に増えたら絶対楽しいよね。

この言葉があったから、岡山から離れる決心ができました。

長崎に戻ってからも何度か稲垣さんにはお会いしましたが、変わらずバリバリ活躍されてました。

諫早に帰ってきてからの話はまた今度!

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