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対談 都築潤×南伸坊×伊野孝行    第3回「芸術やるんだったら絵なんて描いてたらダメだった」


都築潤さんは対談が始まる前に「なんでぼくが誘われたんですかね」とボソッとつぶやいた。「いや、伸坊さんは、都築さんとしゃべりたいって言ってましたよ」と私は答えた。これは本当。それに伸坊さんには、都築さんに対するちょっとした疑問があったのだ。対談をはじめて1時間くらい経過。缶ビールを1本空けたくらいの第3回目です。(構成:伊野)

憧れの空間デザイナー

伊野 都築さんは大学はデザイン科ですか?

都築 ぼくは空間演出ですね。

伊野 じゃあ、最初からなりたいものがあったんですね。

都築 ディスプレイデザインっていうのかな。もし、美術大学行くならそう思ってました。流行ってたんですよ、カフェバーのデザインとか。80年代は。

 空間デザイナーってバブルの時は流行ったよね。

都築 それだとお金がすごく儲かると思ってたんですよ(笑)。

 伊野くんと都築さんは幾つちがうの?

伊野 10歳くらい。ぼくが1971年生まれで。

都築 ぼくが1962年だから9歳違いですね。

伊野 ぼくと伸坊さんはふた回り違うので、3人の間は10コくらいづつ違うんですよね。話すのにバランスがいい。その意味でも、都築さんが「今日はなんで自分が誘われたんだろう?」っていう疑問の一つは解消されたと思いますね(笑)。

都築 あははは。

伊野 伸坊さんが都築さんとしゃべってみたいっていう、たっての希望だったんですよ。いや、その前に伸坊さんは、理事会(東京イラストレーターズ・ソサエティの理事会)で会う都築潤さんが、何もしゃべんないめちゃくちゃ暗い人だっていうイメージがあったみたいで(笑)。

都築 自分が理事になった時は、大御所しかいかなくて、和田誠さん、山口はるみさん、安西水丸さん、長友啓典さん、峰岸達さん……あと自分のちょっと上が井筒啓之さんしかいなかったから。それはそうとう自分には重いですよ。

伊野 ぼくだってそこにいたらずーっと黙ってます(笑)。みんな優しい人ばかりなんですけどね。でも、伸坊さんと都築さんの共通するところはゲラ(よく笑う人)だなって思ってるんですよ。俺の知ってる都築さんは、めっちゃ明るい人なんですけどね。

都築 だって、そんな状態で笑えないですよ(笑)。

 全然笑ってなかったよね(笑)。

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伊野 で、伸坊さんがリリー・フランキーさんの本を読んだみたいなんです。そしたら、都築さん出てくるじゃないですか。完全に頭がおかしいキチガイとして(笑)。

 すんげー好意的に書いてるよね、変わったやつみたいな(笑)。

伊野 好意的に(笑)。そう、それで伸坊さんは、理事会で黙って暗い顔をしてる都築さんと、頭のおかしい都築さんが結びつかなかったみたいで。

都築 よく言われるんですよねぇ(笑)。あれは確か『popeye』かなんかで連載してて、変なこと書かれても、世の中からすぐになくなるからいいやと思ってたら、単行本になって、これがまたすごく売れたからぁ(笑)。いろんな人に言われるようになって困ってきたんですよ。

同居人リリー・フランキー

伊野 学生時代に一緒に住んでたんですか?

都築 一年くらいですね、同居してたの。あの人は必ず人と暮らしてたんですよ。後輩とか。そこが空いたから僕が入ったというだけで。

伊野 本に書かれてることはまったくのフィクションなんですか?

都築 まったくのフィクションって言っても誰も信じてくれないから(笑)。

伊野 都築さんの絵はけっこう頭おかしい感じですけどね。

都築 あー、絵に合わせてくれてたのかもしれないですね(笑)。
 
 秋山道男ってね、高校の同級生なんだけど、2年前に亡くなって、去年お墓に入れるっていうんで集まって、リリー・フランキーさんも、その時来ててちょっと秋山とのことは聞いた。都築さんは秋山とは関係ないの?

都築 ええ、ぼくはなかったですね。秋山道男さんはいろんなことの仕掛け人みたいな人でしたよね。リリー・フランキーは秋山さんにいろんなことを教わったんじゃないですかね、たぶん。

伊野 ぼくは都築さんが「イラストストレーション」誌で連載してた『人情紙風船』という見開きに、なぜかリリー・フランキーという人も一緒に描いてて、それで名前を知りました。最初は都築さんにオマケにくっついてるみたいな印象だったんですよね(笑)。

1994_人情5

■『人情紙風船』

都築 あの時はまったく有名ではなかったですからね。でも文才がありましたね、当時から。

 明らかにあるね。比喩が面白い。いきなり、パッパッと出てくる会話のスピード感も、発想が最初っからそういうんだろうね。無理して書いてやれっていうんじゃなくて。秋山もそういうやつだった。

都築 ああ、そうだったんですか。

 言葉のセンス。飛び方が面白いんだ。秋山の場合はダジャレなんだけど、それを発想につなげるみんなが考えてないようなとこに飛躍して、そこについて来させる話術だね。プランナーとかには一番もってこいの才能なんですよ。あの人が来ると、話が違う方に広がっていくっていうんで、どこに行っても重宝される。最初は映画の世界にいたんだけど。

都築 最初は映画だったんですか?

 「若松プロ」ってエロ映画の。

都築 若松孝二のとこにいたんだ。

南 新宿でフーテンやってたんだよ、通いの。

伊野 通いのフーテンですか(笑)、家があるってことですか?

 だいたい地方出身者が家出してきて、泊まるところないから、新宿のグリーンハウスって、つまり駅前の芝生(笑)に寝っ転がってシンナーやったりしてんだけど。秋山はそういうの面白がって友達になったりして、それで夜になると家に帰ってお風呂に入る(笑)。

都築&伊野 あははは。

 渡辺和博は広島から上京して、写真学校に行ってたんだけどさ、グリーンハウスに行って、「ちょっと写真とるからキスして」ってアベックがキスしてるのを撮って500円やったりして。本当にフーテンやってた人はそのまんまになってんだろね(笑)。

都築 通いのフーテンってあるんですね。

 そう、その頃からある。

伊野 その頃から(笑)。

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■シンナーを吸ってる新宿のフーテン。この中には”通い”も混じっているのかもしれない。

芸術やるんだったら絵なんて描いてたらダメだった

伊野 都築さんは、大学でて、すぐ予備校の講師になったんですか?

都築 すぐですよ。

伊野 空間デザイナーになるっていう夢はどうなったんですか?

都築 えーとね、あの、ぼくは武蔵美にいて、彫刻科や油絵科の友達もたくさんいたんだけど、誰一人絵を描いてないんですよ。「芸術やるんだったら絵なんて描いてたらダメだ」っていう。

伊野 絵画は死んだ、みたいな事っすか。

都築 ぼくの頃よりも、もうちょっと前の世代から、芸術やるなら絵画じゃないのが当たり前だったと思います。アートやりたいし、絵も描きたいのに、なんで絵を描いちゃいけないんだ、みたいな空気があったんです。
そこへ「日本グラフィック展」みたいなのが出来たから、絵を描きたい人が集まるんですよ、どわーっと。デザイン科だけじゃなくて油絵科からも日本画科からもみんな集まって、それで盛り上がったんですよね。
「日本グラフィック展」はイラストレーターになるためにコンペではなかったんです。結果的にイラストレーターになる人が多かったけど。

伊野 「日本グラフィック展」はもともと『ビックリハウス』の「パロディ展」というのから始まっているんですか?

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■ネットで見つけた「第5回日本パロディ展」のパンフレット。同時併設「赤瀬川原平原画展」となっている。

都築 あれはね「パロディ展」で、パロディ抜きにしても技術的に高かったり、発想的に豊かだったりする作品がどんどん増えて来たから、ちょっと「パロディ展」とは分けたほうがいいんじゃない?ってなったらしいですよ。
伊野 都築さんは『ビックリハウス』とか読んだり、投稿してたりしてたですか?

都築 『ビックリハウス』はあんまり読んだ事ないんだけど、別冊の『Super Art GOCOO』っていうのを読んでて。ぼくは映画が好きだったから、古い映画のポスターをパロディにした投稿を、えーこれは面白いなーっ、て楽しみにしてたんです。そのうち会場でやるようになったのを見に行ったりして。ほどなく「日本グラフィック展」がはじまったんですよね。
最初は見に行ってただけなんだけど、日比野克彦以降ですよね、変わったのは。あれがきっかけで出すようになった人はすごく多かったと思います。

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■右が『SUPER ART GOCOO』第1回日本グラフィック展の入選作が載っているようだ。

[ 都築 註:定かではないですが、『ビックリハウスSUPER』→『SUPER ART』→『SUPER ART GOCOO』とこんな感じで誌名が変遷します。78年とか79年あたりから始まる日本パロディ展も、最初に知ったのは会場展覧会ではなくて、高校帰りに立ち読みした『ビックリハウス』の別冊の誌上発表だったんです。全部立ち読みですw]

伊野 その頃はどんな絵が多かったんですか。

都築 最初はリアルな絵が多かったんですよ。スーパーリアルみたいなの。リアルなんだけど幻想的なものやシュルレアリスムみたいなの。そういう流れがあったんだけど、第1回で大賞を獲ったのが伊東淳って人がアニメっぽい絵で「アレ?なんか雰囲気違うな」って個人的に思ったんです。
その翌々年に日比野克彦が大賞とったときに決定的に「これはアートだ!」と思ったんです。じゃあ、俺も出してみようかって。ダンボールを拾ってきてね。

伊野 マネじゃないですか(笑)。

都築 そうなんだけど(笑)、ダンボールを破ったりして、そうすれば大賞が獲れるんじゃないかと思ってたから。

伊野 素朴だったんですね。

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■都築さんをやる気にさせた、日比野克彦『PRESENT AIRPLANE』(1982年)

都築 せっせとコンペに出しても、何度やっても落ちるから。「あれ?オレ日比野より上手いんだけどなぁ」って思いながらやってたんですよ(笑)。

 あははは。

都築 そしたら、もうこっちの道に行くしかないって思って。で、イラストレーターという職業も、いろいろ知ってたんだけど、イラストファンなだけで、自分がイラストレーターになるなんて思ってなかったんですよ。

伊野 へー。

都築 80年代のあのコンペが流行ってた時は、みんなイラストレーターというよりはアーティストになるために出してたんですよ。それで中ザワヒデキともその時に出会ったし、いろんな人とも。

村上隆の日グラ攻略法

伊野 村上隆さんとかもですよね。

都築 彼はね、おんなじ予備校の講師やってたんだけど、彼はコンペには自分は出さないで、人をけしかけて出させるっていうことをずっとやってたの。そのための会議を開いたりとかね。

 ほーっ。

伊野 すごいですね。それはどういう意図でやってたんですか?

都築 研究してたんじゃないですかね、コンペを。いろんな入れ知恵を同僚とか学生にして「それで行け」みたいにね。

伊野 作戦は成果は出てたんですか?

都築 うん、出てましたよ。何人かコンペに入った人はいましたよね。

伊野 それは村上隆さんを知るいいエピソードですね。

 今の仕事の仕方がそういう感じだよね。つまり現代芸術をやるんだったら、現代美術のマーケットを調べる。どういうのがメインなのか。今までの日本の前衛芸術の人たちってそういうことしなかったんだよね。アメリカに行った人たちは、まわりがそうだから、やらざるを得なかっただろうけど。

都築 そうですね、それはおんなじですね、確かに。
 
 あの、篠原……

都築 篠原勝之

 じゃない(笑)ギュウちゃんの方。

都築 ああ、篠原有司男さん(笑)。

伊野 勝之さんはクマさん(笑)。

 篠原有司男だってそうせざるを得ない。昔やったボクシングペインティングをまたやらされる。

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■去年、TV番組「クレイジージャーニー」でも篠原有司男さん(当時87歳)は「ボクシング・ペインティング」を披露されてました。「ギュウちゃんの言っていることは俺はいちいち正しいと思ったね」by松本人志。

都築 アメリカだとスクールで西洋美術史を教わるんじゃないですか。だからみんなが共通のものを知っている、というのがあるんじゃないですかね。

 そうだね、その中で出てきたその時その時の流行りっていうか、「遊びのルール」みたいなもんだよね。メインストリームっていうのはずっとあるんだろね。いまでもおんなじように。
おそらく絵を買う人との関係だと思うんだよ。金持ちに批評家が意見聞かれて「今はこういうのが買いだ」みたいなこと。全部言うこと聞くわけじゃないだろうけど、やっぱり「俺が金出すんだからこういうのが好き」っていうのはきっとあるよね。

都築 うんうん。

 赤瀬川さんたちがやってた頃はね、日本に現代美術のマーケットなんてなかったから、買い手のことなんかまったく考えずにやってて、ものすごい先鋭的なものが出た。

都築 そうですよね。なんかねえ、中ザワヒデキさんが言ってたんですけど「中心から離れれば離れるほど過激になっていく」と。

伊野 おーっ。

都築 日本の美術でも、東京が中心だとすれば関西は過激になり、さらに九州は過激になる。それを世界に当てはめると、日本は過激なものが生まれる場所だったんですよね。それは現代美術の歴史の中で割と顕著に見られる、とよく言ってましたね。

赤瀬川原平とクリストのちがい

 作品の面白さと売れるというのは別なんだけど、「だって売れなきゃしょうがないじゃない」て話になっちゃうとみんなアメリカに行くんだ。「赤瀬川さんはアメリカに行こうと思わなかったの?」って聞いたら「思わなかったんだよねぇ…」って(笑)

都築 アメリカが中心の現代美術のシーンに、自分が加わるという発想が最初からなかったんですかね?

南 っていうか、むしろおんなじ事をやってたんですよね。マーケットに目を向けるという頭はなかったんですよね。

伊野 同じっていえば、赤瀬川さんとクリストは同じくらいの時期に梱包芸術を始めてますよね。

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■赤瀬川原平『押収品・模型千円札Ⅲ梱包作品(かばん)』(1963年)

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■赤瀬川原平『宇宙の罐詰』(1964年/1994年) カニ缶を開けてカニを食べた後、ラベルをはがして缶の内側に張り、ハンダで缶をもう一度密封する。レッテルが向いている外側(つまり宇宙)を、缶の中に全て閉じ込めた作品。

 クリストの作品てのは、プロジェクトに金を出させて作り上げる、ってとこに意味があるから、梱包は一つのアイデアなんだろうね。赤瀬川さんの梱包とはちょっと違う。それで赤瀬川さんはクリストと会った時にカニ缶のことを話したっていうんだけど、全然反応がなかったって(笑)。赤瀬川さんは梱包ってのギリギリ考えてって、行き着いたのが『宇宙の缶詰』って冗談だったけど、クリストはそういう事を考えたくてやってたわけじゃないからね。

都築 そうですね。

 要するにプロジェクトにしたいっていう、まぁ、資本主義の模型なのかな。クリストはそれで儲かりたいっていうんでもないんだよ、あの人は。だからお金が入ったら、次のプロジェクトをやる。


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■クリスト&ジャンヌ=クロード『包まれたライヒスターク』(1971–1995年)。妻のジャンヌ=クロードは09年に75歳で逝去、クリストはつい先月、5月31日ニューヨークの自宅で逝去した。享年84。

(つづく)


プロフィール

都築潤 
1962年生まれ。武蔵野美術大学芸能デザイン科卒業。四谷イメージフォーラム中退。日本グラフィック展、日本イラストレーション展、ザ・チョイス年度賞、年鑑日本のイラストレーション、毎日広告賞、 TIAA、カンヌ国際広告祭、アジアパシフィック広告祭、ワンショウインタラクティブ他で受賞。アドバタイジング、インタラクティブ、エディトリアル等、種々のデザイン分野でイラストレーターとして活動。http://www.jti.ne.jp/

南伸坊
1947年東京生まれ。東京都立工芸高等学校デザイン科卒業。美学校・木村恒久教場、赤瀬川原平教場に学ぶ。『ガロ』の編集長を経てフリー。イラストレーター、装丁デザイナー、エッセイスト。著書に『のんき図画』『装丁/南伸坊』『本人の人々』『笑う茶碗』『狸の夫婦』『私のイラストレーション史』など。https://www.tis-home.com/minami-shinbo/

伊野孝行
1971年三重県津市生まれ。東洋大学卒業。セツ・モードセミナー研究科卒業。第44回講談社出版文化賞、第53回 高橋五山賞。著書に『ゴッホ』『こっけい以外に人間の美しさはない』『画家の肖像』がある。Eテレの『昔話法廷』やアニメ『オトナの一休さん』の絵を担当。http://www.inocchi.net/


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