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『安楽死』合法化についての私見

現時点での自分の考えを、まとめておこうと思う。

※以下、言葉の選び方など無配慮です。
センシティブな人は読まないでください。










長くなるので、最初に結論を。

私は、『安楽死』の合法化に反対する




『安楽死』関連の言葉について

私が認識している関連用語の解釈を記す。

・消極的安楽死

終末期患者の自発的意思に応じ、医師が延命措置をせず、苦痛を緩和させる処置のみで自然死を待つこと。尊厳死ともいう。今回は取り上げない。

・積極的安楽死

本人の自発的意思に応じ、これ以上苦痛を長引かせないために他人がその命を断つこと。

・自殺幇助

本人の自発的意思に応じ、他人がその命を断つ手助けをすること。
広義では切腹の介錯等もこれに含まれるが、今回は「苦痛を伴わない安楽死を望む人」に対する意味で使用する。

なお、本文で『安楽死』と記載する場合、積極的安楽死と自殺幇助どちらも含んだ「日本で合法化が議論されている安楽死するための方法」を意図する。

『安楽死』にまつわる海外の事情

現在、積極的安楽死や自殺幇助による安楽死が合法化されている国がいくつもある。
インターネットに各種事例や情報が転がっているので、興味のある方は調べてみてほしい。

私が理解しているのは、(国により様々だが)今のところは世界中どこへ行っても『死にたいときに』人の手を借りて合法的に死ねるだけの自由はない、ということだ。

『安楽死』を望む患者が、その意思を医師へ伝える。伝えられた医師は、本人や家族と何度も話し合い、他の解決策を探る。
手間と時間をかけて様々な角度から検討し、死ぬこと以外に解決策がないと結論が出たら、そこでようやく片道切符が渡される。
患者には、自身の意思の強さをブレずに伝え続け、それを医師に受け入れさせるだけの手間と時間が必要不可欠である。(最終決定権は患者にあるため、出発直前まで切符を破ることができる)

『安楽死』を望む人たちの事情

生殺与奪の権を他人が握らされる話だ。当たり前だが、そう易易と答えを出せるものではないだろう。
(本人は「今すぐにでも」と急いているのかもしれないが)

人ひとりの命の行末が決まるまでの間、周囲の人々にどれだけ精神的な負担がかかるのか。
今の私には想像もつかない。

日本で『安楽死』を肯定的に語る人は、ほぼ全員が「安楽死を希望する側の視点で」主張する。
死にたいときに死ぬ権利は誰にでもあると。

自死なんかより確実で安心で遺体処理も容易であることをメリットに挙げる人もいる。
本人の気持ちを汲んで、希望者には安楽死が認められるような制度にするべきだと言う人もいる。
産まれることは選べない。せめて死に方ぐらいは自由に決めさせてほしい、という主張をする人も見かけた。

私は、「安楽死を希望される側」の苦悩を考えることはないのだろうか、と不思議に思う。
自死のリスクを負う責任を他人に押し付けているだけのように感じてしまう。

安堵して。穏やかに。眠るように。
そのままいなくなる本人にとっては関係ないのか。

される側の権利、する側の道理

『安楽死』を合法化するには、手を貸す側の『人の命を断つことに対する確固たる道理』が必要だと私は考えている。法的根拠に足るだけの厳格な線引きがあって然るべきだと思う。

だが、「どんな願いでも叶えてあげましょう」と言わんばかりの主張をする自殺幇助機関が存在することを知った。スイスの『ペガソス』だ。

健康状態にかかわりなく、自分の死に方と死に時を選ぶのは健全な精神をもつすべての成人の権利だとペガソスは確信している

上掲記事を引用

これを自殺幇助機関が唱えてしまうのは、あまりにもラディカルが過ぎるだろう。
個人的に、ペガソスの主張そのものについては否定しない。その通りだと思う。死に方と死に時を自分で決めることに何の異論もない。
だがそれは「自死に限って」の話だ。

私は、自死を選択する人を否定しない。
しかし、そこに他人が介する場合は話が別だ。
先述したように、手を貸す側には、他人の命を断つことに対する確固たる道理が必要だ。
『安楽死』を合法化するには、それを満たすことができる基準を明文化しなければならない。

安楽死が認められるのは、不治の病に侵され、緩和できない肉体的・精神的苦痛に常時さいなまれている患者だけだ。しかも、本人が安楽死の希望を、他者の圧力に左右されずに十分考え抜いた上で明確に、繰り返し表明した場合でなければならない。

上掲記事より引用

合法化されている国でこれだ。
曖昧な線引きだと思う。
個人の匙加減でいくらでも解釈を広げられる。

たとえば、かけがえのない家族を亡くした人。「その悲しみは不治の病と同等」と同情する人もいるし、私なんかは「そうとは限らない」と思うが、実際に娘を喪った悲しみから医師幇助自殺に至った女性がいるらしい。

【ベルギー🇧🇪精神的苦痛者の安楽死シーン】 
85歳女性のシモーナさん。娘を亡くした悲しみが『耐え難い苦痛』だとし、安楽死を決意。身体は毎日食事を楽しみ、定期的に運動を行えるほど健康。

上掲ポストより引用

詳細は把握していないが、滑り坂現象とはこういうことではないだろうか。

死にたい人の選択肢

合法的に、ただしく『安楽死』できなければ、残る選択肢は「苦痛を伴い失敗のリスクもある自死」しかないのかというと、そんなことはない。

・『安楽死』が合法化された国へ赴き実行する
・非合法の『安楽死』を周囲に訴え続ける
・もう少し生きる道を探る

選択肢はある。
どの選択肢も苦痛を伴い失敗のリスクはあるけれど、「だから合法化」とはならない。秩序はお気持ちで成り立たない。
『安楽死』は、嘱託殺人や自殺幇助として司法にかけられるべきだ、と私は思う。

蛇足

長々と書いてきたが、私ごときが叫ぶ『道理』なんて鼻くそみたいなものだ。
合法化したい人たちが本気を出せば、道理ぐらいなんてことないだろう。
ただでさえ今は「可哀想」が強い時代だから。

ただ、2019年に起きたALS嘱託殺人事件の被告の無罪嘆願。ああいうのは逆効果だと思う(Xで見た)。
現在公判中、3月に判決が出るようだが、今把握できる情報を拾う限り、合法化各国の条件に照らしたとしても歴然たる嘱託殺人だ。

・信頼関係が薄く、利己的な理由であること(SNSでの関係、金銭の収受あり)
・胃ろうからの薬物投与で、最終的な自己決定権が患者にあったかどうかを証明できないこと

ALS患者がどうにもならない苦痛を抱えて、周囲の人間では駄目だと判断して、SNSで知り合った被告に助けを求めたのはその通りなんだろう。
結果、本人は救われたのかもしれない。けれど、

"女性の願いをかなえるために行った"
"捕まりたくなかった"
"本人が望むのであれば薬を投与しようと考えていた"

被告にとっては『死にたいと訴える人の最適解はいつだって死』なのかもしれない。
ただそこに、『人の命を断つことに対する確固たる道理』は見えない。

違法だと認識したうえで信念に基いて実行した、そういうわけでもなさそうだ。
法を犯してでも曲げられない覚悟を真っ当に示せない者に、生殺与奪の権を渡してはならない。

生も死も、自分自身のものだ。
私は、『安楽死』の合法化に反対する。

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