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『水俣曼荼羅』御用学者の学問と真の学問との戦い(日本の歴史)

 原一男監督の『水俣曼荼羅』(3部作)を3日に分割して観た。合計6時間の超大作ドキュメンタリーだが、水俣病の全体の構図が明らかになったように思う。

 当初の認識は、チッソによるメチル水銀垂れ流しによる被害として、企業と被害者との戦いだと認識していたが、それを拡大させた行政、あるいは患者認定の問題に戦いは移っていく。つまり、チッソから熊本県という地方行政、環境省という国との個人個人との裁判になって行くのである。当然、地裁、最高裁と上告に合わせて舞台は移ることになるが、これを観ていると日本という国に住むのが嫌になる。役人組織と個人との衝突は、あらゆるところで繰り返されているが、リーダー不在の日本ならでは不幸だ。

 水俣病は末端の神経障害と考えられていたが、熊本大学の浴野成生教授と、二宮正医師により、脳の中枢神経説が正しいことが医学的に立証された。最高裁もこれを認めることになり、脳の中枢神経からの「感覚障害」だと立証されたのだ。しかし、御用学者の末端の神経障害説は水俣認定を阻み続けた。つまり、水俣病の問題は、次のように捉えることができるのである。

「御用学者の学問と真の学問との戦い」

 役人に好まれる雇用学者の語源は、幕府に雇われて歴史の編纂など学術研究をおこなっていた者を指していた。現在は、権力者に迎合し都合のいい説を唱える学者のことを指す。浴野成生教授と二宮正医師はこれとは違う説を医学的に論証した。冷静で論理的な学者としての興味から水俣病をとらえる浴野教授と、患者を一人の人間としてとらえる二宮医師のペアシステムは、素晴らしい効果を発揮した。
 裁判なんかはどうでもいい。病気としては「感覚障害」の4文字で表すことができるが、美味しい食事も美味しくなく、SEXも気持ちよくない。裁判に勝っても治らない病気なんだという二宮医師の言葉には重みがある。この一言が、原一男監督が引き出したかった言葉ではないだろうか。素晴らしいドキュメンタリーだった。

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