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『日本教は日本を救えるか ユダヤ教・キリスト教と日本人の精神構造』普遍性と各民族の伝統の区別がつかない日本人(日本の歴史)

  イザヤ・ベンダサンのいくつかの連載をまとめたものだが、「日本教は日本を救えるか」というテーマで一貫した内容ではないので、一貫性のある部分をピックアップすることで、イザヤ・ベンダサンの言いたいことをまとめてみよう。

 イザヤ・ベンダサンはユダヤ人だという。彼の根底にある旧約聖書の「人間は罪の状態にある」という捉え方、あるいはアダムとイブの罪を原罪とするパウロ教の捉え方を、人間の自由意志は神への借金であると分かりやすく例えている。一文なしの人が1億円を借りたとき、その1億円は自分のものなので自由に使ってもかまわない。自由に使えるという点では、「もっている」のと少しもかわらない。自由意志もそれと同じで、あくまで自由に使える。しかし、借金はいつかは精算しなければならないという責任があり、負債だ。借金をしたものが、その借金を悪用して貸主に詐欺を働いたとしたら、これを人間最大の罪とし、「自由意志に基づいて神をあざむく、反逆する」という発想になる。

 次にイザヤ・ベンダサンは、ユダヤ−キリスト教と日本教と比較するため、日本人の牧師を登場させる。彼がアメリカの牧師を訪れたとき、アメリカ人牧師が「神よ、なにとぞわれわれの原爆投下の罪をお許しください」と祈り、続いて「わが友の真珠湾攻撃の罪も赦したまえ」と祈った。これを聞いた日本人牧師は、「全身の血が逆流し、腸がにえたぎる思いで、真珠湾とヒロシマ・ナガサキを同一視されてたまるか」と叫びだしそうになった。この例から、イザヤ・ベンダサンはこの日本人牧師をキリスト教徒ではなく、日本教徒だと断定している。つまり、原爆も真珠湾も自由意志の誤用で、それぞれが神への負債だという発想がないからだ。

 話は教育勅語に飛ぶ。
 教育勅語のような文書は、「何が書かれているか」だけでなく「何が書かれていないか」が重要だとし、「他人の人権の尊重」「反対論の発言の保障」「自由意志に基づく投票の神聖」「多数決の原理(多数決は反対者をも拘束するが、反対者はその決議に責任を負わない)」という西洋の「躾」として捉えられているような原則は掲げられていないと指摘する。
 教育勅語は明治30年代の日本社会の原則を探り、同時に現代の日本社会の原則を探る歴史的な文書で、この基準は全日本人が遵守すべき道徳的基準であり、なおかつ天皇自身をも拘束すると宣言している。つまり、天皇が発令したというより、「天皇以上の何らかの権威」から天皇が授与され、国民に伝達したものという位置づけだ。冒頭には、教育の基本は中国でなく日本の伝統にあると、中国からの独立宣言があり、教育勅語は伝統主義にはじまり、普遍主義に終わる。西洋の普遍主義とは、一国民一民族の伝統的道徳律ではなく、その文化圏内では国境と民族的境界を超えた普遍性をもち、各民族の伝統はその民族に限定されるものなのだ。しかし、日本人の考え方は、教育勅語にもとづき日本を律する基準は、そのまま世界を律する基準だという考えが強いとしている。

 そしてそれは、現代に受け継がれており、「平和憲法は人類の規範である」と、想像を絶する「入れ替え」が行われている。つまり、明治からの「教育勅語」は、現代では「平和憲法」となり、それが世界に通用する基準だと考える人さえいるという。前述のキリスト教徒である日本人牧師がキリスト教徒ではないように、日本人には普遍性と各民族の考えが区別されていないんだと指摘する。したがって、教育勅語が伝統であった明治時代と平和憲法のある現代は「システム」として考えると、日本教という枠の中での「入れ替え」されただけなのだ。これで終わらせるか否かは日本人の自由意志に委ねられていると締めくくっている。極めて本質的な論考がまとめてあり、非常に参考になった。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。