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『神道はなぜ教えがないのか』イスラム教と似ている神道(世界の歴史)

 古代から受け継がれた信仰を依然として守っている国や民族は珍しい。多くの国では、その歴史の途中において、民族宗教が一掃され、外来の世界宗教に取って代わられている。

 日本の神道や神社は、その中身を探っていくと何もない。実際の神社そのものも実質的に何もない。神道祭祀のはじまりとされる沖ノ島と奈良の三輪山には巨大な岩がある。最初の祭祀はその岩で行われ、岩陰で行われるようになり、露天へと場所が変わってきた。このように巨岩(磐座)周辺で行われる祭祀と火の祭祀がある。その後、何もない空間を作り、そこに神を封じ込めるように変化して行き、現在の神社に行き着く。
 同じようにイスラム教の場合は、立方体の建物であるカーバ宮殿には黒曜石(隕石といわれている)がある。ただし、黒曜石は格別神聖なものとはされていない。イスラム教はたった一つの閉じられた空間(一神教)をもつが、神道には無数の閉じ込められた空間(多神教)がある。キリスト教にはこのような閉じた空間はない。
 古事記にあるように、日本の神々は日本列島を生むが、神々の創造は天地が生まれた後に起こっている。つまり、日本の神道は「創造神のない宗教」なのだ。

 イスラム教はギリシア哲学の影響を受け、高度な宗教哲学を発展させ、キリスト教の哲学や神学を質的な面で遥かに凌駕していた。また、スーフィズムなどの神秘主義も発展しており、仏教の密教、ユダヤ教のカバラとも比較することができる。(井筒俊彦の東洋哲学)

 イスラム教と神道は似ている。
 モスクには内部にキブラというメッカの方向を示す目印しか存在しない。内部に神聖なものは一切ないのだ。それは神道の神社に似ている。さらにイスラム教には、キリスト教の神父や修道士、仏教の僧侶のような聖職者はいない。イマーム(導師)やウラマー(法学者)は俗人であり、聖と俗の区別はない。神道においても、指導者は出家をすることもなく、俗人のままである。また、イスラム教も神道(禊)も礼拝の前に身を清める習慣がある。
 このようにイスラム教と神道は意外なほど似ている。その理由を筆者は、双方とも、いかに神を祀るのかという問題を中心に組み立てられているからだとしている。

 なぜ、神道には教えがないのか。
 根本的な理由は神道には特定の創唱者(教祖)にあたる存在が欠けているからだ。さらに、日本の神話は途中からそれに連なる代々の天皇の物語となる。神道の場合、教えがない分、それが古びてしまうことはない。古代にできた聖典に縛られることもない。存在意義すら問われない。これは神道の長所だ。神道にあるのは、神社という神と出会う場だけだ。

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