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出猟1週間目、山で人が死んでた

藪から棒なタイトルにしてしまったのだが、事実そのまんまの出来事が起きた。狩猟を始めて一週間ほど経った頃の出来事だった。


山で絶つ命

罠を仕掛けた猟場へ、我々は毎日獲物が掛かっていないか見回りをしていた。ある朝、いつものように山へ向かうと、猟師たちが使う道の入り口に、警察のパトカーが止まっていた。パトカーの横に我々は車を止め、近くにいた警察官に尋ねた。

「おはようございます、何かあったんですか?」

すると、警察官は目を泳がせながら、「お察しください」とだけ言った。
よく見ると鑑識の人が、現場検証をしている様子だった。察するとするなら、人が死んでいる。それしかない空気だったので、ぎょっとしながら夫と顔を見合わせた。

そして、ひとまず猟場に入ることは出来ないとの事だった為、時間を置いて夕方に山へ戻ってきた。現場検証は終え、止まっていた車両はすべて無くなっていた。

人が死んだかと思うと、山に入るのが途端に怖くなるもので、山の静寂すら、なんとなく気味が悪い。森の奥に罠を仕掛けてしまった事を少し後悔しながら、細い一本道の登山道を歩いた。

これまでと比べ、特に代わり映えのない景色に「どこで亡くなったんだろね」なんて話をしながら、私はトボトボと夫の後ろを歩き、笹が生い茂った足場の悪い箇所に差し掛かった。

すると、どこからか風に乗って異臭が鼻を突いた。明らかに違和感のあるニオイ。

あぁ、本当に誰かが死んだんだ・・・そう確信を持つニオイだった。

夫に「ニオイがするね」と言い、「するね」と少ない言葉を交わし、もうこの猟場は使えないと互いに思った。そして私たちは、日が暮れる前にと、急いで、仕掛けた罠をすべて回収した。

憶測の話

事件が起きた日の登山口には、警察のパトカー以外にもワゴン車と軽トラックが止まっていた。登山口は、ほぼハンターしか来ないところで、その軽トラックには見覚えがあった。

銃を持ったハンターのおじさんの車だ。初めておじさんを見かけたのは、夫が罠を仕掛けている時だった。藪の奥に銃を持ったおじさんが見えたので、私は猪と間違えられないよう警戒した。オレンジのベストも着用していたので、恐らく猟友会の会員だと思う。縄張りとかあるのかな?とネガティブな想像を巡らせていた事もあり、何となくその時は、息を潜めてバレないようにした。

その後、何度か罠の見回りに来ると、軽トラックが止まっているので、また猟銃でもやってるのかな?と、それほど気に留めずにいた。駐車スペースでバッタリ会った事もあった。「こんにちは」と挨拶をすると、おじさんは小さな声で目を合わすこともなく「こんにちは」と返事をし、他には何も言うことなく帰っていった。

新米猟師がウロウロしていることで、何か言われるかな?と構えていたので、何もなくて拍子抜けしつつも、ホッとしたのを覚えている。

軽トラには、緑色のシートが掛けられていて、「ここに猪を乗せるんだね」なんて想像を含まらせ、先輩ハンターの生活に、憧れの眼差しを注いでいたのだ。

おじさんでなければいいな・・・と思い、ワゴン車について調べると、鑑識の車だったようで、警察とおじさんの車しか無かった事が、判明した。

ハンターであるおじさんが第一発見者である可能性も考えた。でも、その事件の日に、おじさんの姿は見ていない。思えば、猟に入る割に、いつも帰りが早かったし、いつも一人だった。

共同体の感覚

おじさんが自死した可能性を前にし、私は言いようのない無念さを感じ、後悔した。

あの日、我々が挨拶をして言葉を交わしていたら?新米ハンターです!よろしくお願いします!と元気に話掛けていたら?見回りの時間を変えていたら止められた?もっと早く発見して命を守れた?もしかしたら銃が暴発した?間違えて銃が当たっただけ?

とにかく頭の中でグルグルと、そんな考えを巡らせては、答えがない事にモヤモヤとし、ニュース欄を検索している自分がいた。

挨拶を少しだけ交わした程度の人間で、どこの誰かもわからない。顔だってうっすらと雰囲気しか思い出せない。なのに、こんなにもおじさんの事を考えている。

夫が言った。「猟師は共同体感覚を持つらしい」と。

ーーー共同体感覚ーーー

おじさんに対し、最初は警戒心を抱いていたのに、私達はいつの間にか、猟をする者同士であることによる共同体の一員と感じていた。猟友会に入っていなくとも、少数派である現代の猟師であることに違いはなく、仲間を失った悲しみに暮れていたのだ。

でも、皮肉な事におじさんは、何かに絶望して孤独を感じたからこその最後だったはず。私達は、今の社会での生きづらさを感じている。だからこそ、山の中で”生きることだけを考える時間”を作っている。

亡くなった方が、何を思ってその選択をしたかはわからないけれど、その方の思いは感じる。できるだけ人の目には付かない。でも、少しだけ見つけてほしい。そんな場所を最後にしたこと。手を差し伸べれば届く程度の距離が、まだ本当は生きていたかったことを感じさせた。

だから私たちは生きるために猟をする。

簡単に手に入る時代だからこそ感じたい大切な感覚が、猟にはあると信じている。


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