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「文芸」で書籍化を目指すには。

 2023年4月20日(木)。21時16分。

 こんにちは。井上和音です。

 お仕事疲れましたね。労働ですね。

 最近ツイッターでフォローよりフォロワーが多くて人気のアカウントの方からフォローを外すようになりました。「もう何も見たくないよ」みたいな気持ちになってしまって、フォローを外してしまいました。権威性のあるアカウントって羨ましいですね。ああ。

 小物、弱者、弱小、という三つの言葉がまるまる私に当てはまりそうな行動ですね。カリスマ性の無さ。ああ。

 カクヨム公式さんのツイートが私のタイムラインに乗っかてくることはほとんどないのですが、なぜでしょう、という話をしたいわけではなく。たまたま、「文芸」で書籍化を目指すには。みたいな記事がカクヨム公式様から、編集者さんたちの座談会ということで流れてきたのですが。もちろん、カクヨムコンテスト8『ライト文芸部門』の最終選考に残っている私にはピンポイント過ぎる座談会がなぜか開かれて、発表前にその記事が出来上がっていたのですが。

 引用をしてはいけないので、それっぽいことを箇条書きでまとめると。

・物語であることが大前提。
・どこで話を区切ったらいいか分からない物語は書籍化は出来ない。
・出来ればSFが欲しい。

 ということらしいので、『ライト文芸部門』をエッセイ・ノンフィクションで突破した私は大賞はおろか、書籍化も無理です。というのを発表前から通告されたような気がしまして。おおん。おおん。

 あ。はは。

 統合失調症ですか。もう書くなという神さま辺りからのメッセージですかね。カクヨムコンテスト8短編賞『令和の私小説部門』が確率があるのかないのか。おおん。

 疲れた時とかに、「もしもライト文芸部門で大賞を取って、授賞式とかに呼ばれて、東京に行くことになって。『交通費は出してもらえますか』とか質問しちゃっている自分がいて。『授賞式では顔は非公開にしてください』とか言ってしまっている自分がいて、それでも顔は公開されて。公開されたならば、Facebookとかで地元の友達に受賞したことを知らせて。『どうも。ご無沙汰しております。井上です。』とか投稿したりして。コメント欄には『久し振り! 顔全然変わっとらんね。作家デビューおめでとう!』みたいなコメントが来たりして」

 とか、妄想しておりましたが、がらがらと妄想が崩れ去っていきました。残念でした。東京に行くことは無さそうです。100万円欲しかったですね。「副賞の100万円って雑所得に入るのですか。それとも贈与税ですか」とかカクヨムの編集者さんに聞いている予定でしたが、それもがらがらと妄想が崩れ去って行きました。

 何のために書いていて、何のために綴るのか。

 分からないまま終わる、そんなのは嫌だ。

 お金のために書いていて、お金のために綴るのか。

 分かってるけど無料、そんなのは嫌だ。

 こういうところがダメなのでしょうね。

 お風呂場の中では、延々と色々な日本語の構文が思い付いていました。

 「わたしゃ、○○が好きだよ。○○だからね」

 「○○はね。○○で、○○で、○○じゃないといけないの」

 「ステイ! ステイ! ステイ! ゴー! ゴー! ゴー!」

 「早くこっち側の世界においでよ!」

 母国語の構文って、多分、その構文が使われた原作が背景としてすぐに思い浮かぶということから、その構文を使えば文章がいろどりを持っています。文章を読んだ瞬間から相手に画像や風景も同時に伝えることが出来るという、文章ならではの隠された力があるのかなとか思います。

 多分、単語も一緒ですね。熊本関連で言えば今は無き単語、「KK WING」という単語から、熊本出身の方は、あの熊本県民総合運動公園にある陸上競技場を思い浮かべる人も多いでしょう。企業がどんなにネーミング権を熊本県から買い取ったとしても、幼少期を陸上競技場のことを「KK WING」と呼んでいて、「KK WING」に憧れを持っていた人などは、あの陸上競技場のことを一生「KK WING」と呼ぶのだと思います。昨日、ソーシャルワーカーさんと話していて思いました。人の頭に刻まれた、気持ちの良く歯切れの良い単語となると、一度ネーミングが付いたら、それが一生使われるのだなあとか思いました。

 個人の感想に過ぎませんが。

 ちなみに、リコリス・リコイルのエンディングで「花の塔」が流れる中で、サングラスを付けて踊っている花たちが出てきますが、あれは実際にバブル期にタカラ株式会社から出された「フラワーロック」というおもちゃらしいですね。たまたまテレビで出てきたので語彙が増えました。そうなんですよね。「文章力を上げるには図鑑を読め。百科事典や国語辞典ではダメだ。物と言葉が一対一に対応している図鑑でないと、文章力は上がらないし、読み手のイメージも膨らまない」という定義を勝手にしてます。これは本当に勝手な私の定義なのですが、多分正しいような気はしますね。作家になる努力ってなんだろう、と言われたら、物の言葉を覚え続けよう。一生掛かっても終わらない努力ですから。と答えると思われます。

 今日も新たに単語は生まれ続けている。

 「フラワーロック」と言えば、リコリス・リコイルのエンディングが思い浮かぶようになりました。

 「こんにちは。年賀いやがらせです。三つほど」

 暴走族のバイクがうるさい。ごめん続けて。

 「三つほど前の記事のタイトルで

 『現在の立ち位置を肯定してくださるその姿勢、今を楽しむその言動が、私を前に向かわせるきっかけを作る。』

 というタイトルをお書きになりましたが、ぱっと見かなり良い感じのタイトルじゃないですか。しかし、こういうタイトルというかキャッチコピーっぽい文章は、それに合わせた画像なり、写真なりが背景にあったら美しい、それに見合ったキャッチコピーっぽくなると思うのです。キャッチコピーが空気を呼んでいるというか。場に馴染んだキャッチコピーというか。

 例えば。如月きさらぎ千早ちはやが、青空の下、阿蘇の草原──あえて名称をあげるならば大観峰だいかんぼうでしょうか──の草原の岬の先で、髪を涼しげな風になびかせながら、目をつむり両手を少し広げて、思いっきり息を吸い込んで、深呼吸している画があるとして、その上に。

 『現在の立ち位置を肯定してくださるその姿勢、今を楽しむその言動が、私を前に向かわせるきっかけを作る。』

 とか書いてあったら、文字通り絵になるというか。文章が最大限生かされて文章が浮足立っていなくて。先ほども申した通り、空気の読めている、場に馴染んでいる綺麗な文章になっていたかと思いますが。

 このタイトルの記事の中身が、中学校時代のゲームセンターに通っている文章なので、残念というか。せっかくたまたま文章の神さまが与えてくださった、たまたま出来た井上さんにしては神さまの力でもかりたのではないかと思うほど、爽やかなタイトルの文章だったのに。唯一与えてくださったチャンスだったかのように思われるのに。中身が……。あーもったいない」

 良い文章安打あんだ製造機にはなれないので、あのタイトルの爽やかな感じは、500記事に一回くらいの、偶然が偶然を呼んだ素晴らしい文章だったのかもしれません。特に宣伝とかもしていないけれど、あの記事だけ少しだけPVが多かったりしますし。そのくらいの力を持った文章であったでしょうに。

 狙ってやったわけでもないので、余計に悔しいような。たまたま記事の中の文章を繋げていったらあんな文章が出来ちゃいました。プロの方ってああいう文章を次々と思い浮かぶのかなと勝手に想像します。プロにはなれそうないな、とか書いたら、冒頭に書いた、「文芸」で書籍化を目指すには、を読んで大敗北をした記事の内容の伏線も回収できたでしょうか。

 如月千早という単語を勝手に使ってしまい申し訳ありません。

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