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応援する幸せを、統合失調症になって初めて知りました。

 2022年11月17日(木)。21時34分。

 はい。こんにちは。井上和音です。

 最近めっきり寒くなりました、というか、最近というか、今日、2022年11月17日にいきなり寒くなりました。朝からウインドブレーカーで、文字通り風を切って自転車をこいでいたのですが、冷ややかな風がまともに正面から受けてしまいました。

 爽やかな風と言うよりかはひんやりとした風。冬はもう近いですね。

 お風呂にも入って、もう寝るだけなのですが、今日、22:30からNHKでサッカーワールドカップ前の最後の調整になるであろう、日本vs.カナダの試合がありますね。観るかもしれませんが、眠くなったら寝ます。ワールドカップ前の試合というのは、あまりいい記憶がありません。2006年のドイツ大会の前では、ドイツに勝利して、「日本は本大会もいけるんじゃね?」みたいな雰囲気になりましたが、本大会では中村俊輔選手の一点だけで終わりました。

 2018年のロシア大会では、ガーナ戦とかの試合の情報を、閉鎖病棟隔離室にいたので、朝食を持ってくる看護師さんに「ガーナ戦ダメでしたよー。日本はどうなるんでしょうかね」とか言われていました。正直、その時はサッカー日本代表よりも、鉄板のドアに閉じ込められた自分はこれから先どうなるのか。死ぬのか? マットと紙コップとトイレとトイレットペーパーしかないこの牢獄の中で、自分は死ぬのか? みたいな状況に置かれていました。

 世界の終わりというか、人生の終わりを経験してしまった、2018年FIFAワールドカップロシア大会。一度死んだ人間として、人生が全てリセットしてしまい、また、初めから。実家に帰り、就労移行支援所という、教育上で言えば完全に障害者学級の所からスタートすることになりました。

 4年でパートタイマーでも、週四くらいで仕事に行けているのは、警察に連行されるくらいの統合失調症を経験してしまった身としては、奇跡の復活劇と言えるかもしれません。また忌憚きたんなく文章が打てる日が来るとは。哲学とか、哲学者の全集を読むようなことは、恐らく一生不可能になったかと思いますが、漫画程度なら、全巻セットで紙で買えるくらいにまで自由度が復活してきました。全巻セットで買ったボボボーボ・ボーボボもスケットダンスも、まだシュリンクを外していないのが現実ですが。

 ギャグマンガをギャグとして捉えることが出来るのか。いじめのようなギャグがあったとして、その描写に耐えることが出来るのか。正直疑問は残ります。「ただしつけもの、オメーはダメだ」みたいな理不尽に弾かれてしまうギャグなんかに耐えることが出来るのか。精神が悪化すると、普通の人が笑うような場面でも、笑えなくなってしまいます。不思議な人間になってしまいます。自分でも不思議です。小学校、中学校くらいで統合失調症並みの重症な精神疾患にかかっていたら、恐らくは勝負がつくようなスポーツに打ち込むことさえ出来なくなっていたと思います。

 相手が負けて悲しむくらいなら、自分が負けて、相手を喜ばせるほうがいいのではないか。それくらい、《《勝つ》》ということに罪悪感を覚えてしまいます。応援している人が、団体が勝つ時には別にいいのですが。

 応援って、なんのためにあるのだろう、と大学時代くらいまでは思っていました。色々批判する人にも疑問を持っていました。「今の総理大臣が悪い」と言う人がいれば「なんで批判する本人は、自分が立候補して政治家になって、総理大臣になって、『総理大臣が悪い』と言っていた、その政策を根本から良くしようとか思わないのだろうか。何かを変えたいのなら、その何者かになる努力をすればいいじゃないか」とか思っていました。

 サッカー選手を批判する人にも、「じゃあ、君がサッカー選手になって、日本代表になって、日本を勝たせればいいじゃないか」とか思っていました。

 《《言葉で批判する人に対して、根本的な原因を解決したいから批判している》》のだと思っていました。《《根本的な原因を解決しなければ意味が無い》》と思っていました。だから、批判する人と会話をすると、「いや、そこまでは思っていない。お前、変だよ。重すぎるんだよ。軽い会話がまともにできないのか?」みたいな感じで、会話の齟齬が合わないということはしょっちゅうありました。

 話がかなり逸れてきましたが、初めに戻ると、要するに統合失調症になって、何もかも上手くいかなくなって、自分は無力で、色々なことを諦める、自分には能力が何も無い、と断定し、自分の弱さを認め、自分が何者にもなれないことを悟ったときに、ようやく応援することの本当の意味を感じました。応援している人やチームが活躍すると、その応援している個人やチームから《《幸せを分けてもらえるのだ》》ということに、ようやく気が付いたのです。応援していると、応援している個人やチームが勝つと、こっちまで嬉しくなるのです。

 この感情は、統合失調症になって初めて知りました。

 幸せは少ないですが、応援すると幸せな気分になれる。この前のロアッソ熊本のJ1J2入れ替え戦の時も、幸せを強く感じました。

☆☆☆

 とまあ、なぜか応援する理由や、批判する理由を書いてしまいましたが、今日、2022年11月17日に起きたことをいくつか書いておきたいですね。

 ポーランドにミサイルが落ちた件について。ゼレンスキー大統領は、「ウクライナのミサイルではない」と宣言しました。NATOはミサイルのレーダーを探知していた、と言っていたので、ミサイルのレーダーをアメリカが公表すれば、何が正しいのかは一発で分かります。しかし、民間人の限界はここにあり。真実は明かされず、民衆がポーランドにミサイルが落下した事件を忘れてくれることを、国家の偉い人たちは考えているでしょう。

 また、他にも。

 国際パラリンピック委員会が、ロシアの選手とベラルーシの選手の出場権を永久停止することを発表しました。

 政治とスポーツは分けて考えるのが、オリンピック憲章でも示されていたはずなのですが、ロシアの選手とベラルーシの選手は永久追放というのは、何かがおかしい気がします。ロシアの選手とベラルーシの選手が何かしたのでしょうか。ミクロの問題とマクロの問題をごっちゃにして考えると、全く良くないことが常識だと思うのですが、ロシアの選手とベラルーシの選手の個人が何か悪いことでもしたのでしょうか。

 もっと言うなら、スポーツとは世界がどうあれ、どの人に対しても、どの国に対しても平等であるという精神を持つべきなのが常識なのではないのでしょうか。違いますね。私が言いたいのはこんなことではない。

 ロシアを孤立させようとする世界の動きに、とても恐ろしいものを感じます。孤立化した国家は何をしでかすか分かりません。そして、孤立化した国家は、団結心を持ち、カリスマを持つ独裁者を象徴として崇め、その独裁者の言うことに全ての人が賛成の考えを持ってしまいます。──その典型がナチスドイツでした。

 誤解を恐れずに言えば《《プーチン大統領の後が怖いのです。》》

☆☆☆

 とまあ、色々と世界では起きていますが、前半で書いた、応援することの意味に気付いたことを踏まえて、今日、並びに、サッカーワールドカップカタール大会で、日本代表を全力で応援したいと思います。選手の起用法や戦術など、もしかしたら批判することもあるかもしれませんが、日本がゴールした瞬間は、日本人全員がそうするように、私も我を忘れて喜びを分かち合うかと思います。

 頑張れニッポン! 力の限り。

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