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とおせんぼ男

南の果て島の小さなリゾートホテルは、夏のシーズンをむかえた。

お客様は、春、秋、冬のシーズンに比べて夏のシーズンは若い方々が多い。芸能人や小説家、それにひとり旅の美しい女の子もけっこういる。

僕は、このホテルの2階にあるカジュアルというより、かなり気品のあるガラス張りのレストランでウエイターをしている。

まだこの島に引っ越して7ヶ月くらいだけれど、もちろん僕も夏が大好きだ。この島の輝かんばかりの夏のためにわざわざ内地から引っ越して生活しているといってもいい。

僕の上司でもあるレストランの黒岩主任は、ちょっと変わっている。というのは、普段は生真面目なのだがゲイじゃないかと噂があるのだ。

お客様に対しても女性客より男性客に対してすっごく親切だし、僕のアパートの大家が男なのだが、毎日のように黒岩主任にデンファレーという花を摘んでもってくる。

そして、ふたりでビーチに下りて40分は戻ってこない。ときには1時間半もだ。あやしいのだ。

黒岩主任がいないときには、先輩のウエイターの恵一さんとウエイトレスの倫子さんとでそのことで笑い話になる。

夏には、よくスコールがある。その後のぶ厚い虹と言ったら、まるで夢にまで出てきそうだ。お客様はもちろんのこと、従業員も立ちすくす。世界中の皆様に見せてあげたいくらいだ。

レストランの木製の白いペンキで塗られた階段下のビーチでは、夏のシーズン限定のバーベキューがある。

今夜のバーベキューは、めずらしくたった一組だった。

支配人とそのお客様、といっても支配人が毎晩通っているスナックの女(おばさん)達だ。昼間から遊びに来ていたので彼女らは水着のままだった。

そのばかでかい笑い声は、レストランまで聞こえてきた。酔っぱらった支配人の下品な笑い声もだ。

レストランでは、お上品なお客様ばかりが20組がディナーをしていた。約3分2だ。

黒岩主任は顔をしかめていた。うっとうおしい、ディナー中のお客様にご迷惑じゃないか、というように。そのとき突然、スコールのようなどしゃぶりの雨が降ってきた。

「わあああっ」、「わあああっ」、「わあああっ」
と、大騒ぎに大笑いしながら支配人とそのおばさん達がテラスに上がってきたと思うとレストランにまで入ってきた。

黒岩主任は、顔を強張らせ支配人のところへ行ってとおせんぼをした。両腕を見事に一つの線にしたとおせんぼだ。

支配人は、
「何やってるんだっ、黒岩! 」
と、怒鳴った。

お客様たちは、いっせいに黒岩主任と支配人たちの方へ振り向いた。

黒岩主任は、
「規則ですので、水着の方はテラスでお願いします」
と、言った。

支配人は、
「何言ってるっ、オレの客だぞ! 」
と、また怒鳴った。

しかし、黒岩主任はとおせんぼしたままだ。

「いいえ。いけません」
と、バリトンのようなふかいふかい低い声で黒岩主任は言った。

まだ黒岩主任はとおせんぼをしていた。それが支配人を恐ろしく威圧しているようだった。

支配人は、ムンクの『叫び』みたいに両手を頰にあて顔がよじれたようになると、しょぼくれたように水着のおばさん達を連れておとなしくテラスに戻った。

黒岩主任はとおせんぼをやめた。そこでレストランの緊張がとれた。お客様の誰かが拍手をした。僕もつられて拍手をした。たちまち拍手喝采となった。

僕は、この騒動のことで黒岩主任に興味を持った。あのとおせんぼとはいったい何なんだろう?  恵一さんや倫子さんはあのとおせんぼとはよくあることで、誰もされたくないと言っていた。あれは狂っているんだと。絶対にとおせんぼなんかされたくないと。

それから暫くたった日の夜のことだった。

黒岩主任がゲイじゃないかという噂さを僕がしているという話が、黒岩主任の耳に入った。

僕が給士を終えて上がろうとすると、黒岩主任は僕にとおせんぼをした。

僕はその強張った黒岩主任の顔を見て、赤黒いタイル貼りの廊下にへたりこんでしまった。

それでも、なお、黒岩主任は僕にとおせんぼをずうっとしていた。

"恐怖の漆黒のオーラ、眼球のない漆黒の二つの目、口裂けた漆黒の口"

僕はあわてて、
「す、すいません」
と言い、着替えもせずに走って逃げるようにしてスクーターにとび乗りアパートまで全速力で走った。

途中、亀甲墓通りの砂利道に軽トラック(ホテルのゴミ捨て用)が、突然、道をふさいだ。僕はスクーターごと転倒した。

軽トラックから出てきたのは黒岩主任だった。そして、また僕にとおせんぼをした。

すると黒岩主任は、とおせんぼをしたまま、
「フろイで! シェーネる! ゲッテるフンケン!・・」
と、ベートーヴェンの第九「合唱」のフィナーレを大声で歌い出した。

すばらしい歌声だったが、その音程は少し外れていた。
僕は学生のとき、東京の日比谷公会堂で、大友直人指揮、東京交響楽団との共演で、第九の合唱団のメンバーの一人としてバリトンパートで歌ったことがある。

とっさに、僕は、
「黒岩主任! そこの音程外してる・・」
と、指摘した。

そしたら、黒岩主任はとおせんぼをやめて、がっくり肩を落として軽トラックに乗って、ホテルへ戻っていた。


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