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ノスタルジーという「裸踊り」

中曽根元首相が亡くなった。英国でサッチャー元首相が亡くなった時、格差怨念映画監督是枝裕和が敬愛するケン・ローチは「彼女の葬儀を民営化しましょう。競争入札にかけて、最安値を提示した業者に落札させるのです。きっと彼女も、それを望んでいたことでしょう」とコメント。


英国では炭鉱業、日本では国鉄の自由化(解体)こそ、新自由主義の始まりである。古い労働党員は、サッチャーの悪夢に後々までうなされた、という。私の知人も栄光の国鉄マンの息子で、オヤジは失職して明太子屋に出向したことに憤慨していたなぁ。

写真は1997年の映画「フル・モンティ」。失職した炭鉱職員が、ストリップをやる悲喜劇。そう、裸一貫になった時、逆転が起こるのである。昨日、最後の江戸の漢詩人大沼枕山の流れがどうなったかが、資料で掘り起こされていた。


漢詩にこだわった後継は、教育と雑誌の漢詩欄で細々と生きていった。漢詩が生きた「文学」ではなくなっていったのである。他方、父永井禾原が、当時のエリート層よろしく、漢文の学問の力を、欧化に転じて高級官僚の道を生きるのを見てきた荷風は、江戸文化のノスタルジーを語る作家・批評家として生きた。


ノスタルジーには二つあって、旧来の漢詩世界に没入し、偏愛する研究者に近いパターンと、荷風のように、「裸踊り」を上品にやってみせて作品にしていく「芸」の世界に分かれる。当然、荷風は枕山を描く時、その後継の一部にのみ光を当てる。


昨日の荷風と漢詩世界についての研究会を聞いていて、政権を批判するケン・ローチや是枝は、荷風のような「芸」になっていないと改めて思った。他方、中曽根氏は、俳句をたしなんでいて、「芸」の世界を理解していたので、国際日本文化センターまで作った。それに比べて、今の政権は教育の方にしか関心がなく、しかも表層のレベルなんだと改めて思った。


そろそろ、文学研究も、ノスタルジー(滅び)を演出する「芸」が必要なところに差し掛かっているのかもしれない、とふと思った。

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